追憶スケッチ
なかなか多くの人が集まる商店街へと来たが、店頭を見渡す限り紙が存在しない。食べ物か日用品だけだ。
「デパートにならあるかな」
と呟くとレイは、一際大きな建物を指差す。
「デパートってのは知らないけど、あの百貨店になら売ってると思うよ」
僕はコンクリート造りのおしゃれなそれを見上げた。宮殿のような外観は高貴さを振り撒いている。あの辺りだけは妙に賑わっていて、小さめの入口から人が絶え間無く出入りしていた。
「行こう」
悩む間もなくレイに手を引かれ、その建物に近づく。すると段々、入り口の空気が不穏な感じだと気づいてきた。黄土色の服を着て、硬そうな帽子を被った男が二人、こちらに睨みを効かせているのがよく見えた。
二人は僕たちが近づくと、目の前に立ち塞がった。
「君たち、百貨店は我々が接収している。安易に近づくべからず。立ち入るのはもってのほかだ」
「え〜」
レイは膨れっ面をした。壮年の男性がむっとなっていたが、特に咎めようとはしてこなかった。
「この前までやってたもん」
「駄目なものは駄目なのだ。分かったら向こうに行きたまえ」
「…………あの」
レイがしおれる横で、僕は勇気を出して尋ねた。「紙、ありますか?」
「紙?」
「はい、白い画用紙です。僕、絵を描きたくて――」
「馬鹿者! 絵を描く暇があれば働け!」
突如として男は真っ赤になって怒鳴った。
「す、すみません!」
その剣幕に驚いてしまい、僕はレイの手を引いて逃げるようにその場を立ち去った。男たちが見えなくなるまで走り、息が上がって立ち止まる。
「怒られちゃったね……」
苦笑いでレイが言う。
「うん……まさか、あんなに怒るなんて……紙が欲しいだけなのに」
なんであんなに怒るのだろうかと疑問に思う。本当にただ、紙が欲しいだけなのに。紙は紙屋に行かなければダメなのだろうか。
どのみちあの中には入れなさそうだったし、この辺りで探すしか無いようだ。
「二手に別れて探そう」
「分かった。じゃあ私はこっち」
レイが走り逃げてきた方向を指差した。僕は安堵しながら反対側を指差した。
「無かったらここまで戻ってこよう」
「うん」
※
「とは言ったけど」
しばらくして、同じ場所で二人が頭を悩ませていた。「本当に無いなんて……」
商店街にはそもそも紙が無かった。ちょっとしたちり紙程度ならあったものの、絵を描くときに使えるような、白くて丈夫で大きな紙というのは無かった。
まあここまで来ると、残念だけど僕は別に描けなくてもいいや、って諦める気持ちにもなってくるのだが……
「うん……仕方ないけど、諦めよう」
と言うと、隣の彼女はあからさまに機嫌を落としたのだ。目線を下に向け、明らかに空気が落ち込む。
流石にこれでは僕も決まりが悪い。どうにかして描けないものかと頭を抱える。最悪画用紙じゃなくとも……ただの大きな紙でもいいから……
「他に心当たりのある場所ってある?」
と、隣に聞いたはずだが、返事がない。
「レイ?」
不思議に思って横を見ると、レイはその場にいなかった。そして目線の更に向こう側、先ほどの百貨店辺りに走っていくレイの姿を確認した。
「ちょっ、レイ?」
そっちでさっき怒られたばかり、行ってはまた怒られるに違いない。僕はレイを連れ戻すために走り出した。
しかし、レイは想像以上に速い。あっという間にさっきの百貨店前に辿り着いてしまい、またあの男たちと話し始めた。少し怒鳴っている声も聞こえる。
「すっすみません! 何度も……」
僕は着くなりそうして頭を下げ、レイの腕を掴む。「ほら、レイ、諦めようって」
「いやだ」
「いやだじゃないよ。無理なものは無理だから……」
僕は力づくでレイを連れ戻そうとするが、なぜかびくともしない。年下で、体格も僕より小さいのに、信じられなかった。
「覚えてるぞ。また紙を求めに来たのか」
怒鳴っていた人が僕たちを睨む。いよいよまずい。
「レイ、もう諦めよう。もういいから――」
「よくない」
今まで聞いたことの無い、軽くてひんやりとした声が僕を鎮まらせた。
「だって、ケイが描きたいって言ったんだから」
「いや……でも、無理なものはさ」
「たとえケイが諦めてても、私はケイの描く絵を見たい」
まるで駄々をこねているみたいだったが、その口調と表情は僕よりも遥かに年上に見えるほど、凛々しくて真剣だった。
「ケイは描きたくないの? この綺麗な街を」
「……描きたいけど」
そう。ハッキリ言って僕の気持ちは変わってない。
「けど、無いものは無いんだから」
「この人は紙が無いなんて言ってないよ」
「!」
僕がはっとして男を見ると、男はばつが悪そうに顔を背けた。ほら、と言わんばかりにレイは僕を見る。
「だからさ、描いてよ」
僕が何か話そうとする前にレイが割り込む。「絵、描いて。私もケイも、それを望んでるんでしょ。だったら諦めないで、ちゃんと言おう」
……そうだな。紙があるなら話は別だ。
ここは勇気を出して……
「……お願いします」
僕は男たちに深く頭を下げた。「紙、ください」
