第18話 side梢

 昼食を食べた後だからなのか、散々歩いて疲れていたからなのか、この不思議な温もりを感じる音の所為なのか、一発目からあんなにも大きな音がこの部屋に響いていたというのに、瞼は重く、解説員の女性の声が右から左へと頭の中を通ってそのまま抜けていく。


 彼女はどうしているのだろうと隣に目をやると、彼女は正面に顔を向け、時折瞬きをしながら解説員の話を真剣に聞いているように見えた。そうすると眠ってしまいそうになっているのが申し訳無くなってきて、静かに座り直して、それから姿勢を正して目を覚まそうと試みるが、耳に入ってくる心地の良い音が私を夢の世界へと引き摺り込もうとしてくる。


「この曲なんだっけ?」


 最後の抵抗として、彼女に耳打ちしてみるが、彼女からは「分からん」とどこか投げ遣りな返事だった。


 邪魔をしてしまっただろうか、なんて思いながらも、私の意識は半分程夢の世界に引き摺り込まれており、そんな事を気にしている余裕も無く、重さに負けて倒れそうになった頭を半ば無意識に起き上がらせる。


 その時、左手が何かに締め付けられる。ぼうっとした頭を動かすと、それが彼女の手だと気付いた。


「大丈夫?」


 彼女が身体を前にして顔を覗き込んでくる。そこで霧が晴れたように意識がはっきりとしたが、またすぐに瞼が重くなり、欠伸が出そうになる。欠伸を何とか口の中で噛み殺し、彼女と繋がっている手に力を入れてみたり、脚を静かにぱたぱたと上下させてみたりと、どうにかして眠気に負けないようにする。


 そうして何とか終演まで耐え抜いたのだが、気が付くとコンサートの内容は殆ど頭に残っていなかった。


 ずっと繋がれていた手が離されてから、鞄を肩に掛けてゆっくりと立ち上がり、腕を前に出して軽く伸びをする。


「すごかったね」


 正直あまり聴けていなかったので、大した感想が浮かばず、在り来たりな言葉を口にする。寝かけていた事を何か言われるかと思ったが、それに関して何かを言われる事は無く、その後まだ見ていないオルゴールを鑑賞し、部屋を出て展望台へ向かう。


 階段を上がり、自動ドアが開くと、ひんやりとした空気がなだれ込んでくる。彼女は外に出るなり腕を空に向けて伸ばし、うーっと可愛らしい声を出しながら伸びをする。あまりに無防備なものだから、悪戯心がふつふつと沸き上がってくる。


「さむっ」


 彼女が身体を震わせる。


「マフラー要る?」

「ううん、大丈夫」


 何が面白かったのか、あはは、と彼女は声を上げて笑い、屋上広場の中央にある謎のオブジェクトに歩み寄っていく。


 公園の遊具だと言われれば納得してしまいそうなそれには、鐘が取り付けられていて、確かに下の部屋に展示されていた物の中にも同じように鐘が吊り下げられている物があった。覗き込むようにして観察していると、左下にこのオブジェクトについての説明書きを見つけた。


「これもオルゴールやったりする?」

「そうっぽいで?」


 彼女の関西弁が微妙に移ったようなイントネーションになってしまい、むず痒くなって一つ咳払いをする。


「ゼロ分になったら勝手に演奏されるんだって」

「へぇ。今何時?」


 ポケットから携帯を取り出し、時間を見てみる。


「えっとね。四時七分かな」

「アカンやん」

「あとね、残念なお知らせをすると、ここの閉館時間が四時半っていう」

「嘘やん」

「ごめん」


 ここまで時間が押してしまったのは動物園に時間を使い過ぎたからではあるのだが、それ以前に計画が杜撰だった。動物園の四分の一にも満たない広さのこの博物館にそれほど時間が掛かるわけがないのだから、先にこちらに来るべきだったのだ。今思い返してみると、コンサートの存在を知っていたが、コンサートの上演時間までは調べなかったし、施設の広さも考えていなかった。もし上演時間が三十分程度だと知っていれば、もし施設が動物園の十分の一程の広さしかないと知っていれば、こちらを先にしていただろう。


 今更後悔しても仕方の無い事ではあるが、つい溜め息を吐いてしまう程にショックだった。


「またいつかリベンジやな」


 彼女が暗い空気を吹き飛ばすように明るく言った。


「来るかなぁ」

「さぁ、それは分からん」


 彼女は腰に手を当て、仁王立ちで答えた。それから彼女に腕を引かれ、景色のよく見える所に移動する。空には少し夕陽の赤が混ざり始めており、湖に映った山々にも微かに朱が差していた。


「恋人の聖地やって」


 彼女が柵の手前にある看板を見て言った。


「恋人は……居なくなっちゃったなぁ」


 言いながら、この旅行は私が彼氏に振られた事から始まったのだという事を思い出した。しかし時間が経ち、別れた彼氏の事など今思い出すまですっかり忘れていた。思い出したからと言って特に胸が痛む事は無い。なのでこの旅行はただ彼女と遊ぶためだけの物になっていた。


「お互いにねー」


 柵に肘を掛け、少しだらしない恰好で景色を眺めていると、彼女が隣にやってきて、一瞬、私と同じように柵に肘を掛けようとして、諦めたのが分かった。


「さっき餃子食べたのってどこ?」


 そう訊かれて、左側に見えている観覧車の方を指差してやる。


「それは多分そっちじゃない?」


 彼女はちらりとそちらに目をやった後、すぐに正面に戻した。


「じゃあこっちに見えてるのは何?」


 正面にあるのは湖と高速道路らしき道。それから私たちが居るのと同じくらいの高さの山々だ。


「分かんない。でも多分奥の方に見えてる山の向こうは愛知県なんじゃないかな」

「そうなん?」

「うん。浜名湖って結構静岡の端っこの方にあるから」


 曖昧な知識を披露してみたが、不安になって、多分ね、と付け加えた。へぇ、と相槌を打った彼女の声を最後に沈黙が生まれ、気が抜けた所を睡魔に襲われ、欠伸を咄嗟に手で覆い隠したが、途中で彼女に見られている事に気付いて、笑って誤魔化す。しかし当然そんな物に意味は無く、彼女には「可愛かったで」とよく分からないフォローをされた。


 そうして暫く静かな時間を過ごした後、下のショップを少しの間物色していると、閉館時間がやってきて、ロープウェイを使って山を下りる。


 空は少しずつ暗くなってきていて、彼女との別れの時間が迫っている事を実感して、胸が痛んだ。彼女を見ると、どうしたの、と訊ねる心の声が聞こえてきそうな表情をしていたので、首を振ってやると、彼女は首を傾げて窓の外に視線を戻した。


 そんな彼女の横顔に見惚れていると、手を握りたくなって、偶然を装って彼女の右手に左手を重ねる。そうすると彼女がまた私を見て、今度は「どうしたん?」と口に出して訊ねてくる。


 どう答えたものかと少しの間考える。


「……寒いかなぁって」


 苦しい言い訳だ、と我ながら思ったが、彼女はくすりと笑って「ありがと」と答え、手の平を上に向け、私の手を握ってくれた。

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