第8話 酔いに溶ける境界線
お酒が進むにつれ、会話の内容も仕事から離れ、より個人的なものへと変わっていった。趣味や好きなもの、おすすめの作品などなど。この飲みの席だけで、今まで知らなかった碧羽くんのことをたくさん知ることができた。それだけで、今日がんばったかいがある。
お互い、それなりに杯数を重ねているのだが、碧羽くんの顔は赤みを帯びているくらいで、その眼差しは冴えているように見える。言動からも酔っている様子はない。一方、私は空腹のまま生ビールを飲んでしまったせいか、だいぶ酔いが回っているのを感じる。頬が熱く、視界がほんのり霞んでいる。
「霧島さん、彼氏とはどうなんです?」
今までの流れを無視した突然の質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
「え?あ、いや……彼氏なんていないわよ」
「そう、なんですね。てっきり……」
碧羽くんは驚いた表情を見せた。その反応に、私は少し自嘲気味に笑った。
「そう驚くことじゃないわ。仕事ばっかりしてたから、課長になれたようなものだしね」
今まで長い間見ないように蓋をしてきた思いが、お酒のせいでタガが外れてしまったように溢れ出す。
「仕事中はバリバリやってるように見せて、寂しい女なのよ。誰かと遊んだり飲んだりした後、家に帰ると誰もいないっていうね」
持ったままだったグラスに口をつけ、残っていた梅酒のソーダ割りを飲み干す。グラスを置くと、目に涙が滲んでくるのを感じる。碧羽くんは静かに聞いていた。
「でもね、最近は少し違うの」
「どういうことです?」
碧羽くんの声が、いつもより低く聞こえる。
「あなたがうちに異動してきてから、毎日が楽しいの。初めのうちは、碧羽くんみたいな能力があって口も達者な部下をどう扱っていいか悩んでいたわ。でも、大型プロジェクトの提案書のときに碧羽くんと話して、あなたのアイデアや働き方に刺激を受けていたの。そうして碧羽くんを見ているうちにね、家に帰ってからも碧羽くんのことを考えるようになっていたわ。碧羽くんは明日、どんなことを言ってくるだろう。どんなアイデアを形にするだろう。そう思っているとね、家に1人でいても寂しくないのよ」
何か、言ってはいけないことを口にしている気がする。しかし、酔っている私は、自分で自分を止めることができない。そして、タイミングよく、店員さんが注文していたはちみつ梅酒のソーダ割りを持ってきた。私は受け取ったグラスに口をつける。
「碧羽くんと顔を合わせるのが楽しみなの。あなたのこと、憎からず思っているわ」
言葉が口をついて出た瞬間、我に返る。こんな年増に思われても、迷惑なだけだろう。でも、もう後の祭り。酔いとは違う火照りを感じる。
碧羽くんは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに優しいえみに変わった。
「霧島さん。実は俺も、霧島さんのことが好きなんだ」
心臓が、大きく跳ねる。
「酔っ払いの出まかせじゃない。ずっと伝えたかった」
碧羽くんの真剣な眼差しに、言葉を失う。私は誤魔化すように、はちみつ梅酒のソーダ割りを一気に飲み干した。
飲み干したあとも、言葉が出てこない。口を開いては閉じる、まるで金魚になったようだ。
私が言葉を探していると、店員さんが伝票を持って来て、閉店時間であることを告げられる。碧羽くんはさっと財布を出すと、クレジットカードを店員さんに渡していた。そして、お会計を済ませると、私を促して居酒屋の扉へと向かう。しかも、私のカバンを持ってくれる紳士っぷり。
「危ない!」
碧羽くんの声とともに、腕を掴まれる。居酒屋の入り口の段差につまづいた私が転ばないよう咄嗟に掴んでくれたのだ。
「あ、ありがとう」
碧羽くんに腕を掴まれたまま、居酒屋の外に出る。
「あ、お金……」
「それよりさ、霧島さんともうちょっと一緒にいたい。ホテル、行かない?」
その言葉に、一瞬戸惑いを覚える。でも、酔いと期待が入り混じった感情が押し寄せてくる。
「……うん、行く」
自分の声が遠くに聞こえる。碧羽くんは私の腕から手を離して、手を握る。その手の温もりが、心地よく感じられた。
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