第9話 “後宮の文官サマ”
辺りに誰もいないことを確認し、
「なっ……!」
思わず声が出るも、(確かに
「貴方ね、最近後宮に入った、噂の藍式部は」
ぎょっとした。その女官は筆を止めることなく、藍式部を
「は、はい。貴方様は……」
「貴方、まさかこの私を知らないの? 私こそ、この後宮で一等の才女、
「伊角納言……」
「貴方、式部でしょ? 私の方が目上なのだから、ちゃんと様付けしてくれるかしら」
「え? ああ、すみませぬ。伊角納言さま……」
ふん、と伊角納言が鼻で笑う。
「貴方、社交の場で、
相当ご立腹なのか、走らせている筆が大きく震えている。
「それはご愁傷様にございます。されど、私は事実を申し上げたまでのこと。謝る筋合いなど、ございませぬ」
「ふん! 言うじゃないの。この私と張り合おうとする女官は、蔓式部以来だわ。ねえ、こちらにいらして、藍式部」
言われるままに、水影は伊角納言の前に座った。すんとした表情で、巻物に記していく物語に目を落とす。
「
「これは、『後宮物語』よ」
「ああ。あの有名な。宮中で飛ぶように売れた本にございますね」
ヘイアンのベストセラー小説『後宮物語』を、文官の水影自身、読んだことがあった。
「されど、その作者は不詳とされているはず。伊角納言様が作者であられたのですね。いやぁ、実に面白い作品でありました」
水影が素直に賛辞を送る。
「確か、文官が女装して、後宮に潜入するのでありましたな。いやぁ~、女官らに男とバレぬよう、必死にごまかしておるのが……」
(今の私ではないか!)
ずーんと、水影の表情が曇る。
(まさか、『後宮物語』の主人公——“後宮の文官サマ”と同じ境遇になろうとは……)
「まこと、事実が如き、物語ですね……」
今ここに、貴殿が作り上げた“後宮の文官サマ”がいる——とは言えず、水影が遠い目で話す。
「……作者は、私ではないわ」
「え? 今執筆しておられるのは、『後宮物語』の続編では……?」
「そうよ。『後宮物語』の続編。でも、私一人じゃ、完成に至らない」
「それは
そこで初めて、伊角納言の筆が止まった。筆をおき、藍式部と向き合う。
「この『後宮物語』は、私と蔓式部の共同作品。共同と言っても、蔓が八割、私が二割といったところかしら」
「ああ。ならほぼ、蔓式部の作品なのですね」
「ま、まあ、私も色々と考えを出したのよ! 登場人物の設定とか、展開とか! ……私の部屋で書いても、良いものが書けなくて……。蔓の部屋なら、いい考えが思いつくとおもったのよ」
ムキになって話す伊角納言に、「そうでありましたか」と藍式部が穏やかに笑う。
「……本当、どこに消えたのかしら。この私が認めた女官はみな、いなくなってしまう……」
泣くのを堪えるように、伊角納言は唇を噛み締めた。
「ご案じ召されますな、伊角納言さま。必ずや、消えた女官らは帰って参ります」
女人の声色で言ったものの、男としての顔が出ていた。それに気づいた伊角納言であったが、「……そうね」と、希望を捨てるにはまだ早いと、立ち直った。
「それはそうと、蔓式部の私物は
「蔓の? ならここに……」
漆で塗られた小物入れを取り出し、それを藍式部の前に置いた。
「これが蔓の私物よ。けれども、どうするつもり?」
「いえ、何か手掛かりがないかと」
小物入れから髪飾りや指輪を出すも、そこに吉祥文様の刻印は見られない。
「手がかり? ねえ貴方、女官ではないでしょう?」
「えっ? ああいえ! 私は女官! 生れてこのかた、女として生きておる身にございますればっ……!」
慌てて取り繕うも、既に時遅し——。
「あのねぇ、私は“後宮の文官サマ”の生みの親よ? 後宮に潜入している殿方くらい、見分けられるわ?」
ふふん、と上から目線で伊角納言が言う。しかしその表情は、決して水影を
「……ねえ、貴方、誰?」
「わ、わたしはっ……!」
万一男とバレれば、麒麟諸共斬首となる——。“後宮の文官サマ”と同じ境界線に立つ水影の動揺を察し、「まあ、どちらでも良いわ、男でも女でも」と、伊角納言が引き下がった。ふうっと安堵した水影に、伊角納言が愉快そうに話す。
「ねえ貴方、後宮で起きている失踪事件について、調べているのでしょう? なら、手がかりになるか分からないけれど、こんな噂があるわ」
友の命が掛かっているからなのか、真剣な表情で、伊角納言がその噂を水影に話した。
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