第5話 高級女官と女中
「あの、これはどちらの部屋に?」
麒麟が男とバレないよう、懸命に裏声を使って訊ねた。
「ああ。それは
「いすみなごん……さま?」
「なに? あなた、伊角納言様を知らないの? 後宮一の才女と謳われている御方じゃないの!」
「あ、ああー……あのいすみなごんさま、ね……」
完全に目が泳いでいる麒麟に、相手をしていた若い女中が訝しがる。
「あなた、見ない顔ね。新入り?」
「えっ? あ、ああ、そうなんです。実はさっき、後宮に入りまして……」
おどおどと麒麟が話す。太政大臣、春日道久の協力で、
「ふーん。夕刻から入って来るなんて、珍しいわね。でもまあ、いいわ。ちょうど人手も足りなかったし、案内がてら、一緒に膳を運びましょう」
厨でせっせと働いていたその女中が、親切心から、麒麟に後宮内を案内する。
「——ここが伊角納言様のお部屋よ。気難しい御方だから、粗相のないようにね」
「は、はい」
ごくりと息を呑んで、麒麟が伊角納言の部屋の前に立った。襖の前で、「失礼いたします」と声を掛けてから、部屋の中へと入っていった。
「夕餉の膳にございます」
麒麟が三つ指をつき、恭しく膳を置く。
「うっさいわね。今超大作の執筆中なんだから、話しかけないでちょうだい!」
そう尊大な態度で、背中を向ける麒麟に向かって叫んだ。
「あ、も、もうしわけ、ございません! 失礼いたします……!」
口早に謝り、麒麟が部屋を後にした。
「ひゃあ~! 今日もピリついていたわね~」
「いつもそうなんですか?」
「ええ。今、伊角納言様は、なんとか物語とかいう超大作の執筆中で、締め切り間際みたいだから、毎日あの調子で周りに当たり散らしているのよ。極力、伊角納言様には、話しかけないことね」
「わ、わかりました」
「それはそうと、あなた、名前は?」
「おれ……じゃなく、わたし! わたしの名前はー……」
麒麟が言葉に詰まった。
(しまったあああ! 名前決めてなかったあああ!)
「どうしたの? 名前、教えてよ。私は風と書いて、ふうよ」
「ふう、さん……。えっと、わたしはー……」
「——あら? りんじゃないの」
そこに、一人の女人の声が上がった。
「り、りん?」と振り返ると、見知った顔がそこにはあった。
「ほうっ……ううん!」
女官姿の水影に、慌てて麒麟がその場にひれ伏す。明らかな高官漂う女官に、風も麒麟の隣にひれ伏した。
「このような場所で何をしているの、りん? ねえ、りん。答えなさい、りん」
「あ、えっと……」
「りん。あなたは今日、この私、
「は、はあ」
りん、りん、と煩いくらい繰り返す水影に、「はは。さすがにアホでも分かるわ」と、麒麟が頬を掻く。
「分かりました、藍式部様。また夜にお訪ね致しますので」
そう言って、助けられた水影に、礼を込める。
「そう、待っているわね。なら、厨での仕事、頑張ってね。たくさんの友人が出来ることを願っているわ。私も、他の女官様方との交流を深めるとするから」
そう言って、水影が自分の部屋へと向かっていく。その言葉から、各々の持ち場で、怪しい人物がいないか探るよう、察した。
「ひゃあ~! 今のどなた? 藍式部様とおっしゃるの?」
「え、ええ。あの御方も、本日から後宮に入られたのですよ。それはもう、とびきりの才女だとか」
「まあ! なら、伊角納言様が放って置かないわね」
「え? さっきのあの御方ですか?」
「ええ。伊角納言様は、人一倍負けず嫌いな御方。とびきりの才女が後宮に入られたとなると、居ても立っても居られないでしょうね。きっとバチバチよ~」
どこか面白がる風に、麒麟も「そうですかぁ。それは見物ですね」と同感だった。
「それはそうと、これからよろしくね、りん」
「え? ああ、よろしくおねがいします、風さん」
「やだ、風でいいわよ。見たところ、同い年くらいだろうし」
「あ、ああ。ありがとう、風」
頼もしい友が出来たことに、麒麟は、そっと笑った。
その日麒麟は、くたくたになるまで働いた。厨以外にも、女官らの部屋の掃除や、湯あみの手伝いなどもあり、さすがに、半裸に近い女官らの湯あみの場に立ち入ることは出来ず、風邪をひいていると嘘をつき、その仕事からは外させてもらった。そうして就寝間近となったところで、麒麟は水影——藍式部の部屋を訪ねた。
「——遅いではないか、りん」
先程とは打って変わって、いつもの男声で藍式部が笑う。「はは」と麒麟が空笑いした。
「本当、女人の声真似もお上手ですね、お師匠様は」
「ああ。その極意、そなたにも伝授してやろうか」
「いえ、結構です。今日はもう、くたくたなので」
そう言って、麒麟が敷かれた布団に崩れ落ちた。
「首尾は?」
「今は、それどころではありませんね。人手が足りなくて、下働きの女中らは、一人で幾つもの仕事を抱えねばならないので。あーあ、おれも女官が良かったなぁ」
愚痴をこぼす麒麟に、「なぁに。存外、下働きの方が気楽なものよ」と水影が笑う。
「ええー? 優雅で華やかな女官様はただ、運ばれてきた膳を召し上がるだけでしょ? 絶対、女官の方が気楽ですう」
唇を尖らせて反論する麒麟に、やれやれと水影が吐息を漏らす。
「そなたは分かっておらぬ。女の園の、意地と矜持の張り合いというものをのう。まあ、またそれを垣間見るは、明日になろう。今宵は、ゆるりと休むがよい」
水影が麒麟の隣に横になり、その背中をトントンと叩く。
「あの、鳳凰様、おれ、幼子じゃないんですけど」
「ん? ああ、ついな。妹がいたら、
それでも優しくトントンする水影に、麒麟が「おれの、ほうが、背が、たかいの、に……」と、ウトウトとし始めた。
「ふっ。もう寝るがよい、麒麟。明日こそ、何か手掛かりを、見つけようぞ」
そう言って、兄気取りの水影もまた、眠りに落ちた。男である二人の寝顔は、傍から見れば、姉妹のそれであった。
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