飛行機雲に悪魔

 朝、またサイレンの音が鳴り響いて飛び起きた。けたたましくて不気味なサイレン。また“悪魔”がやってきたのだろうか。レイを守らなければ。


「れっ……」


 名前を呼ぼうとして、レイがいないことに気づいた。隣はもぬけの殻で、あのデッサンだけがポンと置かれている。

 レイはもう街に行ったのだろうか、もう日の出直後といった時間でも無さそうだ。この音が鳴って、レイはどうなっているのだろうか。どこかの物陰に隠れてるのかもしれない。


 考えてると急に心配になってきた。昨夜でもあの取り乱し具合。小さい子だから当然と思うべきかもしれないが、今までの性格や口調からすればすごく意外な一面だった。


 ……やっぱり不安だ。僕はなんとなく山を降り始めた。昨日登ったときよりずっと遅く感じた。二倍は時間が掛かっただろうか。駆け足で街の中心部へ向かった。


 しばらく走ってて、なんか右足が重たい気がした。重たいというか、何か違和感がある。一度止まり、ポケットを探ってみて元凶になってる物体を取り出す。


 それは携帯だった。今更のように携帯を持っていたことを思い出した。昨日までいろいろありすぎて、すっかり忘れていた。電源をつけて時刻を確認すると、八時だ。ついでにここが完全に圏外であることも分かった。

 ……いや携帯普通に使えるんだ。確かに圏外だが、カメラなどの基本機能は動きそうだ。電池もまだある。ここまで普通だと、自分が不思議な体験をしている自覚が無くなっていく。僕は一応、あのレイに眠らされて、気がついたらこの「知らない夏」に連れられている身である。


 携帯の機能を一通り確認し、またポケットに入れようとしたとき、何やら周囲が騒がしいことに気づいた。二、三人で集まっては空を指差している。


 つられてその方向を見ると、青空に小さく、白くて半円型の布のようなものが、ふわりふわりと落ちてきていた。

 パラシュートだろうか、小さ過ぎて分からない。僕は携帯のカメラを思いっきりズームして写真を撮った。

 パシャ、とシャッター音が鳴る。それと同時に何やら視線を感じた。撮り終えてから周りを見渡してみると、近くの人々が不思議そうな目でこちらを見つめてきている。ヒソヒソと何か話している様子も見え、気まずくなった僕は逃げるように建物の影へと走った。


 こっそり携帯を開き、最大ズームで撮った写真をさらにズームして確認する。やっぱりパラシュートみたいだ。

 その下にもっと何か小さな……機械? みたいなものがついてる。これに関しては最早白いナニカ、という具合でしか分からない。


 何をパラシュートで落としているのか……母さんか父さんに聞けば分かったかもしれないのに。

 一瞬親が僕を心配しているかどうかが頭をよぎった。しかしここは幻想と現実の狭間みたいなところだし、夢オチみたいな感じで不思議なことが起こって、実はそんなに時間経ってなかったみたいになってくれる……はず。


 ところで、この夏はいつ終わるのだろうか?


 疑問に思って空を見上げたときだった。


 青空が真っ白に輝いた。






 ※






 時が止まったように感じた。


 動き出したら、背後にあった建物が暴風と共に崩れ落ち、僕は体が宙に浮くのを感じた。


 いくつもの瓦礫に巻き込まれ、地面を転がる。


 切り刻まれるような熱を感じた。


 そのまましばらくして、何か固いものに激突した。


「……ッ!!」


 今更のように轟音が耳をつんざき、五感が戻ってくる。

 僕は、痛みを認識してしまった。


「あ……あああああああゔゔゔゔゔゔあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙い゙い゙い゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!」


 経験したことのない激痛が僕を襲った。無数に体の奥深くまで突き刺さるような激痛。地面と接しているところは沸騰するように灼かれている。加えて熱風。サウナなんか比にならない、直接炙られているような熱風が、露わになった僕の皮膚や傷口を焦がしていく。


 熱されたオーブンの中に、傷だらけの状態で放り込まれたような状況。


 打撲や擦り傷なんかは気にできない、焼き尽くされるような痛みに耐えるだけで僕は壊れそうだった。


 それでも、本能が『逃げろ』と叫んだ。


 転がるように起き上がり、倒れ込むように僕は走り出せた。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い

 熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い


 いくらか皮が溶けて剥がれる。肉が剥き出しになった足の裏が接地するたびに地面に貼り付き、ジュワッと音を立てて焼かれる。


「ゔゔゔゔゔゔゔゔあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!」


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!

 熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!

 苦しい、苦しい。苦しい!


 熱風に押されるがまま、叫びながら動く。べろんと伸びた皮が垂れ下がって重たい。視界は赤い磨りガラスで遮られたように、何も把握できない。

 茹でられるような空気の中、どこに向かってるのか自分でも分からないまま、ただ熱気から逃れるがために体を動かす。


 籠った耳から微かに地鳴りがし始めた。しかし、その音は上から降ってきているように聞こえる。ぼんやりと音のする方向を向くと、赤に混ざって黒い何かが視界を大きく遮ってくる。近づく地鳴りと迫る得体の知れない黒に、思わず体が後退した。


 大きな音を立て、目の前にはさっきまで建物だったと思しき瓦礫が鮮明に飛び込んでくる。あと少し遅ければ、潰されて死んでいたかもしれない。その恐怖が僕の意識を鮮明に蘇らせた。


 炎の弾ける音が今更のように聞こえる。

 焦げついた匂いが鼻を刺激する。

 真っ赤に染まった空、四方八方で高く舞い上がる炎、その一角に聳え立つ、大きな黒い雲の柱。

 眼下には、燃え盛る人間だったモノが大勢映った。


 まるでこの世の終わりのような、地獄と化した地上。


 ……別に痛みを忘れたわけじゃない。


 ただこの恐怖は、僕の脳内から痛みという感覚を追い出すにはあまりにも充分過ぎた。


 声も出ない僕の脳内では逃げろという言葉のみがこだまし続け、途端に走り出した。


 火事場の馬鹿力とは、このことを言うのだろう。


 怪我も痛みも全て忘れ、目の前に広がる恐怖からただ逃げるために足を動かす。


 でもどこへ?

 どこまで行けば逃げられる?

 この地獄はどこまで広がっている?


 あちこちに進路を切り替えつつも、僕はそんなことを危惧していた。しかしふと、あの山ならどうかという考えが浮かんだ。

 あそこなら街から遠いし、火の手もそこまで来ていないんじゃないか。

 もしかすると、レイもそこに逃げてるかもしれないし。


 そう結論付けた僕は鋭く方向転換して走り出した。


 どこまで吹き飛ばされ、どこまで逃げてきたかも分からないのに、何故かどこに向かえば山に辿り着くかは自然と分かっていた。


 走っている途中に、多くの死体を見た。多くが黒焦げとなり、 原型も分からないただの黒い塊と化しており、かろうじてその形から人だったことがうかがえる。悍ましい光景から目を逸らそうとしたとき、


 視界の端っこで何かが蠢いた。


 急いで止まり、視点を戻す。道路の端、炎の目の前で、小さな黒い塊が、蚯蚓のように体をくねらせている。


 まだ、生きてる。


 でも……あれはもう助からない。顔のパーツも何も分からなくなってる。僕は自力ではどうにもならない惨状に顔を背け、僕はまた動き出そうとした。


「たす……け……」


 ほんの微かな声が、耳から直接脳内に届く。誰の声とかはまだ気にならなかった。あの真っ黒になって原型も分からないような人型の物体から、声だけが傷一つ負わずにありのまま、僕の耳に届いたのが奇妙だった。


 だがそれ以上に何か……何か背筋を伝う嫌な冷気があった。

 僕はその黒い塊を凝視し続けた。


「たすけて……」


 レイが微かに叫んだ。


 僕は裸足であることも忘れ、全速力でレイに駆け寄った。


「レイ!」


 レイだと一目で分かるものは何も無い。が、その声はきっとレイだ。僕はそう確信していた。

 僕の頭の中から、レイが助かるかどうかは抜け落ちていた。ただレイも連れて山まで逃げよう。それだけを考えて動いていた。


 レイは軽くなっていた。ガサガサになってしまった肌を掴んで背負う。露わになった肉に直接、まだ残る温もりを感じた。


 それからは真っ赤に燃える街を横にひたすら歩いた。痛覚がとうの昔に狂って何も感じなくなっていたが、僕も限界が近かった。途中、つかみどころのない嫌悪感に襲われて二、三度吐いた。血が混じっていて気持ち悪かった。レイはあれ以降何も喋らない。吐息が首筋に当たっている感覚も無いが、そもそも僕がレイのことをどう背負っているのか、それも分かってないまま運んでいた。

