第7話 一日の終わり
カラオケを後にした私たちはデパートの最上階にあるレストラン街に戻ってきた。
彼女におすすめされた静岡県にしかないというハンバーグのお店は、さすがというべきか、まだ夕飯には早い時間だというのに、私たちが着いた頃には既に店の中は一杯になっていた。
そこでげんこつだかおにぎりだか、個性的な名前のハンバーグを「初めての人は絶対食べて欲しい」と彼女に念を押されて食べたが、おすすめというだけあって想像していた以上の美味しさで、自然と笑みが溢れてしまう程だった。
「美味しかったぁ」
「満足してくれたようで何より」
「うん。ほんまにありがとう。次は私が奢るから」
頼んだ物は決して高くはなかったが、それでもやはり他人に奢られると良心の呵責を感じずにはいられなかった。それを伝えると、彼女は「小豆ちゃんは遠くから来てくれてるからさ」と言うが、それを理由に元が取れるまでやられてしまうと、彼女が居る限りずっと奢ってもらう事になってしまう。
「じゃあさ、明日鰻奢ってもらおうかなぁ」
「ま、任せろー?」
「冗談だって」
あはは、と彼女が口を開けて笑う。こんな冗談を言って遠慮無く笑ってくれるくらいには彼女と仲良くなれたのだと思うと、なかなか感慨深い物があった。
「因みに鰻ってどれくらいすんの?」
「安いので二千円とかじゃない?」
それを聞いて、少しの間逡巡する。
「……行くか」
覚悟を決めてそう言うと、彼女は「えっ?」と目を丸くして私を見る。
「明日は鰻食べて帰ろう」
「いやいや、無理しなくていいよ?」
「せっかく静岡に来たのに、名物の鰻を食べずに帰るわけにはいかへんやろ」
「自棄になってない?」
「……まぁ、明日になったら気分じゃ無くなってるかもしれんけど……」
「あとさすがに鰻食べるってなったら私も払うからね?」
「いやいや、それは約束が違うやん」
「だからさっきのは冗談だから」
「でも言うたやん」
そんな下らない言い争いをしながらデパートを出て、駅とは反対方向、ホテルがある方へ向かう。私はこの辺りの事は殆ど分からないので、行く道は完全に彼女に任せてしまっているのだが、何か目的地でもあるのだろうか。そう思って訊ねてみる。
「いや、そろそろホテルのチェックインの時間かなぁって」
今まで旅行でホテルを利用した経験は無いが、そういう手続きが必要だという事は知っている。しかし彼女の言葉からは時間制限があるように感じられた。てっきり予約したその日の内に手続きすればそれで良いと思っていたし、先程荷物を預けられたのだから、気付かぬ内に手続きを済ませられたのではないかとさえ思っていた。
「そんなんあんの?」
胸の奥から沸き上がってくる不安を解消しようと恥を忍んで訊ねる。
「うん。多分まだ大丈夫だとは思うけどね」
「そうなんや。さっき荷物預けたけど、あれはちゃうの?」
「そういう話してなかった?」
「分かんない」
というより記憶に無かった。
「まぁ、だから念の為一回確認しに行こうって感じかな」
なるほどねぇ、と二度三度頷き、この際余計なプライドは捨てて気になった事を訊ねる。
「因みに一回ホテルにチェックインした後って外出てええの?」
「うん。大丈夫だと思うよ? もしかしたら門限みたいなのはあるかもしれないから、それも確認しておいた方が良いかもね」
「へぇ。梢ちゃん何でも知ってるやん」
素直に感心しつつ、茶化すように言ってやると、照れ臭そうに彼女は笑った。
「別に何でもってわけじゃないって。たまたま何回かホテル使う機会があったってだけだから」
「そうなんや。どこに旅行行ったん?」
「多分前に話した事あるけど、青森の方に付き合ってた彼氏が住んでたから……」
「あぁ、聞いた事あるわ。会う度に彼氏の評価が下がるやつ」
「そうそう。思い出したらむかついてきたな……」
「ごめんって」
彼女の声が急激に低くなり、慌てて謝りながら腕を組む。彼女は少し歩き辛そうにしていたが、特に嫌がる様子も無かったので、そのままホテルを目指して歩く。
「ホテルにチェックインした後はどうする? 梢ちゃんはもう帰る?」
