第8話 冤罪 後編

「っ!?」


 フリッツのあまりの言葉に、ティアリーゼは目を見開き息をのむのが精一杯だった。

 聞き間違いとしか思えない。


 幼い頃から、共に国を支えていこうと頑張ってきた相手。

 恋情はなくとも、同士として、仲間として過ごしてきた大切な相手。

 そんな彼が、たった一人の証言だけで婚約者の処刑をするなどと……。


 だが、その目に……その声に宿るのは湖面から吹く風よりも冷たい感情。

 ゾッとするほど温かみのない眼差しがまたティアリーゼを捉えた。


「君なら立派な国母として私の隣にいてくれると思っていたが……嫉妬で狂うような女に成り下がってしまった」

「嫉妬、なんて……」


 していない! と続けたかったが、どこまでも冷たい眼差しはティアリーゼの喉を凍りつかせた。

 喉の奥からは空気だけが漏れ出ていく。


 そんなティアリーゼを見つめながら、フリッツは一枚の紙を取り出す。

 見えるように開かれたそれは、自分たちの婚約証書だった。


「ティアリーゼ・ベルンハルト、君は時期国母として相応しくない。今ここで、婚約の破棄をさせてもらう」


 そう宣言し終えると、フリッツは婚約証書を破り捨てる。

 ビリビリと紙の裂ける音がやけに大きく聞こえた。


 大事な契約書ではあるが、結局のところはただの紙切れ。破れたとしても、互いに培ってきた絆は切れないはずなのに……。

 なのに、紙の裂ける音と共にその絆が完全に切れていくような気がした。


 婚約証書がただの紙くずになってしまうのをティアリーゼは呆然と見届ける。

 停止した思考の中で、『何故?』という言葉だけが浮かんだ。


 何故、共に未来を見ていた相手をここまで無碍むげに扱えるのか。

 何故、優しく聡明だったはずのフリッツがこのような短慮な真似をするのか。

 何故、メラニーの言葉を疑問にすら思わないのか。


 たくさんの『何故』が浮かび、出ない答えに文字だけがさまよう。

 その疑問は声として言葉にはならず、ティアリーゼの中に重く溜っていった。


「……では、ティアリーゼ・ベルンハルト公爵令嬢をメラニー・ムバイエ子爵令嬢の毒殺を企てた罪により、湖へ沈め処刑する!」

「っ!」


 証書を破り終えたフリッツは、怒りを込め冷徹に宣言する。

 その宣言を聞き、ティアリーゼは呆然としている場合ではなかったと気付く。

 すぐに抵抗を試みるが、すでに拘束されている状態では身じろぐことしかできなかった。


「なっ!? フリッツ様! おやめください! 陛下の許可も無くこのようなこと……冗談ではすみませんよ!?」


 跪いていたグリードが立ち上がりながら叫び止めようとしてくれる。

 だが、忠臣の言葉もフリッツには届かないようだ。


「私が冗談を口にしているとでも? 私は本気だ。メラニーを殺そうとしたこの女を許すことは出来ない」

「ですから! そもそも本当に殺そうとしたのかと――」

「黙れ」


 掴みかかりそうな勢いのグリード。

 だが、その必死さをフリッツは冷たく重い声で制した。


「止めるならばお前にも罪を負ってもらうことになるぞ? シュナイツェ家がどうなっても良いのか?」

「殿下……」


 脅すようなその言葉は、以前までのフリッツならば決して口にしないこと。

 その落差に、グリードだけではなくティアリーゼも絶句した。


 変わってしまった。

 外見は同じでも、別人としか思えないほどに変わってしまった。

 自分の知る王太子、フリッツ・ヴィント・アインツはいなくなってしまったのだと、ティアリーゼは絶望に近い思いを抱く。


 そうしている間にも、足へ重りをつけられてしまった。

 足枷の冷たさに小さく悲鳴を上げると、フリッツがこちらに手のひらを向ける。

 その手の指輪が強く光り、指輪に刻まれた術式が発動しているのがわかった。


「っ! やめっ」


 ティアリーゼはなにが起こるのかを予測して制止の言葉を叫ぼうとする。

 だが、言い終わらないうちに力は放たれてしまった。


