第14話 世界で一番かわいいから

 「あずま」。その名を初めて聞いた時のことは覚えていない。

 桃園大納言家の女房は何人もいるし、入れ替わりもある。新しい女房が入ったと聞けば、「へえ、そうなのね」。それぐらいだ。

 東国出身だから名前は「あずま」だし、都に来たばかりなので、女房としての立ち居振る舞いには慣れていない。背は高いので何をするにも目立つけれども、無骨な動きが多ければ悪い意味でも目立った。本人は己に自信があるのか、堂々とした態度で、他人に対して愛嬌を見せることもない。自前のかすれた声でぼそぼそと話しかけるのが常だった。

 名門の大納言家の女房として考えるなら、資質がまるで足りていない。彼女を見て、すぐそう判断したから、先輩女房として助言を行ったことも何度かあった。

 しかし、あずまがかぐや姫に仕え始めて一月もしないうちに、松緒は自分がかぐや姫の傍にいる時は、必ずあずまも同じ場にいることに気付いた。

 時には、松緒が主人に呼ばれた先で、もうその場にいたことだって。

 ひそやかに、松緒に聞こえない小声で、何事かを語らっている。

 かぐや姫の一の女房を自負していた松緒にとって、それがどれだけ悲しい出来事だったか。


「姫様は……あの者を気に入っているのですね」

「……そうかしら」


 姫様は、誤魔化すように微笑むばかり。ますますあずまと過ごす時間が増えていく。

 そして、反比例するように松緒は姫様から呼ばれなくなった。

 自分のつぼねでぼうっと過ごし、翁丸を世話していても、手持無沙汰になる。松緒は自らかぐや姫の室へ赴くのだが、そこにはやはりあずまがいる。

 ある時は、幽霊を見たかのような顔で話すのをやめる二人を見た。松緒の我慢は限界だった。

 礼儀を忘れた彼女は、二人の間に割って入り、両手を突き出してあずまの身体を押した。あずまは腰を抜かして呆然と松緒を見上げる(普段のすまし顔が崩れたのでいい気味だと思った)。かぐや姫は、きりりと眉根を吊り上げた。


「松緒、下がりなさい」


 押し殺した声音だった。しかし、松緒はその時は気づきもしないで、だって、と唇をわななかせた。


「ひ、姫様、姫様が……あずまばかり……!」

「松緒」

「ま、松緒の、ことは、もういらないのですか……?」

「もう一度言いますよ。……下がりなさい」


 改めて見たかぐや姫は、笑んでいなかった。

 それは、松緒がこれまで向けられてきた温かな視線とはまるで違う。冷たく、冷酷な、拒絶の瞳。美しいが、同時に恐ろしい。自らの心の汚さまであらわにされているようで……。

 松緒は力なくうなだれた。


「ひめさま、まつををすてないでください……」


 頭を床に押し付け、懇願するけれど、かぐや姫は応えることはなかった。


「あずま」


 一言だけですべてを心得たあずまが、松緒の肩を支える。

 松緒をかぐや姫の室から出したあずまが両肩を離して一言。


「みじめですね」


 低めの声で囁いた。


「姫様のことはどうぞご心配なく。松緒さまの代わりは、この私が勤めますので。あとはごゆるりとお過ごしくださいませ」


 この瞬間。

 松緒は、このあずまのことを「一生どころか末代まで許さないし、何ならだれかに刺されて死ねばいいリスト」に入れることに決めた。




 心配です。六条の邸宅に行くと相模さがみに告げた時、彼女はとうとうはっきりと口にした。


「陰陽師が告げたことなのですから、何かあるのかもしれません。ただ松緒が行く必要はありませんよ……。それだったらせめて私が」

「大丈夫ですよ。私のほうが体力はありますし。一晩だけなので……」

「そういうことではありません!」


 相模は顔を赤くした。


「姫様のことは私も心配ですよ? 今でもそのことを考えて、夜寝付けませんし、あなたが必死になるのもわかります。ですが私は、姫様と同じくあなたのことも見てきたのですよ。姫様がいなくなって、身代わりとなったあなたを……」

