第30話 side梢

 朝、意識が浮上して、アラームが鳴っていない事に気が付いて飛び起きた。幸い私が起きたのはアラームが鳴る少し前だったようで、ほっと息を吐きながら、確かな感じる眠気に誘惑され、頭が枕に引っ張られるような感覚に襲われる。


 それを振り切ってベッドから足を下ろし、ゆっくりと立ち上がって伸びをする。カーテンを開けて、部屋に光を入れる。


 よし、と声にならないくらいに呟いて、出掛ける準備をする。寝坊をしなかったとは言っても、化粧やら何やらをしていると、あっという間に時間は過ぎ去ってしまう。少しくらい遅刻しても、彼女ならきっと笑って許してくれるだろう。しかし彼女と一緒に過ごす時間はその分減ってしまう。彼女がどう思おうと、それは私が嫌だった。


 顔を洗い、朝食にはいつも通り菓子パンを食べ、歯磨きをして、昨日のうちに決めておいた服に着替え、化粧をする。時間はあまり無いが、慌てず、丁寧に。そして張り切り過ぎないように気を付けながら化粧を施す。それからヘアメイクをして、髪に隠すように小さな花のピアスを両耳に付ける。


 暢気に一つ欠伸をしながら時計を見ると、きゅっと心臓が縮こまったような感覚に襲われる。バタバタと大きな音を立てながら散らかった物を片付け、忘れ物が無いか、よく確認する。


 本当に大丈夫なのだろうか、と玄関で靴を履きながら考えるが、昨日までの私が忘れ物をしていない限りは問題は無い筈だ。最悪向こうで買い揃えれば良い。そのためのお金はちゃんと入っている事を確認した。財布も携帯も、大事な物は全て鞄に入っている。


 外に出て、鍵を掛け、ドアハンドルを引いて鍵が掛かっている事を確認し、駅に向かってキャリーバッグを転がしながら歩く。


 ここから十分程歩いた所にある駅から電車に乗って横浜に向かい、そこから新幹線に乗って京都へと向かう。現在時刻は七時四十分。何事も無ければ集合時間に間に合う筈だ。


 彼女にはまだ言っていない事だが、私が今住んでいる場所から京都に行くのに掛かる時間は三時間程だ。当然ながら料金もその分上がり、片道だけでイラスト一枚分のお金が吹き飛んでしまう。


 気軽に次のオフ会は京都に行きたい、なんて言っていたが、交通費の他にホテル代や食事代など、掛かる費用を考えると憂鬱な気分になってしまう。今日からの二日間はいかにそれらの現実から意識を逸らせるかが問題だ。


 彼女に早く会いたい気持ちとこつこつと貯めたお金が吹き飛ぶ憂鬱な気持ちに心を揺さぶられながら只管歩き、予定通りにやってきた電車に乗り込む。運良く空いていた端の席に座り、ふぅ、と息を吐く。


 ここから三時間程、私は電車に揺られる事になる。普段はあまり小説を読まないのだが、今日は暇潰しのために持って来た小説がある。乗り物酔いをする私ではあるが、今まで電車で酔った事は一度も無い。さすがに大丈夫だろうと思い、ずっと気になっていた小説を開く。


 小説を四分の一程読み進めた辺りで、乗り換えのために電車を降りる。窓口で予約していた切符を受け取り、少々の不安を感じながらホームへ行き、新幹線を待つ。その隙に彼女に無事に予定通りの新幹線に乗れそうだという事を伝えておく。


『おはよう。新幹線間に合ったよ』


 送信すると、数秒後に既読が表示され、すぐに『おはよう! 良かった!』と返信が来た。相変わらずの返事の早さに思わず笑みが溢れる。


 彼女も無事に起きていた事を確認し、到着した新幹線に乗り込んで出口の近い席に座る。ここからまた暫く、二時間以上は座りっぱなしとなる。中途半端な所で閉じてしまった本の続きを読んでも良いのだが、微かに感じている眠気を解消するには丁度良い時間だ。


 鞄を抱き締め、目を瞑って少しすると、微かに身体が後ろへ引っ張られるのを感じた。


 新幹線に乗るのは久しぶりの事で、予約する時から少し不安を抱えながら今に至るが、ここまで来てしまえば後は目的地で降りるだけだ。もし寝過ごしてしまうと、その分の料金を払わされる可能性もあるようだが、さすがにこの体勢で二時間以上眠り続けはしないだろう。


