第8話 side梢

「梢ちゃんも気を付けてな」

「うん。ありがとう」

「帰ったら連絡頂戴ね?」


 実家から一人暮らしをしている東京に帰る時の過保護な親と同じような事を言う彼女に思わず声を上げて笑う。


「そんなに心配しなくても大丈夫だって。心配してくれてありがとうね」


 猶も不安そうな表情をして見つめてくる彼女に握られている手を放し、またね、と手を振って駅に向かう。横断歩道を渡ってから振り向いてみると、彼女はまだホテルの前に立って私を見ていた。どうやら私が見えなくなるまではずっと居るつもりのようで、彼女のためにもさっさと帰った方が良さそうだった。


 彼女が隣から居なくなり、胸が痛む程に静かになったように感じた。思えば彼女はずっと喋り続けていたように思う。彼女なりの配慮なのか、元々おしゃべりな性格なのか、普段の事を考えると後者だろう。いや、普段から気を遣ってくれていた可能性もある。


 一人になるとこんなにも寂しい物なのか、と半日にも満たない短い時間を彼女と一緒に過ごしたというだけで妙な感傷に浸っていた。


 オフ会という物に参加したのは今回が初めてではない。以前付き合っていた彼氏と出会ったのもインターネット上での事で、その彼とオフ会をした時も決して『会』と言える程の規模ではなく、今回と同じように友達と遊びに行くような物だった。


 その時もこんな風に別れた後に寂しさを感じていただろうか。もう二年以上前の事になるので、あまり記憶に無い。彼の事で思い出されるのは彼が人を平気で叩くような人であったという事と、金を借りる事に少しも罪悪感を抱かないような人間だったという事だ。


 そんな彼との事でよく相談に乗ってくれていたのが彼女、伊佐名小豆だった。その時に彼女の言う通りさっさと別れられていれば、今更こんな気持ちにならなくても済んだのかな、と別れて数ヶ月が経った今でも思う。


 はぁ、と溜め息を吐くと、薄らと白い靄が広がり、やがて霧散する。


 駅に着き、改札を抜け、ホームで電車を待つ。ここから電車を乗り継いで三十分程、それから歩いて十分程の、この街の中心から少し離れた住宅街に私の家がある。


 大きくも小さくもない、ごく普通の二階建ての一軒家。その扉の鍵を回し、ドアハンドルを握って慎重に扉を引くと、チェーンロックがされていた、なんて事も無くすんなりと開いた。


「ただいまー」


 誰も居ない廊下に声を掛けると、リビングの扉が開き、母が顔を覗かせた。


「あら、おかえり。早かったな」

「今ご飯食べてたりする?」

「いや、ついさっき食べ終わった所だけど、食べる?」

「ううん。大丈夫。ちゃんと食べてきた」


 靴を脱ぎ、足で靴を端に避ける。


「デートどうだった?」

「デートじゃないって。まぁでも楽しかった」

「それは良かった。一応もうお風呂は入れるようにはしてるけど、どうする? 先に入る?」

「あー、そうしようかな」

「じゃあ先に荷物片付けておいで」

「はぁい」


 長々と話をさせられるのかと思って少し警戒していたが、予想外に早く解放され、ほっと息を吐いて肩の力を抜く。


 あちこちにぶつけた形跡のある急な階段を上り、自室に戻る。コートを脱ぎ、ハンガーに掛け、鞄と一緒にベッドに身体を投げ出すようにして腰掛ける。


 ふと彼女に帰ったら連絡をくれと言われていた事を思い出し、頬が勝手に吊り上がるのを感じながら携帯を開き、言われた通りメッセージを送る。するとすぐに送ったメッセージの横に既読という文字が表示される。


『おかえり。今からシャワー浴びて寝る』


 淡々としたメッセージからは疲労感が滲み出ていた。


 一緒に居た時間は五時間程度だったが、その間にデパートを歩き回り、寒い中を歩いてカラオケにも行った。それだけでなく、彼女は早起きをして遠くから来てくれたため、相当疲れている筈だ。それに旅行というのは疲れる物で、その上今まで顔を知らなかった人間にずっと話しながら過ごしていたのだ。疲れない訳が無い。


『今日はゆっくり休んでね! おやすみ!』と、スタンプと共に送り、携帯に充電器を差して下の階に降りる。それから洗面所の扉を開け、誰も入っていないのを確認してから扉を閉め、脱いだ服を洗濯籠に放り入れ、風呂に入る。


 身体を洗いながら、ふと頭に浮かぶのは彼女の事だった。話に聞いていた通りの小さな身体に、中性的な低い声、それから可愛らしい笑顔が印象的で、はっきりと思い出せる。


 まだ彼女に会ってから数時間しか経っていないが、それでも彼女に対する印象は大きく変わった。自撮りなどの写真を貰っていなかったのも一因ではあるが、今日実際に彼女を目にするまで、彼女があれほど小柄な人だとは思っていなかったし、声だけで考えると実は男性なのでは無いかとさえ思っていた。そう思っていた所にあの可愛らしい彼女が現れた物だから、一目惚れのような感動さえあった。


 過去の失敗もあるので、母もその辺りを心配してくれていたが、今回ばかりは自信を持って会って良かったと言える。


 ふと、彼女に会いたい、と自分が思っている事に気が付き、思わず頬が緩む。


 気を紛らわすように頭から水を浴び、全身の泡を洗い流し、湯船に浸かって明日の事を考える。


 明日は彼女の希望で観光がメインとなるのだが、詳しい予定はまだ決めていない。現状決まっているのは明日の集合場所と集合時間、それから昼食と夕食くらいの物で、具体的にどこに行くかはまだ少し迷っている段階だ。


 彼女の住む京都程ではないが、静岡にも充分に魅力的な場所はある。しかしその全部を回るのは難しいので、その内のいくつか近場に纏まっている所に行こうと思っているのだが、これで彼女に楽しんでもらえるかが不安だった。


 しかしその不安は今日彼女と一緒に過ごした事で少し薄れていた。何せ今日は何を買う訳でもなくデパートを歩き回っていただけだというのに、あれ程楽しめたのだ。ならば彼女とならどこへ行っても楽しめるのではないか。そんな考えた浮かんできていた。


 もちろんその考えに何の根拠も無い。ただそんな気がするというだけの話だったが、それだけで私の不安は多少なりとも解消されたのだから、それで良い。


「よしっ」


 湯船の縁に手を置いて勢い良く立ち上がり、鼻歌を歌いながら風呂から出る。


 リビングでお茶を飲んでから部屋に戻ってくると、すぐにスキンケアを済ませてベッドに移動する。


 いつもならまだ起きていて、日を跨いでもイラストを描いていたり、ゲームをしていたりするのだが、明日は寝坊する訳にはいかない。とは言えまだ風呂から上がったばかりで眠気の欠片も無いので、少し携帯で動画を見て時間を潰す。


 そんな事をしている内にいつも通り零時を過ぎてしまいそうになっている事に気が付き、慌てて電気を消して布団に潜り込んだ。

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