第6話 side梢

 私の軽いデコピンがきっかけで始まったじゃれあいは、お互いの力が暫く拮抗した所で終わりを告げた。


「疲れた……」


 そう呟きながら彼女は私に完全に密着するような形で覆い被さってくる。彼女は小柄という事もあってそれ程重くはないのだが、唯一彼女の身体で決して小さくない部分の感触が伝わってきて、思わず身体を硬くする。


 少しして同性でそれほど気にするような事では無いだろう、と無理やり自分を納得させ、目の前にあった彼女の髪に触れる。


 指と指の隙間を通る感触はまるできめ細かい砂が落ちていくような気持ち良さがあった。さらさらと少しの引っ掛かりも無いその滑らかな髪は、触らずとも手入れが行き届いているのは分かっていたが、触ってみるとより一層その丁寧さが感じられた。


「小豆ちゃんの髪さらさらしてる」


 半ば無意識のうちに口に出していた。


「そら手入れしっかりしてるからなぁ」


 彼女はどこか自慢げに言った。


「何使ってるの?」

「別に普通やで? 実家暮らしやからお母さんも同じの使ってたりするし」

「さっきハンズに行った時に教えてもらえば良かった……」


 私もそれなりに髪には気を遣っているが、彼女に比べるとやはりパサついてしまっていたり、毛先が広がってしまっていたりと、ところどころ痛んでいるのがよく分かってしまう。


 そんな髪を彼女はそっと掬い上げ、砂を落とすように手の平の上を滑らせる。


「別に梢ちゃんのも綺麗やん」


 普通なら嬉しいのだろうが、少し卑屈になってしまっていた私はつい「嫌味だ」と突き返してしまった。それを彼女はちょっとしたおふざけだと思ったのか、「なんでやねん」と関西人の典型的なツッコミ台詞を笑い混じりに吐き、「そんな痛んでたりもせぇへんし、綺麗やと思うで?」とお世辞を繰り返した。


 ここでまた否定してしまうと、同じ事の繰り返しになってしまうのだが、卑屈になっている私の口は「いや、でも小豆ちゃんほどじゃなくない?」と彼女の言葉を認めようとしなかった。


「気のせいやって」と笑う彼女に腕を引っ張られ、倒れていた身体を起こし、コップに入っていた残り少ないジュースを飲み干して、気分を入れ替えようと深呼吸をする。


「因みにさ、トリートメントはどういうの使ってるの?」

「あっ、まだ続いてたん?」


 苦手な炭酸ジュースを飲んでいた彼女は眉を顰めたまま笑う。


「当然」と私が言うと、しゃあないな、という幻聴が聞こえてきそうな風にしながらも教えてくれた。それから普段どういう手入れをしているのか訊ね、ついでにスキンケアのやり方や使っている化粧品なんかも訊ねる。先程彼女の顔が近付いた時、化粧も薄く見えるのに少しも肌荒れが無かったのがずっと気になっていたのだ。


 そうして雑談を広げながら暫く寛いでいると、当然電話が鳴り、彼女は微かに肩を跳ねさせ、ゆっくりと立ち上がって受話器を取って、はい、はい、と短く受け答えをする。


「後十分やって」

「もうそんなに経った?」

「早いよなぁ」


 そう言いながら彼女はテレビの下に置かれていたタブレットとマイクを机の上に置いた。


「一曲くらい歌っていかへん?」


 カラオケボックスに来ているのだから、当然と言えば当然の提案だった。元々カラオケに行こうと誘ったのは私で、ここに来れば歌う事になるだろうとはもちろん思っていたのだが、何となく彼女の前で歌声を披露するのに抵抗を感じていた。


「梢ちゃんって歌うの苦手やったりする?」


 しまった、と思った時には既に遅く、彼女に気を遣わせてしまった。


「いや、うーん……そういうわけじゃないんだけど……」


 言いながらこのよく分からない抵抗感を言い表す言葉を探していたが、結局見つける事ができず、「小豆ちゃんが先歌ってくれたら私も歌う」と、少し狡い方法を採ってしまったが、彼女は特に文句を言ったりするわけでもなく、タブレットを自分の下に引き寄せて「何かリクエストとかあったりするー?」と訊ねてきた。


 ほっと胸を撫で下ろしつつ、彼女に歌って欲しい曲を考えるが、そもそも彼女が何を歌えるのか、どんな歌声なのかも分からなかった。


「じゃあ……小豆ちゃんの十八番で」


 また少し狡い方法だったが、一番無難で、何よりも良い選択なように思えた。


「なるほど、じゃあこれかな」


 そうして流れ始めた曲は案の定私の知らない曲だった。ギターのかっこいいイントロに始まり、彼女が歌い始める。テンポは速く、爽やかさを感じる、実に夏らしい曲で、時期はずれではあるが、そんな事は全く気にならない程、彼女は只管に上手かった。


