第1話

 13日が過ぎた。


 明日にはこれまで運営してきた教育院が閉鎖される。


 心を落ち着かせ、あとは謙虚に受け止めるだけだ。


 しかし、それさえもできなくなった。


 立て続けに電話がかかってきた。


 最初の電話は彼女だった。


 大した話ではなかった。


「ねえ、私たちもう別れよ。」


「急に?なんで?」


「束縛されるのも嫌だし、家父長的な考え方も嫌なの。」


「ナナ、本当にそれだけ?」


「全部俺が背負うって言ってたくせに、あなたにはそんな能力ないじゃない。」


 反論すべき口が固く閉ざされた。


 電話は途中で切れた。弁解もできない自分が情けない。


 もし他の教育院を受けることになれば、再び背を向けることができるだろうか。



 そんなことを考えていると、今度はおばさんから電話があった。


「残った教育院は全て姉さんが運営することが確定した。あんたのお父さんは全教育院を姉さんの方に譲るみたいよ。」


 それを聞き、言葉に詰まった。


 どんな反応をするべきか、何も思いつかなかった。


 姉という人間に電話をして怒りをぶつけようか。それで問題が解決されるなら、ここまで来ることもなかっただろう。


 会話は意味がなかった。


 父親に相談するという選択肢も同じだった。男なら一人で解決しなければならないと叱られるだろう。

 頭が空っぽになってしまった。


 心の中も虚しく、何も入っていないゴミ箱になった気分だった。


 あえてベッドに横になった。寝れば全部忘れられるのではないだろうか。


 いや、涙だけがこぼれた。30を過ぎて涙を流すだなんて。


 お客さんにしょうもない理由で殴られても泣かなかった。だが今は涙と鼻水が止まらない。


 文字通りずるずると編んだ。


 いつの間にか頭の中に怒りが込み上げてきた。


 理由は分からないが、苛立ちで吐き気がした。


「こうなることを知っていれば、もっと厳しく生きていれば。」


 家族だろうが何だろうが、気にせず自分のやりたいようにして。


 利用するだけ利用して、ぺっと吐き出して。


 いや、こうなるならそもそも何故運営してみろなんて言ったんだ。


 分かっているはずだ、20代の2年と30代の2年は違うってことを。


 運営に失敗した経験は履歴書になんの役にも立たないのに。


 裏切りなんてことはできないやつだと思ってるのか?!ふざけんなクソが!


 ナナ、愛は背景ではなく純粋な心だって?


