第12話 side梢

 ちらりと時計を見て、少し喋り過ぎてしまっていた事に気付き、そろそろ行こうか、と声を掛けてバスターミナルの方へ先導する。少し早足かと思ったが、彼女はきょろきょろと辺りに目を向けながらも素直に付いて来てくれていた。


 バスターミナルに着き、目的の舘山寺温泉行きのバスを探そうと目を向けると、すぐそこにそのバスが止まっているのを見つけ、さっさとバスに乗り込み、後ろに空いている席を見つけ、バスが苦手ですぐ酔ってしまうと言っていた彼女に窓際を譲る。


 すぐにバスは動き出し、激しい振動が私たちを襲う。そこで私は酔い止めの薬を飲み忘れていた事に気付いたが、今気付いても遅い。私がいつも使っている酔い止めの薬は今から飲んで間に合う程の即効性は無いし、そもそもその薬を持ち歩いていなかった。彼女に行って替わってもらおうかとも思ったが、景色を楽しんでいる彼女を見ると言うに言えなかった。


「バスに乗ったん久々かも」


 なるべく遠くの方を見ていようと、バスの運転席辺りをじっと見ていると、彼女が呟くのが耳に入り、彼女の方へ視線を移す。


「そうなの?」

「うん、高校の修学旅行以来ちゃうかな……。うん。多分そうやわ」


 心の中で相槌を打ちながら、私が最後にバスを利用したのはいつだったろうかと記憶を掘り返す。


「あぁ、でも私もそうかも。家族と出掛けるってなったら大抵車使うし、友達と旅行もした事無いから」

「そうなんや。卒業旅行とか行ってへんの?」

「うん。私の友達ってあんまりそういうアクティブな人等じゃないから」

「まぁ、梢ちゃんも結構インドア派って言うてたもんなぁ」


 彼女はそう言って、視線を窓の外に向ける。


 それを見てふと思う。彼女はよく話してくれるが、あまり目が合わない。今は肩と肩がくっつくくらいの距離感なので、仕方が無いようにも思うが、今朝のように正面に立って話していても、彼女の視線はあちらこちらへと彷徨っていた。


 ちょっとした好奇心に駆られて彼女の肩を指で突いて彼女を振り向かせてみる。


「どうしたん?」


 そう言って彼女はこちらへ振り返る。その初めのほんの一瞬だけ彼女は私を見たが、すぐに彼女の目は下へ下がり、行き場を失ったように右往左往する。


「ううん。なんでもない」

「そう? それでさ──」


 彼女は顔を正面に戻し、中断していた学生時代の話を再開した。


 それから暫く彼女の横顔を眺めながら、彼女と互いの学生時代の話で盛り上がっていると、不意に身体が横に大きく振られ、彼女に凭れかかる。


「ごめん」


 謝りながら身体を起こし、妙な恥ずかしさを誤魔化すように笑う。


「大丈夫?」

「うん」


 意味も無く髪を触り、心を落ち着ける。少ししてまた彼女が話し始めたが、その時、微かな吐き気を感じ始めていた。先程の大きな横揺れに意識を持って行かれてしまったらしい。


「大丈夫? 酔った?」


 心配そうに彼女が顔を覗き込んでくる。「うん」と頷いて返したが、自分でも笑えるくらいに元気が無かった。バスのモニターを確認し、まだ到着まで時間が掛かる事を確認し、深呼吸をする。それから目を瞑り、バスが目的地に到着するのを待つ。


 暫くして、動物園、という何ともシンプルで分かりやすい名称が聞こえてきて、バスに慣れていない彼女の代わりにベルを押し、バスを降りる準備をする。ふと隣を見ると、彼女も少し顔色が悪いように見えた。


 私のが移ってしまったのだろうか、と微かな罪悪感を抱きながらバスを降りる。


 深呼吸をして、肺に新鮮な空気を取り込んでみるが、いまひとつ吐き気は治まらず、この場に蹲ってしまいたかった。


「梢ちゃん、大丈夫?」

「うん……。酔い止め忘れてた……」


 力なく返事をして、何故か言い訳をするような言葉が口から出る。


 彼女に支えられてバス停に備え付けられているベンチに座ると、彼女が優しく背中を擦ってくれる。


「ごめん。ありがとう」


 これから楽しもうという所でこんな事になる筈では無かった。あまりに情けなく、申し訳無い気持ちで溢れる。


「あんまりしんどいようならベルトとかシャツのボタン外すと良いんやけど……」


 彼女は只管に私の体調を気遣ってくれていた。それがただただ嬉しくて、まだ胸に気持ち悪さがある中で、頬が緩むのを感じながら「ううん。大丈夫」と首を振る。


 そうすると今度は「水飲む? 私が口付けたやつでも良かったらあるけど」と彼女は言い、「貰おうかな」と言うと、彼女は鞄からラベルの剥がされたペットボトルを取り出し、わざわざ蓋を開けて手渡してくれる。それだけでなく、「飲める?」と本気で心配そうに訊ねてくるものだから、思わず笑い声を漏らしてしまった。もう少しタイミングが遅ければ、水を吹き出していたところだった。


「大丈夫。ありがとう」


 水を飲み、ふぅ、と息を吐くと、随分と吐き気が薄れたように思えた。


「ありがとう。もう大丈夫」


 もう何度目かの礼を言って彼女を見ると、彼女は一歩間違えれば泣いてしまいそうな表情をしていた。それがまた可愛く思えて、頬が吊り上がりそうになる。


「ほんまに?」

「うん。水もありがとう」

「それはええけど、またしんどくなったら言うてな?」

「うん。ちょっと遅くなったけど、行こうか」


 息を大きく吸い、勢い良く立ち上がる。彼女もゆっくりと立ち上がり、ちらりと私の目を見て、門の方へ歩き出した。少し大股に歩いて彼女の隣に並んで歩く。


「そういえばこっちに見えてるやつが浜名湖?」


 突然、彼女が湖の方を指差して訊ねてきて、そういえば彼女はこの辺りの事を全く知らなかったのだという事を思い出す。


「あぁ、うん。そうだと思う。あの山の上にオルゴールミュージアムがある筈」


 湖の向こうに見える少し背の高い山を指差して言うと、彼女は微かに顔を顰めた。


「あれ登るん?」

「いや、あそこまではロープウェイがあるからそれ乗ろうかなぁって」

「なるほど」

「小豆ちゃんが歩いて行きたいって言うなら別にそれでも良いよ?」

「いや、そこはせっかくやからロープウェイ使おう」

「良いの?」

「別に私そんな歩くの好きちゃうからな?」

「でも徒歩一時間くらいなら歩くんでしょ?」

「それは歩くけど、あれは山やん」

「でもそんなに高くないと思うよ?」

「じゃあ歩く?」

「いや、私は遠慮しとこうかな」

「梢ちゃんも嫌なんやん」


 あはは、と彼女が口を開けて笑うと、それに釣られて私も笑い声を上げた。

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