夏に散る桜

西洋美術大全

 これは桜が咲き始める少し前のお話。


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 梨子は西洋美術大全を探していた。


 なぜそのような絶対に面白くない本を探しているのかと言うと、春休みの至りにかかっていたからだ。


 大学生の春休みは2か月と長い。その春休みの中で、何もない日々を過ごしていると、何か始めないとという衝動に駆られるのだ。


 大体の大学生は運転免許を取ったり、旅行に行ったりするのだが、インドアの私にとって、そのようなことをすることはしなかった。


 だから、何かの学問をかじってみようと思ったのだ。その中で、何をかじっていこうかと考えた結果、教養としての美術を選んだ。


 もちろん、美術なら何でもいいわけではない。なんとなくの感覚として、日本の浮世絵や水墨画を知っているよりもヨーロッパの彫刻や油絵を知っている方がかっこいいというのがある。


 だから、西洋美術大全だ!


 大学図書館の蔵書検索で、西洋美術で調べたら、真っ先に西洋美術大全が出てきた。その西洋美術大全の横には1~30と書かれていたが、時間は山ほど余っているのだから、1日1冊のペースで読んでしまえば大丈夫だろう。


 しかし、梨子は実物を目にするとその気さえ失せてしまった。


 その西洋美術大全は棚の1番下に置かれていたのだが、本の高さは梨子の膝を超えていた。おそらく5,60cmはあるだろう。そして、高さのみならず、厚さもとんでもない。その本1冊は辞書のような厚みをして、表紙は革製品のようだった。


 幼稚園児くらいならこの本に挟まれて動けなくなりそうなほどだ。そんな本が1冊のみならず、棚に30冊ずらりと並んでいるのだ。


 1日1冊などとふざけたことを考えていたが、残りの春休み全てをかけても2,3冊読むのが関の山だ。西洋の美術史を舐めていたようだ。


 やるやん! 西洋美術!


 などと言っている暇ではない。こうなったら、1から西洋の美術を知り尽くしてやろう。


 梨子はそう思って、西洋美術大全の1巻に指をかける。しかし、本はびくともしない。しょうがないので手でしっかりと本の上部を掴む。本は埃で汚れていたが、そんなことを気にせずに、力を入れて本を引っ張る。


 しかし、本は動かない。


 梨子は両手を使って、本に手をかける。そして、力を込めて、引っ張る。歯を食いしばって、引っ張る。


 それでも本は動かない。


 梨子はどうしても動かない本に息を切らした。この本の詰まり具合は常軌を逸している。随分本が引き出されていないのだろう。もうこの本全部が瞬間接着剤で固定されているような感覚だ。


 もうここまで来たら引き返せない!


 梨子は周りに人がいないかを確認する。誰もいないことを確認すると、梨子は足を開き、本棚の木枠に足の裏を置く。そして、本に両手をかけると、本棚の木枠に置いた足を蹴り上げる。梨子は全身に力を入れる。踏ん張った足は少しずつ浮き始め、腰まで持ち上がる。


 梨子の体が宙に浮いてもなお、本は全く動かない。


「ちょっと、梨子何しているの?」


 話しかけてきたのは、優美だった。優美は少し軽蔑の目でこちらを見ていた。


「優美も引っ張って! 私の体を引っ張って!」


 梨子はもうこの姿を見られたことなどどうでもよかった。もうこの本を引き出さなければ、我慢ならないのだ。梨子は引き返せないところまで来ていた。


 優美は少し戸惑っていたが、顔を真っ赤にしている梨子の気迫に負けたようで、梨子のお腹に手を回した。そして、梨子のお腹を全力で引っ張った。


 すると、本は少し動いた。


「その調子! もっと! もっと引っ張って!」


 梨子は踏み締める足に力を入れる。優美も梨子の内臓を潰す勢いで引っ張る力を入れる。


 そして、本はずるずると抜けていき、本棚から抜け出た。


 しかし、梨子たちは力を入れ過ぎていた。本を引っ張っていた力と釣り合う本の力が無くなると、余った後ろへの力がかかるのは自然の通りである。


 梨子が踏ん張っていた足は飛び跳ねた蛙の様にぴょんと伸び切り、後ろへと飛び上がった。優美は後ろへと飛び跳ねた梨子の体を受け止めきれずに、後ろに倒れこんだ。


「痛っ~!」


 梨子と優美は合わせるつもりもないのに、そろえて声を出した。優美は梨子の下敷きとなり、梨子は引き出した本の下敷きとなっていた。梨子は体に乗った本をどかして、上体を上げる。


 すると、目当ての本を出した反動で、他の本もつられて出てしまい、他の本が梨子の周りに散乱していた。辺りには目に見えるほどの埃が漂っていた。


「梨子~、一旦私から降りて。」

「ごめん、ごめん。」


 梨子は立ち上がって、すぐに優美からどいた。梨子は辺りに散乱した西洋美術大全を踏まないように、本棚から離れる。優美は上体を上げて、周りを見渡す。


「とんでもないことになっているわね。」

「ええ。」

「訳は後で聞くから、一旦片付けましょうか?」

「ごめんね。そうしよう。」


 優美は立ち上がり、周りを見渡した。そして、近くにあった大きな西洋美術大全の本を両手で持ち上げる。


 すると、その下には1冊の文庫本があった。


「何この本?」


 優美は西洋美術大全の本を1度床に置くと、その文庫本を拾い上げる。


 すると、優美が拾い上げたと同時に、本の中から数枚の桜の花びらがひらりと床に落ちた。


「なにこれ? 桜?」

「まだ時期が早いけどね。多分、今年よりも前の桜の花びらがその本の間に入り込んでいたのよ。」


 しかし、優美は梨子の推理に納得していないようだった。


「何? 何か間違ったこと言った?」

「……この本に去年の桜の花びらが入ることは無いの。」

「なんでよ?」


「だって、この文庫本は今年の夏に発売されたものだもの。」


 優美が見せた文庫本の最後のページには、第1刷が今年の8月であることが書かれていた。

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