作者の梨子
私は深呼吸をした後に、自ら書いた小説の推理を始めた。
「まず、この小説の肝となる被害者の右側に残されていた粉々になったガラスの花瓶ですが、先ほどご指摘頂いた通り、床の傷を隠すものです。
犯人は犯行の際、床に傷をつけてしまった。そして、その床の傷は犯人にとって不都合なものでした。ですから、床の傷が目立たないように、リビングにあったガラスの花瓶を床に叩きつけ、踏み付けた。
犯人は窓を割って侵入してきているため、窓ガラスの破片を踏まないために、土足で侵入したと考えるのが、普通です。ですから、ガラスの花瓶を粉々になるまで踏み締めることができた。
すると、小説に書いた通り、床にはガラスの破片が床を傷つけ、中には突き刺さったものもあった。そうなれば、犯人が犯行時に付けた傷は目立たなくなる。
では、犯人が犯行中につけてしまった傷とは何だったのでしょう?
答えは、手に付けた装飾品です。
今回の犯行は、後ろから被害者の首を延長コードで絞めたことによるものでした。もちろん、このような絞殺は首の骨を折るほど強く締めない限り、窒息するまでの数十秒、被害者は抵抗していたことになるでしょう。
被害者は首に巻き付いたコードを剥がそうと、首をかきむしったり、体を動かしたはずです。
そうなると、犯人は、被害者の抵抗に耐えきれず、体のバランスを後ろに崩し、倒れこんだ可能性がある。
そう考えると、被害者との揉み合いの中で、腕に着けていた装飾品の何かが床にぶつかり、床に傷をつけたと考えられる。なぜなら、首を絞めるための延長コードを両手で持っていたのですから、倒れこんだ時には腕が床にぶつかるはずだからです。
そして、犯人は被害者からの抵抗にあいながらも、被害者を何とか殺害することができた。
しかし、犯人は床にある傷を見つけ、それが自分を含む3人の容疑者の中で、自身のみにしかない特徴の傷であったことに気が付く。なので、偽装をした。
それでは、このような考えから、犯人は誰に絞ることができるのか?
まず、サイモンは犯人ではありません。なぜなら、サイモンは腕に何もつけていませんし、眼鏡だけです。もし、犯行中に眼鏡が割れたとしたら、レンズの破片を掃除すればいいだけのことです。わざわざ、ガラスの花瓶を割らなくても良いことです。
それに、サイモンは極度の近視でした。眼鏡が割れてしまえば、現場から立ち去ることができずに、立ち往生していたはずです。
ですから、サイモンは犯人でない。
では、教授の指摘した通り、クルーノーが犯人であるかと言うと、残念ながら、そうではありません。
なぜなら、クルーノーは腕時計を左手に着けていたからです。
確かに、クルーノーの鉄製の腕時計ならば、床に傷を付けるでしょう。しかし、その傷が付くのは、被害者の左側の床です。
被害者の首を絞め、倒れ込んでしまった時、当たり前ですが、犯人が首を絞める手は、被害者の右側に犯人の右手、左側に犯人の左手です。
ならば、左手に腕時計をしていたクルーノーが犯人ならば、仰向けになった被害者の左側の床に傷が付くはずです。しかし、床の傷は右側なので、クルーノーは犯人ではない。
付け加えるなら、クルーノーは別荘の鍵を持っていました。ならば、窓から侵入する必要はなく、玄関の鍵を自身の合鍵で開けて堂々と犯行に及べばいいのです。だから、クルーノーが犯人であることは不自然です。
と言うことは、犯人は消去法的にジェーンになります。
実際、ジェーンは右手に鉄製のブレスレットを付けていました。ジェーンが犯人ならば、先ほど説明した理屈で、被害者の右側の床に傷が付きます。それに、ジェーンは鍵を持っていないので、窓から侵入した理由も説明できる。
だから、犯人はジェーンになるんです。」
私は自信満々の表情で、自身の推理を披露した。この推理に穴はないはずだ。ましてや、クルーノーが犯人になり得る理由も二つ潰しておいた。これなら、反論は出来まい。
そもそも、私が書いた小説なのだから、私が犯人と言ったら、犯人はそいつに決まりだ。他人から犯人の難癖をつけられる筋合いはない。
教授は私の推理の解説を聞いて、うんうんと首を動かしていた。私の推理に納得したようだ。やはり、教授と言えど、このようなミステリーを解く才能に優れているわけではない。本当は、自身の研究分野を極めているだけの人間なのだ。かしこぶっているただの凡庸な人間だ。
私は心の中で教授のことを見下していると、教授は思わぬことを言いだした。
「やはり、犯人はクルーノーだ。」
「えっ?」
私は驚きの声が思わずでしまった。この教授は私の推理を聞いていなかったのだろうか?
私はちゃんと犯人がジェーンである合理的な根拠と推理を並べたはずだ。しかし、教授は頑なに意見を変えようとしない。このミステリーに何か別の推理を建てることができるのだろうか?
「私、ジェーンが犯人であると言いましたよね? それに、クルーノーは犯人でないとも言ったはずです。」
「ああ、聞いていた。」
「なら、私以外の推理があると言うんですか?」
「いや、推理に関しては、ほとんど君の言う通りだ。」
「じゃあ…。」
「しかし、犯人がジェーンであることは合理的ではない。」
「……それはなぜ?」
「ナッシュ均衡に反するからだよ。」
「ナッシュ均衡ですか?」
「確かに、その小説の世界が合理的ではない人間達の殺人ならば、ジェーンを犯人にする筋立てを行うことも可能だ。
しかし、この殺人が合理的な人間のみで行われていたと仮定した時、この推理ゲームの解は、ナッシュ均衡上にいるクルーノーが犯人であるしかないのだよ。」
「……そうなんですか?」
私はナッシュ均衡とは何か分かっていなかったので、後半は何を言っているのか分からなかった。だが、教授の言葉の裏には、私が非合理な人間であるというメッセージが込められていることは分かった。
「じゃあ、ジェーンが犯人ではなく、クルーノーが犯人であるという理由を説明してください。
……それと、ナッシュ均衡についても……。」
私は講義を聞いていないみたいで言いにくかったが、背に腹は代えられない。
「なら、この小説の犯人がクルーノーであるということを一つずつ説明しよう。」
そう言うと、教授の推理が始まった。
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