第9話 “後宮の文官サマ”

 辺りに誰もいないことを確認し、水影みなかげつる式部の部屋に入る。襖を閉め振り返ると、そこには、一人の女官の姿があった。

「なっ……!」

 思わず声が出るも、(確かに此処ここは、蔓式部の部屋ぞ!)と落ち着きを取り戻す。机に向かい、何やら筆を走らせているその女官は、水影の訪問に気が付いていない。それに乗じて、水影が立ち去ろうとした、その瞬間——。

「貴方ね、最近後宮に入った、噂の藍式部は」

 ぎょっとした。その女官は筆を止めることなく、藍式部を一瞥いちべつしただけだ。

「は、はい。貴方様は……」

「貴方、まさかこの私を知らないの? 私こそ、この後宮で一等の才女、伊角納言いすみなごんよ」

「伊角納言……」

「貴方、式部でしょ? 私の方が目上なのだから、ちゃんと様付けしてくれるかしら」

「え? ああ、すみませぬ。伊角納言さま……」

 ふん、と伊角納言が鼻で笑う。

「貴方、社交の場で、浅比あさひ女官達を怒らせたようね。記紀ききの正当性を問われて、何方どちらも正書で、何方も偽書だと答えたとか。浅比達が悔しがって、私に泣きついてきたのよ。このクソ忙しい、締切間際の伊角納言様にね!」

 相当ご立腹なのか、走らせている筆が大きく震えている。

「それはご愁傷様にございます。されど、私は事実を申し上げたまでのこと。謝る筋合いなど、ございませぬ」

「ふん! 言うじゃないの。この私と張り合おうとする女官は、蔓式部以来だわ。ねえ、こちらにいらして、藍式部」

 言われるままに、水影は伊角納言の前に座った。すんとした表情で、巻物に記していく物語に目を落とす。

れは……」

「これは、『後宮物語』よ」

「ああ。あの有名な。宮中で飛ぶように売れた本にございますね」

 ヘイアンのベストセラー小説『後宮物語』を、文官の水影自身、読んだことがあった。

「されど、その作者は不詳とされているはず。伊角納言様が作者であられたのですね。いやぁ、実に面白い作品でありました」

 水影が素直に賛辞を送る。

「確か、文官が女装して、後宮に潜入するのでありましたな。いやぁ~、女官らに男とバレぬよう、必死にごまかしておるのが……」

(今の私ではないか!)

 ずーんと、水影の表情が曇る。

(まさか、『後宮物語』の主人公——“後宮の文官サマ”と同じ境遇になろうとは……)

「まこと、事実が如き、物語ですね……」

 今ここに、貴殿が作り上げた“後宮の文官サマ”がいる——とは言えず、水影が遠い目で話す。

「……作者は、私ではないわ」

「え? 今執筆しておられるのは、『後宮物語』の続編では……?」

「そうよ。『後宮物語』の続編。でも、私一人じゃ、完成に至らない」

「それは如何どういう意味にございましょう? それに此の部屋は、蔓式部の御部屋では……?」

 そこで初めて、伊角納言の筆が止まった。筆をおき、藍式部と向き合う。

「この『後宮物語』は、私と蔓式部の共同作品。共同と言っても、蔓が八割、私が二割といったところかしら」

「ああ。ならほぼ、蔓式部の作品なのですね」

「ま、まあ、私も色々と考えを出したのよ! 登場人物の設定とか、展開とか! ……私の部屋で書いても、良いものが書けなくて……。蔓の部屋なら、いい考えが思いつくとおもったのよ」

 ムキになって話す伊角納言に、「そうでありましたか」と藍式部が穏やかに笑う。

「……本当、どこに消えたのかしら。この私が認めた女官はみな、いなくなってしまう……」

 泣くのを堪えるように、伊角納言は唇を噛み締めた。

「ご案じ召されますな、伊角納言さま。必ずや、消えた女官らは帰って参ります」

 女人の声色で言ったものの、男としての顔が出ていた。それに気づいた伊角納言であったが、「……そうね」と、希望を捨てるにはまだ早いと、立ち直った。

「それはそうと、蔓式部の私物は何処いずこにございましょうか?」

「蔓の? ならここに……」

 漆で塗られた小物入れを取り出し、それを藍式部の前に置いた。

「これが蔓の私物よ。けれども、どうするつもり?」

「いえ、何か手掛かりがないかと」

 小物入れから髪飾りや指輪を出すも、そこに吉祥文様の刻印は見られない。

「手がかり? ねえ貴方、女官ではないでしょう?」

「えっ? ああいえ! 私は女官! 生れてこのかた、女として生きておる身にございますればっ……!」

 慌てて取り繕うも、既に時遅し——。

「あのねぇ、私は“後宮の文官サマ”の生みの親よ? 後宮に潜入している殿方くらい、見分けられるわ?」

 ふふん、と上から目線で伊角納言が言う。しかしその表情は、決して水影を朝裁ちょうさいの場に突き出そうとするものではなかった。

「……ねえ、貴方、誰?」

「わ、わたしはっ……!」

 万一男とバレれば、麒麟諸共斬首となる——。“後宮の文官サマ”と同じ境界線に立つ水影の動揺を察し、「まあ、どちらでも良いわ、男でも女でも」と、伊角納言が引き下がった。ふうっと安堵した水影に、伊角納言が愉快そうに話す。

「ねえ貴方、後宮で起きている失踪事件について、調べているのでしょう? なら、手がかりになるか分からないけれど、こんな噂があるわ」

 友の命が掛かっているからなのか、真剣な表情で、伊角納言がその噂を水影に話した。


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