「うーん……どうしようかなぁ」
肩から擦り落ちそうになった鞄を掛け直すついでに携帯を取り出し、時間を確認すると、ちょうど彼女も同じように携帯を見ていた。
「今から帰ったら丁度良いくらい?」
「うん。そうしようかなぁ」
「帰る?」
「うん。どうせまた明日朝から会えるからね」
「そうね」
そうこう話している間に私が宿泊するホテルの前に着いた。絡めていた腕を外し、彼女と向かい合うように立ち、彼女の両手を握って彼女の顔を見上げる。
「じゃあ……また明日」
「うん。また明日」
何となく別れが寂しく感じるが、何事も無ければまた明日も会えるのだから、寂しがる必要は無い。それにここで変に引き留めても彼女の帰りが遅くなって危なくなるだけだ。
「送ってくれてありがとうな」
「どういたしまして」
「梢ちゃんも気を付けて帰ってな」
「うん。ありがとう」
「帰ったら連絡頂戴ね?」
ついしつこく言うと、彼女はあははと声を上げて笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって」
ありがとうね、と彼女は言い、絡ませていた指がするりと抜ける。それから彼女は手を振りながら背を向けて歩き出す。私はその背中が見えなくなるまでホテルの前で見送り、完全に見えなくなると、ホテルの自動ドアを潜り抜ける。
緊張で手と声を震わせながらも無事にチェックインを済ませ、既に荷物を運び入れてくれていた事に感動しながら自分の部屋に向かう。
部屋は安い所を選んだので、それほど期待はしていなかったのだが、動画やテレビなどで見て想像していた通りの綺麗な内装で、皺一つ無いベッドは腰掛ける事すらも躊躇ってしまう。窓から見える景色は向かいのビルが見えるだけなので詰まらない物だが、セキュリティーも見た限りでは何も問題は無く、そこそこのお金を払っただけの価値は充分にあった。
コートをハンガーに掛け、置かれていた荷物が自分の物であるかを確認し、暫く室内をうろうろと落ち着き無く歩き回った後、恐る恐るベッドに腰掛け、そのまま寝転がってみる。
当然ベッドは柔らかく、寝心地は悪く無さそうではあったが、これだけ綺麗にされていると、シーツを乱したり汚してしまったりしては大変な事になってしまうのではないか、と今一気持ちが落ち着かなかった。
どうにかして落ち着こうと、移動中の暇潰し用にと持って来ていた漢検の本を開く。暫くは集中できなかった物の、文字を読んでいる内に段々と落ち着いてきて、気が付くと彼女と別れてから一時間が過ぎていた。
彼女からはまだ連絡が無く、本当に何かあったのかと一瞬思ったが、電車での移動にはそれほど時間が掛からなかったとしても、駅から自宅が離れていればそれなりに時間は掛かるだろう、と納得し、シャワーを浴びる準備をして待つ事にする。
ルームサービスなどよく分からない物に手を付けるのは控え、携帯で動画を見ながら連絡を待つ事十分。漸く彼女から『帰ってきたよ』と連絡があった。『おかえり。今からシャワー浴びて寝る』と返し、部屋の角にあるシャワールームでシャワーを浴びる。
浴槽が無いタイプというのも初めてで、これで良いのかと終始違和感を抱きながら身体を洗い、充分に乾かしてベッドに戻ってくると精神的な疲労で半ば無意識に深い溜め息を吐いた。
明日の予定も相変わらず彼女に殆ど任せているが、大雑把な予定としては観光が中心となる。有名な所全部を見に行くのはさすがに厳しいだろうという事で、具体的にどこに行くかを彼女に任せている。何でもかんでも彼女に任せてしまって良いのかと思ったが、彼女自身がおすすめしたいとの事だったので、それも楽しみにしている。
何にしても今日は早めに寝てしまった方が良いだろうと、彼女に『おやすみ』とスタンプを添えてメッセージを送り、部屋の電気を消してベッドに寝転がる。
自分が思っていた以上に疲労が溜まっていたようで、目を瞑って考え事をしている内に、いつの間にか眠りに就いていた。
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