「……うん」


 姫様にも松緒にも理由は違っても母がいなかったから、相模が母代わりだった。童のころは、六条の邸宅で三人よりそうように暮らしていたのだ。


「それでも、行きます。姫様を探したい。……それに、翁丸は、この後宮の、まさにこの殿舎で殺されてしまったのに、事情もわからないままだなんて、嫌です」


 相模はきゅっと眉根を寄せて、深く息を吐いた。


「大殿の命とはいえ、あなたを身代わりにしたのは間違いでしたね……」


 その言葉にかっときたのは松緒の方だった。


「身代わりを立てなければどうするのですか、世間から姫様が笑い者にされてもよいのですか。なぜ今更そのようなことをおっしゃるのですか!」

「身代わりは必要だとしても、松緒がやるべきではなかったのかもしれないと思っていますよ」

「なんで……!」

 

 松緒は言葉を失った。

 今、もっとも近くにいて、信じていたはずの女房から、まさに裏切りとも思える言葉を浴びせられ、頭が真っ白になる。


「ずっとずっと……姫様がいらっしゃったころから、思っていたことがあります。……松緒は、姫様から離れなければならなかった。あなた方二人は、一緒にいるべきではなかったのです」


 松緒と相模の間に沈黙が落ちていった。

 気が付けば、松緒は泣いていた。相模は室からさがったのか、室からいなくなっている。

 ちりん、ちりんと涼やかな鈴の音色が耳をくすぐると、いつもの白い猫が膝の上に乗ってきた。

 どたどたどた。板敷を踏みしめる陰陽師の足音も遅れて聞こえてきたので、松緒はごしごしと目元をこすって、立ち上がった。


「ヤアヤア、猫がこちらに迷いこんでおいでカナ?」

「いますよ」


 松緒は白猫の両脇で抱え上げ、明るい声音で返した。

 猫を受け取ったピンク髪の陰陽師はにっこり笑う。

 

「準備はいかがですカナ?」

「できています」


 松緒は裾をからげた姿で立っていた。お忍びで逢瀬に行く女房、というのが設定だ。


「ではこのまま六条へ参りまショウ」

「……鈴命婦すずのみょうぶは?」


 陰陽師は室の外へ歩いていき、抱えていた猫をそっと地面に下ろした。

 

鈴命婦すずのみょうぶはかぐや姫のところには来ていなかったのですヨ。残念でしたネ……」


 しれっとした顔でいうものだから、松緒は無言になった。

 鈴命婦の白い毛並みがどこかに消えたのを確認した後に、松緒は陰陽師に連れられ、後宮を抜け出した。

 

 

 途中で人に見咎められることもなく、東宮との待ち合わせ場所となる井戸に辿り着いた。

 近くの木陰から東宮がひとりで出てきた。


「無事に来たようだな。行こうか」


 押し殺した声音で告げた東宮は、濃い色をした動きやすい狩衣姿だった。

 三人とも大内裏の近辺までは言葉少なく徒歩で向かう。時折、晴明のかすかな鼻歌が風に乗って聞こえてきたぐらいだ。

 都を南下し、二条から三条まで来ると、なんとなく気が緩まる。

 ぼんやりとした月が辺りを照らしていた。

 前を歩いていた東宮が、松緒の隣にやってきた。

 

「疲れていないか」

「このぐらい平気です。東宮さまこそ馬に乗らなくてよいのですか?」


 高貴な男は、自ら地に足をつけて歩くことを好まない。都での移動はもっぱら馬か、牛車なのだ。それなのに、こうもひょこひょこ気軽に歩いているのだから、つくづく変わり者の東宮だと松緒は思った。


「忍んでいくなら徒歩かちが相場だろう。馬だと小回りが利かない。それに、おれは自分の筋力を信じている」

「筋力」

「腕でも触ってみるか」

「結構です」


 東宮の足取りには迷いがなかった。


「……もしかして、こういう夜歩きに慣れていらっしゃるのですか」

「そうだな。……あっ、女人通いのためではないぞ!主上おかみからの頼まれごとを果たすために出ることが多いのだ。直で目で見て、耳で聞いたほうがわかることもあるからな、そうしている」


