第6話 時計仕掛けのジレンマ
私は慌ただしく資料をめくりながら、画面に映る取引先の顔を見つめていた。朝から立て続けに入る問い合わせに、頭がクラクラしそうだった。オフィス内には、キーボードを叩く音と電話の呼び出し音が絶え間なく響いている。
「はい、承知いたしました。それでは改めて見積もりを作成し、本日中にお送りさせていただきます」
ビデオ通話を終えると同時に、深いため息が漏れた。時計を見ると、もうすぐ午前11時になるところだった。問い合わせの対応に課員の手を取られ、予定した作業がまったく進んでいない。今日の夜、碧羽くんとの約束があったことを思い出し、胸が締め付けられた。
(このままじゃ、約束の時間に間に合わないかも……)
そう思った瞬間、碧羽くんの姿が目に入った。彼も同じように慌ただしく動いている。イヤホンマイクに向かって話しながら、激しくキーボードを叩いていた。普段の余裕のある表情は影を潜めている。
(碧羽くんも大変そうね……)
私たちの目が合った。彼は声を発さずに口だけ動かした。
「大丈夫ですか?」
私には、彼の心配してそうな声が聞こえていた。私は小さく頷き返した。すると彼も安堵したように微笑み、再び電話に集中した。その仕草に、少し胸が温かくなる。
時間が過ぎるにつれ、オフィス内の空気はますます張り詰めていった。新規プロジェクトの提案書の締め切りが迫っているのだ。営業二課全体が忙しなく動いている。
昼休みの時間になっても、慌ただしさは収まる気配がなかった。私は立ち上がり、電話やビデオ通話をしていない課員から順に、昼休みの時間を過ぎてもいいのでタイミングをみて昼食を取るよう声をかけていった。
「碧羽くん。今日は昼休みの時間過ぎてても、お昼食べに行っていいからね」
彼は画面から目を離さずに答えた。
「ありがとうございます。でも、技術部からのヘルプもあるんで昼飯抜きになりそうです」
「そう。じゃあこれだけでも食べて」
私はデスクの引き出しを開け、常備していた栄養バーを一本取り、彼の机に置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
彼は顔をあげ、疲れた笑顔を浮かべた。
「今日の夜はちゃんと行くんで。霧島さんと飲むの楽しみにしてたんですから」
「ええ。私もがんばるわ」
碧羽くんの言葉に、私は少し元気づけられた。互いに励まし合い、私たちは再び仕事に戻った。自席に座りながら、今夜の約束をなんとか守りたいという思いが、私の中で強くなっていた。
午後になっても、問い合わせや相談の波は収まる気配がない。次々と舞い込んでくる問い合わせに対応しながら、時折碧羽くんの様子を確認する。彼もまた、キーボードを叩き続けている。
(約束のタイミング、間違えたかな……)
そう思いながらも、碧羽くんと過ごす時間への期待が胸の奥で膨らんでいくのを感じた。仕事への責任感と、プライベートな楽しみへの願望。相反する感情が、私の中で渦巻いていた。
「霧島さん、ちょっといいか?」
突然、第三営業部長の声がした。顔を上げると、厳しい表情をしている。
「はい、何でしょうか?」
「営業一課の受注済み案件を1つ、至急引き継いでもらいたい」
私は一瞬言葉に詰まった。時計を見ると、もう4時を回っている。約束の時間まであと3時間ほど。
「わかりました。すぐに取り掛かります」
答えながら、心の中でため息をついた。碧羽くんの方を見ると、いつの間にか技術部の部長が来ていて指示を受けているようだった。
(今日は無理かもしれない……)
そう思いかけたとき、碧羽くんと目があった。彼はぎこちないウインクをし、親指を立てて見せた。その仕草に、思わず笑みがこぼれる。
(そうよ、まだ諦める時間じゃない)
私は気持ちを奮い立たせ、第三営業部営業一課の引き継ぎ準備を始めた。時間との戦いも終盤が近づいている。キーボードを叩く音が、いつもより力強く響き渡る。
頭の中では、仕事の締め切りと約束の時間が交互に浮かんでは消えていく。しかし、もう迷う暇はない。全神経を集中して、目の前の仕事をこなしていく。
時折、碧羽くんと視線が合う。お互いに励ますように微笑み合う。その度に、心にある温かさが広がっていく。
(大丈夫。きっと、間に合うわ)
そう信じて、私は再び画面に向き直った。時計の針は容赦なく進んでいくが、もう恐れてはいない。今は、目の前のことに集中するだけ。そして、その先にある楽しみを、静かに、でも確かに感じながら。
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