天神教授の批評

「それじゃあ、君の推理の穴を指摘しよう。」

 まるで、教授がこの小説を書いたかのような口ぶりで、作者である私に解説を始めた。


「まず、この小説では、全員が犯人になり得るのだ。


 君がジェーンを犯人とする推理の根拠として、被害者の右側にガラスの花瓶が踏み潰されていたことを使っていた。確かに、そのようなことをする合理的な解釈の一つとして、床の傷を隠すためだと考えられる。


 そして、床の傷は被害者の右側に付いていたことから、右手に鉄のブレスレットを付けていたジェーンが犯人であるという論拠が成り立つ。


 しかし、ジェーンが犯人ならば、床の傷を隠す方法として合理的な方法は、死体を動かすことだ。」

 私はそれを聞いて、はっとした。


「例えば、床の傷が左に来るように死体を動かせば、犯人はたちまちクルーノーだ。それに、そもそも死体のある場所を床の傷から離してしまえば、犯人は誰にも確定しない。


 床の傷を隠すためならば、わざわざガラスの花瓶を割る必要はないのだよ。つまり、ガラスの花瓶を割り、踏み潰す動機は、床の傷を隠すことではないのだよ。


 こうなってしまえば、被害者のガラスの破片についてだけ論じていた君の推理は瓦解する。なぜなら、ジェーンが犯人であると導き出した容疑者の消去法は、全てその証拠に乏しいからだ。


 ついでに言うが、君がクルーノーが犯人であることを否定する根拠として、別荘の鍵を持っていたことを挙げていたが、それも論拠に乏しい。なぜなら、クルーノーが別荘の鍵を使ってしまえば、犯人はクルーノーに確定するからだ。


 三人の容疑者の内、別荘の鍵を持っていたのは、クルーノーだけだ。ならば、一番犯人として怪しくなる。だから、窓ガラスを割る偽装工作をしたとも考えられる。


 これらの理由から、誰も犯人として否定されず、容疑者3人全員が犯人になりえるということが分かる。」

 教授がここまでの推理は、作者の自分としても考え切れていなかったことばかりだった。言われてみれば、これでは犯人を絞ることができていない。


「確かに、教授の言っていることは分かりました。でも、そうなれば、この小説は出来損ないの小説となります。私はこれ以上のトリックや推理を想定していないので、私の推理が否定された時点で、犯人を確定できません。


 つまり、先ほど教授がおっしゃっていた犯人がクルーノーであるという推理も確定できないはずです。」

 教授はそれを聞いて、ニコリと笑顔を浮かべた。


「いいや、犯人はクルーノーだ。ナッシュ均衡を使えば、犯人はクルーノーに確定される。」

「……。」

「ああ、君はナッシュ均衡を理解していないのだったね。本当は講義を集中して聞くように注意することが教員としての正しい態度であるが、今回は目をつぶろう。


 ナッシュ均衡とは、合理的な人間達の間では、全員が利益を最大になるように行動することだ。」

「……?」

「よく分かっていなさそうな顔だから、一応、講義の復習をしよう。例えば、私と君がゲームをするか考えるとする。


 私はそのゲームに関して得意であるから、ゲームをすれば利益は1、ゲームを断れば利益は0だ。そして、君はゲームをあまり知らないので、ゲームをすれば利益は-1、ゲームを断れば、利益は0だ。


 このような状況では、私はゲームをした方が利益が大きくなり、君はゲームをしない方が利益が大きくなる。よって、私はゲームをしようとし、君はゲームをしようとしないようにする状況に陥るということだ。」