 ところで、と話題の矛先が別に向かう。


「今宵は……よく後宮を抜けられたな」

「それは、晴明はるあきら殿にもご助力いただけましたから」


 普段から猫を追い回している野良陰陽師は、大内裏や後宮にある人が少ない抜け道を知り尽くしていたためか、まったく人に会わずに後宮を抜け出せたのだ。


「そのこともだが。危険を顧みないそなたの勇敢さのことも言っている。正直、実際に来るかは半信半疑だったが……」

「嘘の約束は最初からしません。来ると言ったら来るのです。姫様の手がかりも見つかるかもしれないというのに、待っているだけなどできません」

「そうだったな。松緒にとってかぐや姫が一番なんだろうな」

「当たり前ではありませんか」

「……かぐや姫が羨ましい」


 ぼそり、と告げた後、はっと気まずそうに視線を逸らした東宮。


――どういう意味かしら。


 なんとなく、聞けず仕舞いになる。

 六条まで下ると、松緒の記憶を頼りに、かつてかぐや姫と松緒が暮らした大納言家の別宅へ向かう。

 そもそも六条の別宅は、桃園大納言がひそかにかぐや姫を育てるために購入した邸宅だ。松緒や相模も三年ほど前まで暮らしていたのだ。

 だが、かぐや姫への夜這い事件が発生した。

 大事には至らなかったものの、警戒した大納言は娘を本宅である桃園第に移すことに決め、六条の別宅は売り払われた。

 今の邸宅よりよほど思い出深い場所ではあるが、引っ越しして以来、六条の別宅へ行くのは初めてだった。

 もうそろそろ六条の邸宅へ辿り着こうとした時。頬に冷たいものが当たった。

 ぱらぱらと雨が降ってきた。


「しまったな。蓑も笠も持ってきていないぞ」

「問題ございませんヨ。大ぶりにはなりませんヨ」


 陰陽師が言う通り、たしかに雨足はそれ以上激しくならなかったし、月明りはいまだ道をわずかに照らしていた。

 そして。松緒はとうとうそこに辿り着いたのだけれど。


「ここ……のはず、なのですが」


 門からのぞきこんだ先は、廃屋だった。そうとしか言えなかった。人が入らず、手入れされていない草木が生い茂り、以前は手入れされていたはずの池は見る影もなく。檜皮葺ひわだぶきの屋根は傾いているように見えた。敷地に入るのでさえ、草を踏みしめてあるかなければならない。

 さくさくさく、と松緒は主殿のある辺りへ足を向けて歩く。

 かすかにことの音が聞こえてきた。決まった曲ではなく、心の赴くままに、優しく弾き語りをしているような。

 おいでなさい。そう言われている気がした。


「ああ……! ああ……!」

「松緒!」


 東宮の伸ばした手は、松緒の手を掴むことなく、するりと空振りした。

 背の高い草が生えていた。

 薄暗闇の中では、脇目を振らず駆ける松緒の姿などあっという間に消えてなくなる。

 足が泥だらけで傷がつこうとも気にならなかった。

 松緒は、その人の奏でる音色だけはわかるのだ。

 逢いたかった、逢いたかった、逢いたかった……!

 松緒は、主殿まで辿り着く。きざはしを上がり、妻戸に手をかけたところで。


「だから言っただろうに。『姫様のことはどうぞご心配なく』と」


 ため息交じりの声とともに、視界は闇に包まれたのだった。



 ――殺してよろしいでしょう?

 ――いけません。

 ――なぜですか。この女はあなたの邪魔をしますよ! 現に今も……!

 ――いけません。

 ――そんなに大事なのですか。この私よりも……? 

   教えてください。あなたの心には一体、だれがいらっしゃるのですか。

   私は、いつ、あなたに触れられるのですか。

 ――とにかく、この子には手を出さないでください。



 

 松緒は目を開けた。

 ぼんやりと、かぐや姫と男との会話が思い出せた。


 ――男。だれ……?


