ナッシュ均衡上の犯人

 「じゃあ、クルーノーが犯人である利益について述べていこう。


 まず、クルーノーにとっては、被害者周辺に踏み潰されていたガラスの破片が利益になりえることを説明しよう。


 床の傷を隠すだけなら、ガラスの破片よりも死体を動かす方が良いことは先ほど述べた通りだ。しかし、逆に考えれば、ガラスの破片には利点がある。


 ガラスの破片を残した方が、殺害現場で目立つということだ。


 死体を動かすだけなら、床の傷と自信が犯人であることを結びつかせたくないのだと考えることができるが、ガラスの破片を残すと、殺害現場の中で目立ち、床の傷を隠すという推理が立てやすくなる。


 すると、必然的に、ジェーンが犯人として逮捕される。そうなると、ジェーンにとってはリスクであるが、サイモンとクルーノーにとっては利益になる。なぜなら、自分の罪をジェーンが被ってくれるのだから、殺人の最大のリスクである逮捕を免れることができる。


 そう考えると、殺害手段が絞殺であったことも説明が付く。


 なぜなら、床の傷を隠すという動機を得るためには、一撃で人を殺害できる刺殺や撲殺を選んではいけない。だから、犯人は殺害手段としては最もリスクの高い絞殺を選んだ。絞殺による殺害のリスクをジェーンへの濡れ衣を着せることができる利益で相殺できるからだ。


 そして、窓から別荘へと侵入したことも利益となる。なぜなら、クルーノーは合鍵を持っているからだ。さきほど、窓から侵入することは、ジェーン達にはリスクとなると言った。


 だが、クルーノーにとっては、2つの利益がある。1つはクルーノー自身が犯人の候補から除外されることだ。クルーノーが犯人なら玄関の鍵を使わず、窓から侵入数ことは不自然だと考える。


 しかし、それはよく考えると、クルーノーに利益のないことだと気が付く。なぜなら、玄関の鍵を開けて侵入すると、容疑者の中で、鍵はクルーノーだけしか持っていないので、クルーノーが犯人一択となる。


 そして、2つ目の利益は、ジェーンの疑いを強める利益だ。窓から侵入は、容疑者をジェーンとサイモンだけの二人にし、ジェーンが犯人であるという推理をしやすくすることができる。だから、クルーノーは窓から別荘に侵入した。


 つまり、ジェーンにとってリスクだった床の傷も、絞殺も、窓からの侵入も全て、クルーノーにとっては利益となっている。


 これらの理由から、クルーノーが犯人であるべき利益はリスクよりもかなり大きい。よって、クルーノーはこのような現場状況では、犯人であるべきなんだ。


 そして、今までの考えから、ジェーンとサイモンは犯人となるべきでなく、クルーノーが犯人になるべきだというナッシュ均衡に陥る。


 よって、この小説のナッシュ均衡上の犯人は、クルーノーだ。」

 教授はそう言って、推理を締めくくった。


 私は教授の理詰めによる犯人捜しに圧倒された。私の想定していた推理を飛び越え、犯人の心理を教授の専門分野であるゲーム理論によって、導き出した。その推理は素晴らしいほど合理的だった。


「しかし、君の小説は良く出来ている。もちろん、今の私の様に、ケチをつけることは出来る。だが、床の傷をガラスで隠すというトリック自体は、良い発想だった。


 この小説はどこかに出すつもりなのか?」

「いえ、私が自己満足で書いているだけです。」

 私は恥ずかしがりながら、そう言った。


「それは合理的じゃない!」

 教授は少し声を張り上げて、そう言った。


「きっと、君はこの小説を公開するリスクを感じているかもしれないが、君の小説は面白い! おそらく、私の様に批判的に生きている人間でなければ、君の推理の方が単純で面白いと言えるだろう。


 だから、君はこの作品を公開してみるべきだ。今は匿名性のあるネットで小説を投稿できるのだろう。


 きっと、君の作品を批判する人間はそういないだろう。だから、君には利益がある。リスクを凌ぐほどのね。保証する。


 だから、君は小説を公開してみるべきだ。」

 私は教授からのその言葉に、何か心を突き動かされるものがあった。


「ああ、随分と君を拘束してしまった。私ももうすぐ次の講義の時間だ。


 今のことは、君の小説の一ファンとしての感想だ。だが、今日のことは非常にいい経験になった。


 では、次の講義で、また会おう!」

 そう言って、教授は講義室をそそくさと出て行った。私は1人で、講義室に残された。私は机の上に置かれた小説が書かれた原稿用紙を見つめた。


 すると、心の中で、教授が言った面白いという賞賛の言葉が何度も繰り返されていた。自己満足で終わっていたならば、受け取ることのなかった他人からの賞賛に心地よさを覚えていた。


 もちろん、批判される怖さもある。実際、今までもそれが原因で、小説を他人に書くことができなかったのだと思う。


 だが、そのリスクよりも、他人に評価され、賞賛されるという利益の方が大きいのではないかと感じ始めていた。


 私の中でのナッシュ均衡はゆっくりと動き出そうとしていた。

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