 フリッツの得意とする風を起こす魔術。突風を起こすそれは、今はティアリーゼの身体を強く押す。

 飛ばされる感覚と共にフリッツとの距離が開き、足の下に見えるものが地面から湖面へと変わる。

 恐怖に心拍が上がり、遠くのフリッツたちの姿をもう一度見ようとしたところで風が弱まった。


 そして、下へと引かれる力が強くなりティアリーゼは湖面へと吸い込まれたのだ。


***


 フリッツがどうしてあれほどまでに変わってしまったのか。

 疑問は多いが、胸に広がるのは恨みではなく悲しみ。

 共に未来を歩むと思っていた家族のような存在との決別が、とにかく悲しかった。


 あのときの悲しみを思い出し、ふぅ……と息を吐き肩を落とす。

 するとテーブルの上からティアリーゼを見上げていたピューラが「ピピ?」と心配そうに鳴いた。


「あら、心配をかけてしまったかしら? 大丈夫よ」


 指先で小さな頭を撫でながら、ピューラを預けてくれたストラを思う。


(助けてくださったのがあの方で良かった)


 冤罪を着せられ信頼していた人の手で湖に落とされた。

 その悲しみや悔しさは今も胸の内に渦巻いている。


 助けてくれたのがずっと焦がれていた推し神のストラだったこと。

 側にいたいという自分の願いを叶えるため、聖女となり御方おかたの妻になるという道を示してくれたこと。

 それらのおかげで今自分は悲しみの沼に沈むことなく前へ進むことが出来ている。


 ストラを思うと、今までとはまた違った感情が沸いてきた。

 今までも御方おかたを思い祈りを捧げ、姿絵やストラをイメージした小物などを集めたりと推しの神として信愛を向けていた。

 だが、窮地を助けられ、本人に会えたことでその信愛がより深まった気がする。


 今までもストラを思うと元気が出ていたが、今は胸の奥が温かくなるような……幸せを感じているような心持ちになる。


「あ、そうだわ。朝のお祈りをしなくては」


 朝食を終えてから、いつもは起きてすぐにしているお祈りをしていなかったことに気付く。

 せっかくなので、真新しい神官服に着替え神殿の祭壇を借りることにした。


 神官の衣は前開きで、前を止めるとコットのような形状になる。

 少し大きめでゆったりとしているので、夜会用などのドレスは無理だが簡素なワンピースの上からなら問題なく着ることが出来るだろう。


 昨日と同じように祭壇前の内陣に膝を折る。

 手を組んで軽く目を伏せ、昨日とは違い推しの神であるストラへと祈りを捧げた。


 神殿独特の澄んだ空気は朝の爽やかさもあってか凜とした雰囲気を醸し出す。

 その空気を自身に取り込み、ティアリーゼは祈りの言葉を紡いだ。


「ハイリヒテルの偉大なる神々。火の神・フォイエルが眷属・軍神ストラに祈りを捧げます」


 いつもと同じように、自身の中にある聖霊力を祈りに乗せる。

 祈りを捧げているのはストラにだけなので、祭壇にある五柱の神々の神像が光ることはない。

 なので祈りの光が天に昇っていく光景は無かったが、もう一つの変化はあった。


 ストラからの祝福。

 ほのかに赤い光が天からティアリーゼへと降り注いでくる。

 キラキラと美しい光は、昨日感じたストラの神力そのもの。


 長年望んでいたストラからの祝福を受けられたことにこれ以上無いと言うほど気分が高揚してきた。


「……私、本当に神官になれたのね。ずっと頂きたいと思っていたストラ様からの祝福を受けられたんだわ」


 感動に、紡ぐ言葉が震えた。

 ストラの神力を感じ、喜びが全身を駆け巡る。


(やっぱり、本気であの方のお側にいたい。妻というのはまだ少し恐れ多い気もするけれど、ストラ様にそう望まれたのだから……叶えたい)


 ストラと交わした約束を改めて叶えたいと強く思う。

 決意を胸に、ティアリーゼは御方おかたの使いでもあるピューラに語りかけた。


「さ、まずは冤罪を晴らすために行動しなくてはね」


(そのために、まずは彼を訪ねてみましょう)

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