第5話 カラオケルームで

 擽ったいような、心地良いような、しかし確かに心が満たされる感触に浸っていると、突然額に小さな衝撃が走る。


「いたーい!」


 実際はそれほど痛くなかったが、気まずくなってしまいそうな場の雰囲気を壊してやろうと、左手で額を押さえながら彼女から距離を取るように大袈裟に後ろへ仰け反って見せ、「暴力反対!」と訴えてみる。しかし彼女からは優しい微笑みが返ってくるばかりで、逆に居た堪れない気分にさせられてしまった。


「よくもやってくれたなぁ」


 どうしようかと考えるよりも早く私は彼女の方へ身体を寄せ、同じ事をやり返してやろうと右手を彼女の顔の前に構える。そうすると彼女は目を丸くして、今日一番素早い動きで私の手首を掴んで距離を取ろうとする。


「ちょっ……ごめんって!」


 しかしどうやら力に関しては私の方が強いらしく、更に身体を寄せると、彼女はそれに耐えられず後ろに倒れそうになって慌てて左手を後ろに突いた。


「力強くない!?」

「吹奏楽部を舐めんな!」

「それ関係ある!?」


 シートに押し倒され、追い詰められてからの彼女は火事場の馬鹿力を発揮し、私の攻撃を悉く阻止してくる。負けじと攻撃の手段を変えて擽ってみたりもしたが、彼女にその攻撃は通用しなかった。


 そうして私が飽きるまで暫くじゃれ合っていると、終わる頃には無駄に息切れを起こす程に疲れ果ててしまった。


「疲れた……」


 そう言って然りげ無く彼女の上に覆い被さるようにして倒れ込むと、彼女は特に嫌がるような様子も無く、私の髪を撫で始めた。


「小豆ちゃんの髪さらさらしてる」

「そら手入れしっかりしてるしなぁ」

「何使ってるの?」

「別に普通やで? 実家暮らしやからお母さんも同じの使ってたりするし」

「さっきハンズとか行った時に教えてもらえば良かった……」


 そう言う彼女の髪を一束掬い上げ、軽く触って落とす。私はプロでも何でもなく、ただ動画などを参考にしているだけの素人ではあるが、それでも彼女の髪はパサつきも広がりも無く、充分に綺麗だと思えた。


「別に梢ちゃんも髪綺麗やん」

「うわっ、嫌味だ」

「なんでやねん。ほんまにそんな痛んでたりもせぇへんし、綺麗やと思うで?」


 身体を起こし、彼女の手を引っ張って彼女を起き上がらせようとするが、彼女は完全に脱力しきっていてなかなか起き上がろうとしてくれず、かと言って私の力では彼女を無理やり起こす事もできない。


「いや、でも小豆ちゃんほどじゃなくない?」

「気のせいやって」


 良いから起きて、ともう一度力を込めて引っ張ると、今度はちゃんと彼女は起き上がり、ふぅ、と一息吐いた後、少なくなっていたコップの中身を飲み干した。


「因みにさ、トリートメントはどういうの使ってるの?」

「あっ、まだ続いてたん?」

「当然」


 それから暫く髪の手入れについて根掘り葉掘り訊かれ、そのついでと言わんばかりにスキンケアの話になり、脱線に脱線を重ねていると、一曲も歌っていないというのに残り十分だと電話が入った。


「一曲くらい歌っていかへん?」


 私は歌うのが好きなので、カラオケに誘われた時からずっと楽しみにしていたのだが、やはり彼女はあまり乗り気ではないようだった。


「梢ちゃんって歌うの苦手やったりする?」

「いや、うーん……そういうわけじゃないけど……小豆ちゃんが先歌ってくれたら私も歌う」


 彼女ははっきりとした理由を言わなかったが、何となく気持ちは理解できるような気がした。私も歌う事自体は好きなのだが、家族の前でだって歌うのは少々恥ずかしくて堪らない。しかしそれでも子どもの頃から歌う姿は見られているので幾分かは増しなのだ。そう考えると確かに歌う姿をほぼ初対面の相手に見られる、それもコンサートなどではなく、一対一の小さな個室で歌を聴かれるのはなかなかに恥ずかしい物がある。


 しかしここで恥ずかしがっていては仲良くなれる者もなれないだろう、と意を決してタブレットを操作し、曲を探す。


「何かリクエストとかあったりするー?」

「じゃあ……小豆ちゃんの十八番で」

「なるほど、じゃあこれやな」


 十八番と呼んで良い物かどうかはさておき、歌える好きな曲の中で一番気持ちよく歌える曲を選び、マイクに被せられたカバーを取って電源を入れる。


 やがて前奏が流れ初め、表示された歌詞を見ながら、できる限り隣を気にしないようにして歌う。それでもやはり気になって横目に彼女を見ると、今日一番の笑顔で私を見ながらどこからか持ち出してきたタンバリンを控えめに叩いていた。


 長らくカラオケには行っていなかったが、そんな事は関係無く、今まで一緒に行った友人たちの中にタンバリンを叩いたり、画面を見ずにじっと顔を見てくるような人は居なかったため、一度意識してしまうと気になって仕方が無かった。


 歌っていると自然とテンションが上がってしまうもので、そうやってじっと見つめてくる彼女の方を向き、ファンサービスをするようにウィンクをしてみたり、ピースサインをしてみたり、普段なら絶対にしないような事をしてしまっていた。


「上手すぎ! プロじゃん!」


 歌い終わるとすぐに煩いくらいにタンバリンを叩きながら、それに負けないくらいの声量で彼女が褒めちぎろうとしてくる。


「ほら、次梢ちゃんの番やで! 時間切れで歌わへんとか無しやからな?」


 顔が熱くなっているのを感じながら彼女にタブレットを渡すと、彼女は渋々といった様子ながらも受け取って曲を検索し始めた。


「せっかくやし梢ちゃんも十八番聴かせてぇや」

「えぇ? 十八番とか無いよ?」

「じゃあいつも歌うやつとか」

「いつも歌うやつかぁ……。というか小豆ちゃんの聴いた後で歌うのプレッシャーすごいんだけど」

「別にそんな点数付けられるわけじゃないんやし、気軽に歌ってくれたらええよ」

「あんまり聴かないでね」

「それは無理やろ」


 曲が流れ始めると、彼女はマイクを両手で挟むように持ち、曲のリズムに合わせて手を上下に振っていた。その様子を先程私がやられていたようにじっと見つめていると、不意に彼女がこちらを見て、「こっち見ないで」と照れ臭そうに笑った。


 彼女はあまり歌声と話し声が変わらないタイプのようで、相変わらず透明感のある綺麗な声で、ずっと聴いていたいと思えるような歌声だった。


 知らない曲なので余計な事はせず、邪魔にならないよう静かに手拍子をしながら聴いていると、時折彼女がこちらを見て恥ずかしそうに笑い、声を震わせる。


「梢ちゃんも上手いやん!」


 曲が終わって大きく拍手をしながらそう言うと、彼女は「いやいや……」とまた恥ずかしそうに笑い、顔を隠すように手を振って否定する。


「やっぱり私梢ちゃんの声好きやわぁ」

「えぇ……ありがとう」


 照れる彼女が愛おしくて褒めながらからかっていると、退室を催促する電話が鳴り、いそいそとマイクやタブレットを片付け、忘れ物が無いかをよくよく確認し、コートを腕に掛け、次はどうしようか、なんて話をしながら部屋を出る。


 もう出会った頃の緊張感は無く、彼女とならどこへ行っても楽しめそうな気がしていた。

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