第2話

「そう、真衣まい柊那ひなと付き合うんだ。じゃあ私はもういらないね」


 志保しほは音もなく暗闇の中を独り進んでいく。


「違うっ。待ってっ」


 目の前には透明な壁があるみたいに、どんなに走ろうとも、どんなに手を伸ばそうとも彼女との距離が縮まることはない。

 喉から血が出るほど叫んでも志保はちらっとすら振り返ってくれない。

 それどころかどこからか現れた女が彼女の手を取りさらに間隔が開く。


 ごめんなさい。

 浮気なんかしないから。

 気を引こうとなんかしない。

 いつかまた私だけを見てくれるって信じて待ってるから。

 行かないで。いなくならないでよ。


 志保が見えなくなってもなお手を伸ばし続けていると、急に温かい感触が手を包み込んできた。

 さっきまで無音だった空間に志保の声が広がっていく。


「――さん? 大丈夫ですか?」


 だんだんと鮮明になってくる意識の中、まだ引き裂かれたくないと抵抗しているまぶたを擦り強制的に目を開く。

 まだ若干の靄が残る目を向けると、誰かがそこに座っていた。

 動ききってない脳みそから出力された答えを口にする。


「志保?」

「柊那ですよ。真衣さんっ」

「そっか……」


 彼女はより強く私の手を握ると微笑みかけてくる。

 その笑顔を見ると、一気に安堵と疲労が襲ってきた。

 さっきまで早鐘を打っていた心臓はだんだんと落ち着きを取り戻し始めているが、べっとりと肌に吸い付くパジャマが気持ち悪い。

 ただよかった。

 まだ志保にはバレてないんだ。

 捨てられない。


 彼女の手をしっかりとつかみ、伝わってくる体温を味わっていると、だんだんと違和感が形を持ち始めた。

 私の手を握ってるのは柊那。

 私がいるのは私の部屋。

 昨日柊那に形だけの告白をして、浮気をするって約束したあと、公園で別れたはず。

 じゃあなんで柊那がいるの?

 制服着てるくせにすでに思い切り遅刻の時間だし。


「おはようございます」


 混乱した頭でしばらく彼女のことを眺めていると、しっとりとした挨拶をしてきた。

 なんでさもここにいるのが当然みたいな顔してしてるんだろう。

 とりあえず夢から覚めて見た景色がこれな以上、ここが現実なのは確定してる……、はずだ。

 肺に溜まっていた空気を全部吐き出すと、頭を抱えた。


「最悪っ……」

「朝一番の挨拶がそれってひどくないですか?」

「それはこっちのセリフなんだけど」


 鍵を預けた覚えはない。

 それどころか、なんで昨日の今日で部屋にいるんだろう。

 いやまあ百歩譲って昨日あの状態の時に誘ったのかもしれない。

 だからって志保の夢を見た直後に柊那の顔を見るのは目覚めが悪すぎる。

 色々言いたいことはあるが、なんとか訊きたいことを一つにまとめる。


「……なんでいるの?」

「なんでって、入れてもらったからですかね? あとなんか恋人って言ったら合鍵も貰えました」


 彼女はクリスマスにほしかったプレゼントをもらった子供のような笑みを浮かべながら、見たことある形状の鍵を見せてきた。

 さっきから気になることは絶えないのに、少し話すだけで確認することが加速度的に増えていってる気がする……。

 とりあえず、お母さんが入れたのはわかった。

 こんなことするのはお母さんしかいないし。

 だからって、自称恋人に合鍵とか渡さないでよ……。

 せめて私に一言確認するとかさ……。

 ストーカーの可能性だってあるかもしれないし。


 ああ、さっきの夢の方が大分マシだったな。

 戻れないかな。


 どうにか現実逃避ができないかと壁を眺めるが、柊那の声によって一気に引き戻される。


「真衣さんって、親に彼女のいること言ってないんですか?」

「ねえ、それ答えないとダメ?」


 こっちは今頭痛の種で頭がいっぱいで、これ以上増えたら破裂するかもしれない瀬戸際なのに、余計なことを言わないでほしい……。

 元々志保とは友達だったんだしわざわざ報告しなくてもいいでしょ……。

 私に恋人がいたとしてなにか変わるわけじゃないんだし。

 みんながみんな言うと思うなよ。


「答えはわかってるので答えなくてもいいですよ。けど私が公認の彼女になれてよかったです」


 柊那は相変わらずゲーム内でレアアイテムを手に入れた時のような笑顔を向けてくる。

 どこか笑顔の中に影があるように見えて背中が粟立つのを感じた。

 公認って、勝手に言ってるだけじゃん。

 後でちゃんと彼女じゃないって訂正しないと。

 めんどくさい……。


「それよりさ、鍵返して……」


 お母さんはいつでも来ていいって言ったのかもしれないけど、勝手に入られたら困るに決まってるじゃん。

 柊那に見せたくないものもあるし。

 