「なるほど、二人がどちらも利益を大きくする方へと動く。だから、二人が利益が最大になろうとする状況に決まる。その状況がナッシュ均衡と言うことですね。」

「その通り!」

 そう言って、教授はお見事と言わんばかりに手を叩いた。


「じゃあ、君の書いた犯人の決まらない小説にこのナッシュ均衡の考えを持ち込む。


 どういうことかと言うと、このような現場状況であるとした時、3人の容疑者は犯人になる方が良いか、ならない方が良いかを考え、ナッシュ均衡を考えるんだ。」

「なるほど、例え、犯人を確定できない状況でも、現場状況から合理的に考えれば、ナッシュ均衡上での犯人は確定することができるということですね?」

「そうだ。じゃあ、3人の容疑者1人1人について、犯人になるか、ならないか考えていこう。


 では、まず、君の想定していたジェーンが犯人になりうるかを考えてみよう。


 まず、ジェーンが犯人になるプラスの利益から考える。正直このような状況では、邪魔な被害者を殺すことができるということしかプラスにならないだろう。だから、容疑者3人全員が持ちうる利益しか得ることができない。


 しかし、ジェーンが犯人になるマイナスの利益、つまり、リスクは主に3つある。


 まず1つ目は、君が推理したようなことを刑事がしうる可能性があるというリスクだ。


 ガラスの花瓶の破片を被害者の右側に残しておけば、勘のいい刑事ならば、ジェーンが犯人であると推理するかもしれない。


 ならば、このような目立つ証拠隠滅をするよりは、先ほど述べたように、死体を動かすべきだ。だから、これはジェーンにとってのリスクとなる。


 次に、絞殺という手段のリスクだ。


 床の傷の説明でもあった通り、絞殺と言う手段は被害者が暴れてしまうというリスクがある。だから、犯人の力が弱ければ、被害者に返り討ちになってしまう可能性があるだろう。


 さらに、犯行現場はキッチンと一体化になったリビングだ。そして、凶器の延長コードはキッチンにあったものだ。そうなると、普通に考えれば、キッチンにはナイフもあるし、延長コードが使われていたため、電気ケトルもあった。


 つまり、犯人は絞殺だけでなく、刺殺や撲殺も選択することができたことになる。


 普通、犯人は被害者からの抵抗を無くすために、刺殺や撲殺で一撃で仕留めることができた。しかし、犯人は絞殺を選んだ。それも、わざわざ、繋がれていた電気ケトルのコードを抜いてだ。


 そこまでして、リスクのある殺害手段である絞殺を取るとは思えない。それも、女性であるジェーンならなおさらだ。


 つまり、ジェーンは絞殺を選ぶのは、相当なリスクになり得るのだ。


 そして、最後は、別荘の侵入手段による期待値的なリスクの向上だ。


 犯人は窓ガラスを割って、別荘に侵入した。そうなると、犯人は窓ガラスを割って、別荘に侵入せざる負えなかったということになる。


 つまり、玄関のカギを持っていないサイモンとジェーンに絞る推理が可能になる。容疑者が3人から2人に少なくなるということなので、ジェーンが犯人として疑われるリスクが上がるということだ。


 別に、容疑者と被害者に関係があったなら、玄関の扉を叩いて、別荘に侵入し、被害者の隙をついて、殺害すればいい。そして、玄関の扉の鍵を閉めずにいるか、被害者から鍵を奪えば、容疑者は3人のままで、リスクが上がることはない。だから、ジェーンが犯人ならば、そのような行動をとるはずだ。


 このようなリスクの数々から、このような現場状況の時、ジェーンは犯人になるべきではない。


 そして、サイモンに関しても、ほぼ同じような理由で犯人になるべきでない。


 サイモンも絞殺と言うリスクを取るべきではないし、窓ガラスを割るリスクを取るべきではない。ジェーンよりはリスクが少ないが、それでも、サイモンも被害者を殺害する利益よりも犯行がバレるリスクの方が高いと考えられ、サイモンも犯人になるべきではない。


 最後に、クルーノーが犯人であるというべきか考える。


 この時、クルーノーも利益よりリスクが多ければ、再考する必要があるが、幸い、クルーノーにはこの現場状況で、犯人になる利益がたんまりある。」

 そう言って、教授の推理は佳境に入っていった。

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