 音程のグラフが出ていないので音が合っているのかは分からないが、彼女の見た目の割に低くも芯のある声が曲にとてもよく似合っていて、聴いていてとても心地良かった。


 歌っている彼女はとてもかっこよくて、楽しそうで、思わず目が離せなくなる。そうしていると、不意に彼女がこちらを向いてウィンクをしたり、ピースサインを出したりと、ファンサービスのような事をしてきて、カメラを構えていなかった事を強く後悔させられる羽目になった。


「上手すぎ! プロじゃん!」


 曲が終わり、手に持っていたタンバリンを叩きながら思った事をそのまま口に出すと、彼女は少し照れ臭そうに笑った。


「ほら、次梢ちゃんの番やで! 時間切れで歌わへんとか無しやからな?」


 そう言って急かすようにタブレットが手渡される。


「せっかくやし梢ちゃんも十八番聴かせてぇや」

「えぇ? 十八番とか無いよ?」

「じゃあいつも歌うやつとか」

「いつも歌うやつかぁ……」


 自分から先にリクエストしておいて申し訳無いが、歌に関して十八番と呼べるような曲が無い。いつも歌う曲、とリクエストされても歌う曲はその時の気分でしか決めておらず、カラオケに行ったら必ずこれを歌う、という固定された物も無い。


 それよりも私の気に掛かっているのは、俗に言うガチ勢と言える彼女の歌の後に歌わなければならないという事だった。


「というか小豆ちゃんの聴いた後で歌うのプレッシャーすごいんだけど」

「別にそんな点数付けられるわけじゃないんやし、気軽に歌ってくれたらええよ」


 彼女はそう言ってくれたが、吹奏楽部にも入っていて音楽への理解度の高い彼女に聴かれるという事は下手なところが全てバレてしまうのではないかという思いがあり、今日彼女を待っていたあの時間とはまた少し違う嫌な緊張感があった。


「あんまり聴かないでね」


 無理なお願いだとは分かっていてもそう願わずにはいられなかった。


「それは無理やろ」


 彼女は笑って思っていた通りの答えを返してきた。


 曲を入れると、数秒間の沈黙が生まれ、曲が始まる。気持ちを落ち着けようとマイクを両手で握り、一つ深呼吸をする。ちらりと彼女を見ると、彼女はとても嬉しそうに私を見ていた。


「こっち見ないで」と言うと、彼女は「ごめん、ごめん」と言いながら顔をテレビの方へ向けたが、きっとまたこちらを見るのだろう。私がそうしていたのだから、きっと彼女も同じようにそうする筈だ。何故かそういう確信があった。


 歌いながら彼女の方を見ると、彼女は身体を横に揺らし、聞こえない程度に手拍子を打って楽しそうに笑っていた。声は聞こえないが、彼女の小さな唇が動いていて、一緒に歌ってくれているようにも見える。


 そうやって段々と余裕が生まれてくると、彼女の前で緊張していた事などすっかり忘れ、無心で楽しんでいた。


「梢ちゃんも上手いやん!」


 興奮した様子で拍手をして言う彼女の言葉がお世辞には聞こえなくて、つい照れてしまう。


「やっぱり私梢ちゃんの声好きやわぁ」

「えぇ……ありがとう」


 顔が赤くなっていませんように、と願いながら彼女からの褒め殺しを耐える。正直自分の声に自信は無いのだが、それでも好きと言われると、お世辞だと思い込もうとしても気分が良くなってしまう。


 少しして再び電話が鳴り彼女が席を立つ。恐らく退室の合図だろうと荷物を片付け、使ったマイクなども元の場所に戻し、忘れ物が無いかどうか念入りに確かめて部屋を出る。


「次はどうする?」

「小豆ちゃんはさ、お腹空いてる?」

「夕飯食べに行く?」

「うん。私はちょっとお腹空いてきたし、ちょっと早めに行った方が多分空いてるから」

「おっけー。じゃあ……ハンバーグ?」

「うん。小豆ちゃんが良いなら」

「ええよ。梢ちゃんがせっかくおすすめしてくれたしな」

「私のおすすめというか、単に有名なだけだけどね」

「細かい事はええの!」


 通話している時にはあまりよく分からなかったが、こうして実際に顔を合わせて話してみると、通話している時のような平坦な喋り方をしていても、彼女はずっと笑顔を浮かべていた。普段からこうして笑ってくれていたのだと思うと、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 会計をする彼女の横顔をじっと見つめていると、「何?」と彼女が見つめ返してくる。「ううん、何でも無い」と言うと、彼女は文句を言いながらも楽しそうに笑ってくれていた。

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