第29話 三人の公達の母

 安孫は此処ここ何処どこかも分からずに、暗く淀んだ世界を歩き続けていた。何処まで行っても何処にも辿り着かず、とうとうその場にしゃがみ込んだ。もうどれくらいの時間を、こうして彷徨っているのかも分からない。此処が何処で、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からず、突如として現れた世界を彷徨い続けている。

「——はあ。此処が黄泉の国と呼ばれる所であろうか? それがし、いつの間に死んでしもうたのだろう」

 それでも死んだ実感などなく、安孫はただただ溜息ばかり吐くのであった。そこに突如として、眩い光が差し込んできたかと思うと、ぐっと目を瞑った安孫の前に、懐かしい声がした。

「——大きくなりましたね、小松しょうまつ

「え……?」

 瞼を開けたそこに、優しく微笑む女人の姿があった。

「ははうえっ……」

 俄かには信じられず、安孫は呼吸すら忘れていた。それでも亡き母との再会に、涙が溢れてくる。

「ふふ。男の子が泣いてはだめよ、小松」

 愛情を持って、女人——阿尾菜あおな御前が息子の頬をつねる。

「いたたたっ! 母上、いとうございますればっ……」

「泣かない?」

「泣きませぬ! 泣きませぬゆえ、お離しくだされっ……!」

 ぎゃあぎゃあと喚く安孫に、阿尾菜御前も笑って手を離した。それから安孫は、時間を忘れて母に甘えた。七歳で実母を亡くした安孫は、その後、道久の後妻となった北方きたのかたに、春日家の跡目の座を義弟に譲るよう、幾度となく迫られた。その度に自らが嫡男であると主張するも、位の低い貴族の出であった実母では、名門貴族の出である北方の息子らのような、強力な後ろ盾があるわけではなかった。それでも嫡男としての矜持を持ち続けたのは、父、道久からの期待があるからだ。

「父上もきっと、母上に御会いしとうございましょうな……」

 母に膝枕されながら、安孫が夢心地に言う。

「ふふ。どうかしらね。あの人は、恥ずかしがり屋だから」

 阿尾菜御前が愛おしそうに、息子の頭を撫でる。そこに、突如として朱鷺とき水影みなかげが現われた。

「おお、安孫。斯様かような場所におったか」

「まったく、日の下一の武人が、簡単に偽者と入れ替わって如何どうされます」

 嫌味宜しく、水影が言った。恥ずかしい場面を見られ、「ぎゃっ!」と安孫が立ち上がる。

「もう遅うございますよ、安孫殿」

 ばっちり母に甘えているところを見た水影によって、安孫が「あーうー」と頬を掻く。朱鷺もまた、ニヨニヨとした笑みを浮かべている。

「あら、宮様方もいらしたのですね。ならば、皆様方もお慶びになられることでしょう」

 微笑みを浮かべる阿尾菜御前に、朱鷺と水影が怪訝な表情を浮かべる。

「皆様方? 貴方様はすでに——」

「——相槌丸あいづちまるや」

 背後から聞こえた声に、水影の思考が止まる。振り返ったそこに、一人の女人が立っていた。記憶にはないものの、あい式部そっくりの美しい女官姿の女人に、「……母上?」と呆然と口にする。

「ええ。わたくしが貴方の母、すみれ式部ですよ」

「うっ……」

 思わず声が漏れた水影。生まれて一年程で流行り病にて亡くなったと聞いていた母の姿に、信じられないと言わんばかりの動揺を見せている。

「ああ、わたくしの息子は、何と可愛らしいのでしょう! もうっ、ぎゅっとさせてちょうだいな!」

「わわっ、母上っ?」

 利発な面持ちの菫式部が、大きく成長した息子を前に、感情を抑えきれない。その体をぎゅうっと抱きしめ、離さない。

「は、ははうえっ、お離しくだされっ、主が見ておりまする!」

 赤面する水影に、朱鷺が純粋に笑う。

「良かったのう、水影。母御に会えて」

「——時宮ときのみやよ」

 朱鷺の背後からも、懐かしい声がした。振り返ったそこに、亡き父母——夕鶴ゆうかく帝と紫陽花宮あじさいのみやが立っていた。

「母上……! お懐かしゅう!」

 父、夕鶴帝には目もくれず、朱鷺が母の下へと走っていく。その手を取り、「お美しゅうございますなぁ、母上」と実の母を口説く。

「これっ! 紫陽花宮は俺のものぞ!」

「なに。斯様かような堅物帝より、時宮の方が愛らしゅうございましょう? 母上」

「おい、小僧の分際で我が后を奪おうとするでないわ」

「ふん。鶴の世は、とっくの昔に終わりましたぞ。今は朱鷺さえずりし世。私の世にございますれば」

 つんと、朱鷺がそっぽを向く。実の父との再会など、何の感動もないかのようだ。

 三人が懐かしい身内との再会に胸が高鳴るのを、偽世にせよにて理想の世界を築こうと目論む黄呂おうろが、したり顔で笑う。その隣には大天狗の姿があるも、偽世を作り出した黄呂に、そっと目を伏せた。


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