 唇をきゅっと締め、鼻でゆっくりと呼吸をすると、ドクン、ドクン、といつもよりも少し早い鼓動が聞こえるような気がした。眠気は感じているのに、妙に胸が高鳴っていて、意識が落ちていかない。この感覚には覚えがある。アルバイトに行く前や、面接に行く前のあの感覚だ。どうやら私は緊張しているらしかった。


 彼女とほぼ毎週ゲームをして、去年の末には実際に顔を合わせ、手まで繋いだ仲だ。しかしそれでもまだ彼女と会うのは今日で二回目だ。それも三ヶ月も間が空いてしまっていて、慣れなんてものは疾うに消えてしまっている。


 向こうに着いて、彼女を見つけたら、何と言って声を掛ければ良いのだろう。そんな事を考えていると、眠れそうな気配はすっかり消えて無くなってしまった。


 諦めて本を読んで気分を落ち着かせようと、小説を開き、集中はできなくとも、とりあえず文字を心の中で読み上げていく。内容はいまひとつ頭に入らず、何度も繰り返し同じ所を読む。


 いつの間にか物語は中盤まで進み、次が京都駅である事をアナウンスが報せてくれた。


 本を鞄に仕舞い、窓の外に目を向ける。そこにあったのは想像していたような景色ではなく、ごく普通のありふれたビルの建ち並ぶ街だった。


 軈て京都駅に到着し、キャリーバッグを持ってホームに降り立つ。車輌から少し離れて人通りの無い場所できょろきょろと辺りを見渡し、一先ず周りの人について行き、分かりやすく出口と書かれた黄色の吊り看板の方へ向かう。


 エスカレーターで下の階に降り、彼女との待ち合わせ場所である八条東口へ向かう。どうして分かりやすい中央口じゃないのかと、以前気になって訊ねた時、何となく、というあまりに彼女らしい答えが返ってきたのを覚えている。


 壁の案内に従って迷路のような通路を通り、無事に八条東口の改札を抜ける。そして視線を出口の方へ向けると、まるで運命のように彼女と視線が重なった。


 ガラガラとキャリーバッグを転がし、早足で彼女の下へ向かう。


「おはよう、梢ちゃん」

「うん、おはよう」

「久しぶりやね」

「そうね」


 無事に会えた嬉しさと同時に、妙な気恥ずかしさを感じて、誤魔化すように笑いながら視線を落とし、そのついでに彼女の全身を見る。そんな私の目線に気が付いた彼女は一歩下がって見せびらかすように身体を捻ってスカートを揺らす。


「どう?」

「うん。可愛い」

「ありがとう」


 いつもとは少し違う、照れたように笑う彼女に釣られるようにして私の頬が吊り上がる。


「梢ちゃんも可愛いやん」

「そう?」

「うんうん。いかにもおしゃれさんって感じ」


 彼女の目線が私の足元から顔の辺りまでをゆっくりと動く。最後に目が合って、恥ずかしさに耐えられなくなった私はすぐに目を逸らした。そうすると、彼女は目の前まで来て、私の髪をそっと撫でた。


「こんなにおしゃれして来てくれてありがとうな」


 心地の良い低音が耳に響く。顔が熱くなるのを感じる。


「あっ、ピアスもしてるやん」

「う、うん」

「へぇ。可愛い……」


 そう言いながら彼女は私の耳を覆っていた髪を人差し指で掬って耳に掛ける。その時彼女の指先が耳をなぞり、ぞくぞくと鳥肌が立ち、思わずぎゅっと目を瞑る。そうすると、彼女はいつものように、あはは、と声を上げて笑った。


「ごめん、ごめん。擽ったかった?」

「ううん。大丈夫」


 全く大丈夫では無いが、咄嗟に首を横に振って否定する。


「ほんまに?」

「うん。ええと、ほら、今日は服見るんだよね?」


 あまりに露骨な話の逸らし方に、彼女がくすりと笑う。


「その前に荷物預けに行こ。ホテルに預けるんやんな?」

「うん。そのつもり」

「じゃあ行こう」


 そう言って彼女は私のキャリーバッグを持ち、歩き出した。


 彼女は一体私をどうしたいのだろうか、と私の心臓の鼓動は煩く響いていた。

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