 私は柊那にバレないよう、ちらっと枕元に視線を移した。

 そこには何年か前に撮った二人で写っている写真があるが、写真であっても志保に見られていると思うと罪悪感が倍増する。


「返しませんよ。ただ――」


 柊那は私の手を掴むと何か握らせてきた。


「こっちならあげられます」

「なにこれ?」


 彼女は家のものとは違う、見たことがない鍵を渡してきた。

 ただ見たことはないとしても嫌な予感だけは心の底から溢れ出してくる。


「ねえ、これって?」

「私の家の鍵です。大切にしてください」


 やっぱり……。

 今渡してくる鍵だとどうせそんなことだろうと思った。

 私ががっくりと肩を落としても、彼女がうれしそうな笑みを絶やすことはない。

 手には相変わらず私の家の鍵が握られていた。

 それだけで、よっぽどうれしかったのだろうと言うことが伝わってくる。


「いや……、まあいいや」


 今の柊那には何を言っても通じなさそうだし、断ろうと思ったが、今はそれすらめんどくさい。

 どうせいらないと拒否しても押し付けられるに決まってる。

 それだったら今受け取って後で柊那の家の鍵入れに戻しておいた方がましだ。

 幸いにも何度か志保が戻しているのを見たので場所はわかる。


「それより、遅刻だけどいいの?」


 目覚まし時計を指さすが、時刻はすでに4限の開始時間を過ぎていた。

 遅刻という次元は大幅に超えてしまった気もするが、それでも5、6限だけでも行かないよりましだろう。


「私に訊きますか? 同じ高校に通ってますよね?」

「いやまあそうなんだけど。私は昨日休むって言ったし……。柊那は怒られないの?」


 さすがに制服を着ているあたりは、事前に休むとは言ってないはずだ。

 学校から家に連絡は行ってるかもしれないけど、丸一日サボるのに比べたらマシだろう。

 ただ柊那はあっけらかんとした顔で答える。


「まあ多分怒られますけど、どうせ毎日何かしら言われるので別に一つや二つ増えたところで……」

「毎日何かしらって、柊那なにしてるの?」


 今まで柊那と話してきた感じ、そんなに毎日言われるような子には見えない。

 浮気しませんかなんてふざけたことを提案してくる前は、私にも礼儀正しかった。


「気になります?」


 柊那は私に見せたこともないような笑みを浮かべながらこちらににじり寄ってくる。

 ゆっくりとブレザーを脱ぎ、ネクタイを外す彼女からは底知れない不気味さがただ寄っていた。

 そんな彼女から逃げようとしたけれど、すぐに捕まった私はベッドの上で馬乗りになられるような体勢で押さえつけられる。


「姉の恋人に嘘吹き込んで襲おうとしてるとかですかね?」

「……、昨日の仕返しって嘘だったの?」

「どっちにしたいですか?」


 そう言ってくる彼女の逆光になっているせいで伺うことができない。

 ただ、私の顔の横に突かれた手は微かに震えているような気がした。

 それに昨日話した柊那が嘘を付いてたとは思えない。

 どうせ嘘を付いて襲うのならこんなまどろっこしいことなんかせず、もっと直接的にやった方が楽だと思う。


「好きな方にしていいよ」


 吐き捨てるようにそう言うと、柊那に感づかれないようさっきの鍵が入ったポケットに手を入れる。

 これがどれだけ武器として優れているかはわからない。

 ただもし私の見立てが誤っていて、嘘でしたと言われた時はこっちだって考えがある。

 しばらく逆光の彼女と見つめあうと、彼女は投降する時のように両手を持ち上げた。


「そんな怖い目で見ないでください。ちゃんとほんとですから」

「ならいいけど……」


 なんか担がれた感じがして釈然としないけど、「嘘なんでしょ」なんて問い詰める気も起きなかった。


「で、今日本当に休むの?」

「まあそうですね。真衣さんを独りにさせておきたくはないし」

「なにそれ……。別に私は独りでも。今日休んだのだってたまたまだし」


 上に乗っていた彼女を退かすと、志保の写った写真立てを伏せた。

 そう、いつもたまたま休んでるだけ。

 志保の顔を見ていつも通りに振舞える自信がないからとかそんな理由じゃないし。

 じっと伏せられた写真立てを見ていると、耳元から声が聞こえる。


「嘘つき」

「嘘じゃないし」


 少しきつめに言っても柊那は気にしていないのかなんの反応も示さない。

 それどころか、彼女は志保の写真に手を伸ばして元あったように起こすと後ろから抱きしめてきた。

 フワッと香る志保にも似た香りが私の脳を麻痺させる。


「私が恋人が休む理由すら把握できないように見えますか?」

「いや、そういうつもりじゃ……。それに恋人じゃ……」


 私の恋人は志保であって柊那ではない。

 柊那とはあくまで気を引くための関係でしかないってわかってるのに。

 志保のような香りと体温に包まれていると、否定するのすらためらってしまう。


「まあいいですよ。何言われても休む気で来たので。それより、せっかく来たんだし遊びませんか?」

「……。わかった」


 そう言われて私はゲーム機に手を伸ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る