「二度も言わせるな。絵を描く暇があれば働け!」
「それでも描きたいんです……!」
僕は初めて、彼らに歯向かった。「僕のためじゃありません。隣にいるこの子のために、描いてあげたいんです」
「……しかしだな」
先程より感情の昂りは収まったようだが、男はそれでも頑なに認めてはくれない。「何の絵を描くのだ? その絵を描いて、その子に何があるというのかね?」
「こんなにねだってるんだから、あるに決まってる」
そう口を開いたのは、隣にいたレイだった。
「私はこの人の絵を見たいんです。この街も、海も、そこに浮かぶ船まで、全部綺麗に描くこの人の絵をただ見たいだけ」
ここまで言って、レイは僕と同じように深く頭を下げた。「お願い……します」
二人の子供による、誠心誠意の要望と深いお辞儀。
これには、男たちにも何か感じるものがあったようだ。
「……わかった」
ため息をつき、一人がそう言った。「少し待ってろ」
男は駆け足でデパートの中に入っていく。僕とレイは同時に顔を上げた。二人ともぽかんとしていたと思う。
「そこまでされると……我々も応えないわけにはいかない」
残されたもう一人は帽子を深く被って呟いた。
「……ありがとうございます!」
「ありがとうございます、お兄さん」
僕たちのお礼には何も返さず、男は入口に立ったままであった。
「ほら、これでいいか?」
男が持ってきたのは黄色い紙。少し薄くて大きいが、デッサン程度であれば充分だ。
「勿論です。本当にありがとうございます」
僕は何度も頭を下げながら、低い腰でそれを重々しく受け取った。
「変な奴だな。絵を描くだけでそんなに嬉しいか」
怪訝そうな目で男が見てきた。だが、
「はい。これが僕の生き甲斐でもあるので」
と、満面の笑みで返した
「じゃ、行こ……」
レイの方を向き、言い終わる前にレイは僕の手を掴んだ。遠ざかる景色の中に、唖然として立ち尽くす二人の男の姿が見えた。
後は引っ張られるままに二人で走った。呆然とする大人たちの顔が見えた気がする。レイは、車通りに気をつけながらもと来た道を駆け足で戻る。
ちらりと見えたレイの横顔は楽しげで、期待に輝いていた。レイは僕がはぐれないように、どこかに置いていかれないようにぎゅっと手を握っていた。
山道もあっという間に駆け登った。まるでそこに傾斜がないように駆け抜けた。不思議と僕はその足についていくことができ、途中でへたれることもなかったのだ。
そして元の場所まで戻った僕は手早くキャンパスを構え、手際良く鉛筆を取り出し、デッサンを始めた。いつもは無い、横から感じる無垢の目線に、初めは緊張しながら描いていた。
しばらく経てばそれにも慣れ、いつものように、流れる時間に取り残されたまま描き続けた。
――そして日が沈む少し前、街の輪郭が消えかけていた頃に、なんとかデッサンが完成した。
緻密に描かれた街並みの全て。今にも波立ってうねりそうな海。そこに浮かぶ、無機質に描かれた港に泊まる、雄大な船。
我ながら、いいものができた。
「……きれい」
声の方向に首を振ると、レイが僕のデッサンを覗いていた。恍惚とした細い目と、若干紅潮した頬をしたその顔に思わずドキッとしてしまう。レイは本当にいくつなのだろうか。僕より年下の子が、ここまで大人びた表情になれるのだろうか。
「その絵、少し見せて」
大人びた表情から急に無邪気になり、無垢でくりくりした目が僕を覗く。
「いいよ。はい」
僕はデッサンを手渡した。両手でそれを広げ、彼女はまたうっとりとする。そんなにこの絵が好きなのだろうか。
まるで、僕よりもこの絵を、僕の芸術を、深く理解しているようだ。
……見てると頭がぼーっとして、目がぼやけてきた。食事も忘れて没頭していたから、疲れが一気に押し寄せたみたいだった。
ゆっくりと地面に身を預けると、草と土の柔らかい感触と香りが伝わってくる。それは僕を眠りに誘うには充分だった。
※
「起きて!」
例の切羽詰まった声で意識が戻される。どれだけ眠ってたのか考える前に、甲高い不気味なサイレン音が耳を覆った。
「早く立って! “悪魔”が来たの!」
悪魔――レイが言っていた、火を吐く悪魔。レイの妄想かと思っていたけど……
立ち上がり、街をぼんやりと見つめる。暗黒に覆われた街から光の柱が複数本、空に向かって伸びていた。サイレンは鳴り止まず。それ以外に音がしない。嵐の前の静けさというのがよく似合う空気だった。
「ほら! こっち!」
レイに手を引かれて移動する。大木の下まで連れられ、幹に寄りかかる。
「ここなら多分大丈夫……」
レイの呼吸が荒い。体も震えている。酷い恐怖に怯えている様子だった。
僕は悩んだ後、レイの頭を撫でた。僕にできること、僕が彼女の恐れを和らげるには、これしか無さそうだった。
いつまでだったかは覚えていないが、サイレンが鳴っている間はずっと頭を撫で、僕はうとうとしていた。
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