第20話 side梢

 ふ、と意識が覚醒し、瞼を持ち上げる。それからバスに乗っていた事を思い出し、身体を起こそうとしたところで、肩に重みを感じた。見ると、彼女が私の肩を枕にして眠っていた。


 顔を覆っている髪をそっと指先で掬い、耳に掛けてやる。そうすると、瞼がゆっくりと開かれ、繋いでいた手がぎゅっと握られる。


「おはよう」


 彼女は身体を起こし、何かに気付いたように口元を拭って、いつもより少し低い掠れた声で「おはよう」と言った。それから彼女の視線は私を通り越して窓の外へと向けられる。


 何をしているのかと思ったが、恐らく今どこにいるのかを知りたいのだろうと思い、「もうすぐ終点だよ」と教えてあげると、分かったのか分かっていないのか、彼女は伸びをして、ふぅ、と息を吐いた。


「梢ちゃん、酔いは大丈夫?」

「うん。今のところは」

「さすがにここからは酔わへんのちゃう?」

「多分ね。小豆ちゃんは大丈夫?」

「うん」


 さすがに先程まで寝ていたのだから大丈夫か、と窓の外に目を向ける。外はすっかり夜の街と言った感じだが、時間的にはまだまだこれから遊びに行けるくらいだ。それを証明するように、この暗い中でも歩いている人の姿はちらほらと見られる。


 不意に左手が持ち上げられ、そちらに顔を向けると、彼女が私の手を握ったままでペットボトルの蓋を開けようとしているところだった。さすがに無理だろうと思いながらも黙ってみていると、彼女は見事に蓋を開けてみせた。


「器用だね」

「飲む?」


 彼女が飲みかけのペットボトルを差し出してくる。何の気は無しに飲み口を見ると、いつもは何も気にしないし、今朝も何も気にしなかったのに、何故かそこについ先程まで彼女の唇が触れていた事を意識してしまった。


「えっ? ううん、大丈夫」


 少し挙動不審になりながらも首を振って断る。変に思われていなければいいな、と願いながら視線を窓の外に戻し、バスが終点に着くのを待つ。


 それから五分程でバスは終点に到着し、ぞろぞろと人が降りて行く。それに続いて彼女と手を繋いだままバスを降り、方向を確認するためにきょろきょろと首を回す。


「どこ行くの?」


 彼女が訊ねてきたタイミングでちょうど行きたい方向を把握し、そちらに指を差す。


「こっち」


 そう言って彼女の手を引いて歩き出す。


 まだ起きてすぐだからなのか、さすがに疲労が溜まっているからなのか、彼女は店に着くまで殆ど口を開かなかった。そんな事を考えている私も口は開かず、ただ彼女と繋いでいる手の感触に意識を向けていた。


 彼女の手は意外にも大きい。もしかしたら、いや、確実に彼女の方が手は大きい。私の手は丸くて短い、赤ちゃんのような手、と言うと聞こえは良いかもしれないが、どうも太っているように見えて嫌なのだ。それに比べて彼女は、誰もが憧れるような細くて長い手をしている。


 確か彼女はピアノをやっていた筈だ。彼女も言っていたが、楽器をやっていると指が伸びるらしい。どうにも信じがたい話ではあるが、実際に彼女の手は私の手よりも細長く、綺麗に見える。


 いいな、と羨望の目を彼女の手に向けていると、「何?」と彼女が首を傾げ、これまで何度かこのやりとりをしていた所為か、彼女は「何か付いてる?」と自分の身体を捻り、覗き込んで何かを探そうとするが、もちろん何も見つからない。


「ごめん、本当にね、ただ見てただけだから何も無い」

「そうなん?」


 そう言う彼女の視線には疑念が込められていた。


「嘘じゃないって」


 そう言うと、彼女は一先ず引き下がってくれたが、あまり納得はしていないようで、自らの手や足元を見ては首を傾げていた。


 五分程歩いて目的の店に着き、少し待ってから席へ案内される。店に入る前から美味しそうな香りが漂ってきており、久しぶりに食べる鰻に内心舞い上がりながらいつも食べているものを注文する。彼女はメニュー表にある数字を見て小さく悲鳴を上げていたが、心做しか目が輝いているように見えた。


 それから暫くして料理が目の前に並べられる。いただきます、と小声で言って、その柔らかい身に箸を入れる。彼女の前という事もあるが、やはりこれだけ高い料理は食べるのにも慎重にならざるを得ない。


 食べ方に困って挙動不審になっていた彼女が一口、それを口に入れると、口を手で覆い、何度も頷いて「美味しい」と目を丸くして言った。ここで餃子の時のような感想を言われようものなら、いよいよ彼女の感覚を疑わなければならない所だった。


「美味しかったぁ」


 あっという間に食べ終わり、背凭れに身体を預けて一息吐く。


「今何時?」


 訊かれて携帯を見る。


「六時十分」


 もうこんな時間か、と胸が苦しくなる。


「なかなかええ時間やなぁ」

「そうね」

「……とりあえず、出ようか」

「うん」


 鞄を持って席を立ち、会計を済ませる。会計は結局彼女の「最後くらい年上らしく奢らせて」という言葉に押され、有り難く奢ってもらう事になったが、やはり貰い過ぎなような気がしてしまい、次に会う時もプレゼントを用意しようと心に決めた。


 店を出て、彼女の荷物を回収しに駅へ向かう。


 足が重い。疲れているからなのか、先に進みたくないからなのか。きっとその両方だろう。このまま駅に行って、彼女の荷物を回収してしまえば、後はもう彼女と別れるだけになってしまう。それはどうしても避けられない事だというのは分かっているが、どうにも受け入れ難い。


 彼女との付き合いは長いと言えば長いが、顔を知ったのはつい昨日の話で、一緒に過ごした時間は大して多くない。それなのに、こんなにも離れ難いと感じるのはどうしてなのだろうか。


「今日は楽しかったな」


 彼女が共感を求めるように言った。


「そうだね」

「動物園はまた行かなアカンなぁ。餌遣りとかは楽しかったけど、他にも何かイベントあったっぽいし。あと隣のフラワーパークかなんかも行きたいしな」

「うん。次はもう一日中あそこに行くつもりで行こう」


 そう言うと、彼女がくすくすと笑う。


「そうね。行くとしたら春とか?」

「もうちょっとじゃん」

「梢ちゃんが良いなら全然来るで?」

「私は良いけど、小豆ちゃんは忙しいんじゃないの?」

「春休み辺りなら多分空いてるけど、多分花はそんなによね」

「どうなんだろう」

「まぁ、またその辺は調べてから決めよっか。ダメなら別のとこに行ってもいいしね」

「でも次行くなら京都に行きたいかも」

「じゃあ私がこっち来るから、梢ちゃんは京都で」

「意味無いじゃん」

「しゃあないなぁ。次の旅行の計画は私が立てたろ」

「不安だなぁ」

「お姉さんに任せなさいな」


 彼女は得意気に胸を叩いた。


「ならとりあえず清水寺とか金閣寺とか行きたいなぁ。あとは抹茶も外せないでしょ? それと平等院も確か京都だったよね?」

「京都の事テーマパークくらいの広さやとでも思ってんの?」


 そうして話しているうちに、駅に着き、思わず溜め息を吐きそうになって、それを喉の奥で飲み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る