第22話 side梢

 目の前で、彼女が何かを求めるような、こちらの顔を窺っているような、そんな表情をして、私に向かって両腕を広げた。


 何となく思っていた事だが、彼女はどうやらスキンシップが好きらしい。私を呼ぶ時には袖を引いたり腕や肩を突いたりしていたし、時には腕を絡めたり、手を繋いだりもしていた。初めこそ戸惑ってしまっていたが、それを不快に感じた事は一度も無い。


 そして今、彼女はきっとそれを求めているのだろう。妙に年上という事を意識している彼女の事だから、照れ臭かったのかもしれない。それか、私に配慮してくれているのかもしれない。どちらにしても、彼女はそれをされて問題無いと身体で示してくれているのだ。ならばそれを拒む理由は私には無かった。


 周りの目を少し気にしながらも、一歩前に踏み出し、それから一瞬、腕をどうすればいいかを迷い、ほんの少し身体を曲げて、彼女を抱き締める。彼女の細い腕が私の背中に回され、力強く抱き締められる。それは彼女の気持ちの強さを表しているようで、堪らなく嬉しくて胸が満たされるのと同時に、彼女との別れが辛くなった。


 お互い何も言葉を発する事はなく、ただ相手の存在を確かめ合い、そして、ゆっくりと身体を離す。彼女の手が私の腕を伝い、手が優しく握られる。それから、彼女は私を見て、優しい笑みを浮かべた。


「じゃあ、またね」

「うん。またね」


 彼女の手が離れ、冷たい空気が肌を撫でる。彼女に手を振り返し、ゴロゴロとキャリーバッグを転がして改札口へ向かう彼女の背中を見つめる。


 離れて見てみると、彼女はあんなにも小さい身体をしていたのだと改めて思う。私もあまり大きな身体ではないので、彼女と並んで歩いていても、それほど差を感じなかったのだが、他の人に彼女が紛れると、修学旅行に来た学生のように見える。


 そんな事を考えながらじっと見ていると、彼女が階段の前でこちらに振り返り、手を振った。同じように胸の前で小さく手を振り返すと、彼女は離れていても分かるくらいに笑顔になり、またね、と唇を動かしたのが分かった。


 彼女が忘れ物などをしていないのを確認して、よし、と気持ちを入れ替えて動き出す。


 店の明かりに照らされた道は、まだそれなりに人通りがあり、どこかから誰かが笑う声なんかも聞こえてくる。けれども、先程まで隣からしていたあの低く落ち着いた声は聞こえない。それだけでとても静かになったように感じて、彼女が本当に帰ってしまったのを実感した。


 人の少ない電車に乗り、うとうととしながら向かい側の窓に映る景色を眺める。街を離れると、明かりが少なくなり、窓の外は真っ暗になる。


 電車を降りて、誰も居ない駅舎を通り、見慣れた暗い道を少し早足に進む。怖いわけではなかった。ただ、何となくこの暗い道を歩いていると、寂しさが込み上げてくるのだ。


 十分ほど歩き、少し汗が滲んできた頃、家に着いた。ドアの鍵を開け、中に入ると、温かい空気が身体を包み、はぁ、と息を吐く。それから靴を脱ぎながら「ただいまー」と誰も居ない廊下に声を掛けると、リビングの扉が開いて母が顔を覗かせた。


「おかえり。思ったより早かったね」

「昨日も言ってなかった?」

「そう。まぁ、寒かったでしょ。お風呂入るか?」

「もう入れるの?」

「もうって、もう八時過ぎてるんだから」

「あれ、そうなの?」

「だから早く荷物片付けてお風呂入りなさい」

「はぁい」


 階段を上り、自室に入ってコートをハンガーに掛ける。時計を見てみると、確かに既に短針は八のところを過ぎてしまっていた。そんなに時間が経っていたのかとよくよく考えてみれば、改札前で随分と話し込んでしまっていた上に、電車と徒歩の移動時間を含めれば妥当な時間だった。


 ふぅ、と息を吐いて、ベッドに腰掛け、彼女は今どの辺りに居るだろうかと考える。彼女曰く、京都から静岡まで一時間程らしいので、今はまだ新幹線の中だろう。


 今連絡をすれば、と考えようとしたところで、既に彼女の声が聞きたくなっている自分に気が付き、頬をつり上げる。


 彼女が帰ってくるまでの間に風呂を済ませ、リビングで寛いでいると、母が「今日はどうだった?」と洗い物をしながら訊ねてくる。


「楽しかったよ」

「相手の人は女の子なんでしょ?」


 女の子、という言い方に少し引っ掛かったが、わざわざ指摘するのもおかしい気がして、普通に答える。


「うん。可愛らしい人だった」

「へぇ、そうなんだ」


 あまり深掘りをされても答えに困るので黙っていようと思ったが、母はそうさせてくれなかった。


 どんな人だったのか、どこに行ってきたのか、何もトラブルは無かったのか、彼女は楽しんでくれていたのか、二日間の話を全部しなければならないのかというような勢いで質問される。四つ目の質問辺りから少しうんざりし始め、答えながらキッチンに移動してお茶を飲み、部屋に行こうと扉の前に立っても母は話を続けようとする。


 段々と私の返事も雑になってきてしまった所で、漸く母は私が自室に戻りたがっているのを察してくれ、「おやすみ」と言って自室に戻る。


 ベッドに腰掛け、携帯を開くと、彼女から『帰ってきたよ』と連絡が来ていた。


『おかえり』


 すぐに既読が表示される。


『梢ちゃんももう帰ってる?』

『帰ってきてるよ。お風呂も入った』


 彼女は返信が早く、すぐに返してしまうと他の事が何もできなくなってしまうので、いつもなら暫く置いた後に返しているのだが、今日は彼女と話していたい気分だった。しかしタイミングとはなかなか合わないもので、彼女からは『私も今からお風呂入ってくる』と返ってきた。


 ふぅ、と息を吐き、ベッドに寝転がる。布団を被り、彼女が戻ってくるまで動画を観て待っていようかと思ったが、昨日と今日とで疲労が溜まっており、布団の暖かさに負けて瞼が重くなり、手から携帯が滑り落ちてはっと目を覚ます。


 それを二回ほど繰り返し、睡魔の誘惑に耐えられなくなった私は彼女に『先に寝るね。おやすみ』とスタンプを添えて送信し、部屋の電気を消して、目を瞑るとすぐに意識が沈んでいった。

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