 お前が辛いとき俺は傍にいたじゃないか。どうして逆の立場になった途端そう簡単に捨てられるんだ…


 ケイはベッドですすり泣いた。


「母さん、母さんに会いたい…」


 4年前に亡くなった母が頭に浮かんだ。


 人生で唯一の味方。


 これ見よがしに成功して子供と墓参りに行きたかった。 黙々としっかり育ったと。だから何も心配しないでと。


 今やその計画は水の泡となった。


 できれば2年前に戻って、そこからやり直したかった。


 嫌われてもいい、悪口を言われてもいい。


 悪徳業主、ブラック教育院と呼ばれてもかまわない。


 利用して利用されるのが社会の法則なら、そう、利用する方向で生きていくのだ。

 利他心と思いやりがスプーンをすくうことはない。


 腹を満たしてくれるのは野望と搾取。


「この2つだ。」


 ケイはその二つの単語を頭の中で繰り返していたが、徐々に深い眠りに落ちた。




 *




 目が覚めた時はレインボーブリッジも見えた。


 横には嘘のようにがらんとした道路。


 四方に人影が全くない。隣の川岸に落ちても誰も分からないような状況だった。


 静かな真夜中に橋の上だなんて、忌まわしさそのものだった。


 しかし、確かにさっきまではベッドの上だったのに、何かおかしい。


 ケイがそんなことを考えていたその時。


 1人の子供が目の前の手すりに腰掛けているのに気付いた。


 いつ現れたのか到底分からない。


 子供が口を開いた。


「つまらないだろうから、先に謝るよ。私は君の住む世界を調律する神だ。その証拠に君の幼い頃の姿を真似してみたよ。」


 ケイは答えるより先に子供を手すりから引きずり下ろした。


 いや、確かにそうしようとしたのだが、体が動かなかった。


 さらに口も動かなかった。


 話せるのは子供だけだった。


「根本的性格は良いようだが、やはりそのように生きるというのは大変だろう。だから2週間後に大量虐殺をするのだ。」


「…?」


 何を言っているのか分からない。そうか、夢だから変であってもおかしくない。


「嘘じゃない。このまま行けば君の本性は壊れ、先に自分の人格を殺すことになる。だがチャンスを与えることにしたよ。」


 子供は話を続けた。


「君の唯一の趣味だったゲームに君の魂を移そうと思っている。これをうまくクリアして出てきたら、君が望んでいた2年前に生を返すことにするよ。」


「え?2年前?」


 子供の言っていたことが本当であってほしい。ケイは本気でそう思った。


 その瞬間、レインボーブリッジに冷たい風が吹いた。


 少しではあったが、寒さを感じた。夢にしては妙に感覚が生きていた。


「私は本来であればこんなことしないんだが、君のことをとても大切に思っている女性の方が何度もお願いをしてきたんだ。だから断ることができなかった。」


「俺を大事にしてくれる人なんてこの世にたった一人しかいない…」


 どこからか温かい目でこちらを見ているような気がした。


 その方向に首を向けたかったが、首が動かなかった。


「さあ、そろそろ出発する時間のようだ。行って君の性格に変化を与えるんだ。それができなければ、結局君はここへ戻って運命通り、死ぬことになる。」


 するといきなりブリッジ海上の上に立方体の巨大なサイコロができた。


 まるで運命のサイコロとでもいうような見た目をしていた。


 それはどことなく見覚えがあった。文房具屋で売っているありふれたサイコロではないにもかかわらず、馴染みがあった。


 確かにあのサイコロの見た目は、よくやっていたゲームで登場するオープニングオブジェクトだった。


「あれは最初に陣営を選ぶ時に使うサイコロだ」


 予想が合っていればサイコロは一つではなく3つだ。


 思った通りだ。


 サイコロの後ろにもう1つ巨大なサイコロが2つ現れた。


 その瞬間、橋の下で激しい波が起きた。サイコロ一つが落ちたのだ。


 出た数字は「6」だった。


 今起きていることが本当なら、目の前でエンディングが決定されているのと同じだ。


 ゲームタイトル「滅亡する世界のアカデミータイクーン」は東西南北に分かれている大陸で、アカデミーを経営する校長となり最後まで生き残るゲームだ。


 東大陸、西大陸、南大陸、北大陸、互いに体制が異なる。


 東大陸は自由都市体制。西大陸は帝国体制。


 南大陸は独立した王国体制。そして北大陸は連邦君主国体制で運営される。


 各大陸ごとに特性も異なれば種も異なり、各大陸には4つのアカデミーが存在する。


 つまり、世界に計16のアカデミーがあることになる。


 その中から一つのアカデミーを選んでエンディングを迎えるというのがゲームの目的であり、キャラクター間の相互作用はあまりにも自由で、プレイヤーごとに異なる過程を経験するというメリットがある。


 デメリットはもっとはっきりとしている。


 平均プレイ時間は二年以上であるというのに、ハッピーエンドはたった1つしかないという点だ。


「連邦君主国として運営される北大陸。そのメインアカデミー。」


 16のアカデミーのうち、ゲーム開始から後半まで最も強く、最も競争力があり、最も活発なアカデミーであるそのアカデミーを選ばなければ、このゲームは無条件にバッドエンドを迎える。


 7年以上前のゲームだが、この法則は破られなかった。


 子供が突然話し出す。


「君も知ってると思うが、16点が一番高い点数だ。たとえば、最も強い北大陸のメインアカデミーに行くには16点が必要だそうだ。その下の点数が出るほど順位が一つずつ下がる。残り二つのサイコロは君が投げてみたまえ。」


 ケイは一瞬、手首が重くなるような気分になった。


 いつの間にか手には小さなサイコロが握られていた。


 手首だけが動くような感じだった。


 ケイは自信を持ってサイコロ一つを海の方へ投げた。


 幼い頃から、賭博式ゲームやコイン投げはなかなかのものだった。


 今起きていることが全て事実だとすれば、すでに勝ったも同然だった。


 ブリッジ海上に浮かんでいた大きなサイコロがすぐ下に落ちた。


 ドーンという音がして、6つの点が空を眺めていた。


 今回も「6」が出たのだ。


 全部で12点だ。子供の言う通りなら、あと4点以上取ればいい。


 システムの特性上、5や6が出ても自動的に4点に合わせられ、合計16点に合わせられる。


 それで一番いいアカデミーに行ける。


 これが夢だとしても4点以上を取りたかった。


 そうすれば現実で目覚めても良いことがあるような気がした。


 期待で手が少し震えた。


 落ち着いて、いつものようにしなくては。サイコロを軽く握り、出したい数字を空に見立てた。


 投げる前にサイコロを真ん中に置くのは必須だ。


 次に手を振るのではなく、手首だけ回す。


 全て回す必要はない。折る必要もない。


 ただ優しく少しだけ。ぽんとサイコロを置いた。


 同時に空にある巨大なサイコロも落ちた。


 ドンと海面にサイコロが突き刺さった。


 空を眺める点の数は1、2、3、4···5。


 5?ケイは目を丸くして点の数を指で数え直した。


 やはり5だった。


 狙ったサイコロの数字は「4」だった。 そこにもう1つ点が多いのだ。


 実力が衰えたのだろうか。まあ、そういうこともあるだろう。どうせ数字は「4」に変わる。


 ところが時間が経っても数字は変わらず「5」で止まっていた。


 ケイが疑問に思っていると、子供が言った。


「17点が出るなんて。大したもんだ。」


 何かがおかしかった。


 このゲームのサイコロが3つであるのも、16点がうまく出るよう配慮されたものだ。


 数多いゲームユーザーの中でも17点が出たという人はこれまでいなかった。


 点数が変わらないということはまさか…


「俺が知らない新しい地域に設定されるのか?」 「もっと強力なアカデミーへ?」


 そんなことを考えていた時だった。子供が手すりから立ち上がると、ブリッジの外へと飛び跳ねた。


 子供は海面に落ちることなく浮いていた。


 次第に空へと飛んでいく子供は、最後であるかのように挨拶した。


「さあ、楽しんで。避けられない運命は楽しむしかないんだ。君の本心を打ち明けるのだ。」


 その言葉が終わると同時に、約束したかのように視界がぷつりと切れた。

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