 ゆらゆら揺れる視界。熱か、僕自身がダメになってるのか、多分どっちも正しい。体に力が入らなくなってきていた。それでも、ここで尽きるわけにはいかないと、僕の心だけは砕けていなかった。


 麓に着く頃には、僕の目は再び磨りガラス越しのような視界に変わっていった。揺らぐ赤と熱感で、麓が燃えていたこと、自分が今そこを通ったことが辛うじて理解できた。体が燃えているんじゃないかとか、気にすることもない。僕はただ焦点の先にある光のようなものに目掛けて足を動かしているだけだ。


 何度もふらつき、何度もよろけた。何度も獣道を逸れ、体中に棘や枝が突き刺さった。足裏が異様に熱くなる。それでも視界の光は絶えず目的地を示し、僕は何の疑いもなく進んだ。それしか信じられる情報がなかった。


「ぐっ……! はぁっ、はぁっ……」


 レイは相変わらず動かなかった。心なしか温もりが無くなっていたかもしれない。でも僕はそれを信じたくなかった。信じたくなくて、山のあの大木の所を目指して逃げた。


 だが、進んでいると途端に体は熱を感じなくなり、視界の光は消えた。ぐるぐるかき混ぜられる脳は方向感覚を狂わせ、僕はもうダメなんだと悟った。涙も出ないし悲しくもない。心が一気に空っぽになったような喪失感と諦めが、僕の全てを飲み込んだ。


 最後に一歩踏み出せば、僕の頭は壁に当たった。


 限界だ。僕はその場に崩れ落ちるようにして倒れた。ゴツゴツした表面が僕の額の肉を削る。


 その感覚と、倒れた際に感じたひんやりとした地面。

 ふかふかの草。

 痛いくらい出っ張った木の根。

 くしゃりと紙の音。

 レイとの記憶。

 あの絵を描いた大木の下。




「ありがとう」




 ここがどこか気づけた瞬間、背後からあの声が聞こえた。限界が来て振り向けない。いや、振り向かなくとも分かる。


「私をここまで運んでくれて、ありがとう」


 この惨状に似合わない透き通った声が頭を占める。「あなたがこうやって運んでくれたから、私は後のあなたに会うことが出来たんだよ」


 もともとよく分からない話なのか、それとも僕が聞き取れなくなってきているのか。話が曖昧に聞こえる。


「これが悪魔。街を火に包み、大きな黒い翼を広げ、黒い涙を流しながら空に飛び立つ、悪魔」


 なぜだろう。僕は今にも泣きじゃくりそうなのに、彼女の声色は一切変わらない。なんでなんだ。僕はここまで悲しいと言うのに、レイはこれが必然だとでも分かり切っているのか。


「これが誰も知らない夏、みんな忘れてしまった夏……でも、私とあなたが知る夏になった。私とあなたはもうお別れだけど、あなたは私のことと、この夏のこと、ずっと覚えててね。約束だからね」


 ――流れた涙が視界を覆い、弾けた光が僕の意識を持っていってしまう。痛みが、熱さが、地面の感覚が、レイの気配がどんどん消えていって


 忘れないでね











 ※











 「待っ……」


 起きて視界に飛び込んできたのは、伸ばした僕の右腕。次いで大木の木陰。右腕を見る限り傷の一つも残っていない。

 僕は上体を起こして体を確かめる。削げた肉も、溶けた皮膚も、全て元通りだ。空を見ると、日はわずかに傾いただけ。


 あれは本当に夢……だったのだろうか。


 風が吹き、カサカサと紙が揺れる音がした。左手に押し付けられた一枚のスケッチ。まさかと思って確認してみるも、それはただの銀色の島のスケッチであった。


 ただのスケッチなのに、それを見ると頭の中でレイの声が蘇る。


 ――忘れないでね――


「あの夏……僕と、レイだけが知ってる夏」


 あれはきっと、単なる夢などではないのだろう。微かにスケッチに残ったあの夏の名残を感じ取り、僕は再び遠くの空を見上げた。


 木陰越しの上空に、一筋の飛行機雲が流れていた。

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