 聞き覚えがあるようなと思いながら、体を起こす。

 松緒は、六条の邸でかぐや姫の奏でる箏の音を聞き、我を忘れた。油断していたところに、袋のようなものをかぶせられ、そのまま縄で巻かれて、荷物のように背負われてどこかに運ばれたのだ。

 ただ、しっかり起きていたはずの松緒は、緊張と疲れと寝不足でいつしか眠ってしまっていたのだった。


「松緒」


 背後から聞こえた甘い声に、松緒の魂は震えた。

 両腕をつっぱって体を起こし、振り向くと。


「……姫様」


 焦がれた再会はあっけないものだった。


「どうしてそのような格好を……?」


 かぐや姫は、男が着る狩衣を纏っていた。しかも、あんなに美しかった黒髪は背中の途中で切ってしまったのだろう、烏帽子にまげがおさまっている。

 松緒に向ける微笑みだけは、以前のままだった。


「まるで、男のようではありませんか……」

「男のような、ですか」

「……はい」


 そうですね、とかぐや姫は告げ、次の瞬間、


「男のようなもなにも、本当に男だったら?」


 別人のように冷えた声で言われて、松緒の背筋が凍った。


「え……? 何をおっしゃって」

「『かぐや姫』の言動や振る舞いはすべて演技。体は女だとしても、心は男で、周囲をすべて欺いていたなら、松緒はどうする? ――それでも、地獄までついていく?」

「そ、それ、は……」


 やっと会えたかぐや姫。なのに、かぐや姫の言っていることがわからない。


「松緒も東宮から聞いたよね。不死の妙薬のこと。気持ちよくなってしまう薬のこと。庶民ばかりでなく、貴族も狂わせてしまった魔性の薬。あれを流行らせたのはかぐや姫だよ」

「そ、そんなはずは……姫様、嘘だとおっしゃってください……」

「かぐや姫には望みがあった。そのために、必要なことだった。やりすぎて、宮中からお咎めが来そうになったから、逃げた。松緒、君は置いていくことにした」


 ふいに「姫様」は顔を歪ませた。


「泣かないでよ。ぼくが泣かせたみたいだ。君が追いかけてきたから知る羽目になったんだよ。知らないままでよかったのにね。幻滅しただろう? 君のかぐや姫は幻想なんだから」


「姫様」が、松緒の肩を優しくさすった。


「それでも」

「うん?」

「それでも松緒の姫様はひとりだけ。あなたさまだけなのです……!」


 胸の辺りの衣を縋るように掴み、重ねて懇願する。


「姫様、一緒に帰りましょう……?」


 かぐや姫は、慈愛の眼差しで松緒を見下ろしたけれど。

 

「どこに帰るの」


 きっぱりと告げられる。


「大納言家に戻っても居場所はないし、尚侍ないしのかみをやるつもりもない。罪を犯した僕を東宮は見逃すまい」

「それは! それなら……松緒も連れていってください! 置いていかれるのはもう嫌です! 松緒は姫様がいてくださらないと……」

「連れていかないよ」

「どうして!?」

「松緒が世界で一番かわいいから」


 松緒の全身から力が抜けた。


 ――私、今、何を言われた?


 混乱した。姫様は姫様だけれども、これまでの姫様は演技だったというし、姫様の心は実は男だったという。男な姫様が松緒をかわいい、と……?


「もう僕を追いかけるのはやめるんだよ。それが言いたくて、ここに連れてきたんだから。これで会うのは最後だし、身代わりもやらなくていい」

「そのようなことを、おっしゃらないでください」


 かぐや姫は困った顔になる。


「そうだね。……君なら、きっとそうだろうと思っていたよ」


 狩衣姿のかぐや姫は、唐突に動いた。

 頬に熱いものが当てられる。姫様の唇だと気がつくまでに何秒もかかった。

 幼馴染の女房の目が呆然と見開かれるのを確認したかぐや姫は、すばやく懐から布を取り出し、松緒の口と鼻に当てた。

 気を失った松緒の体が、くたりと力を失う。

 かぐや姫は松緒の体を横たえて、その寝顔をじっと見下ろして、小さく呟いた。聞こえていないだろうと知りながら。

 

椿餅つばいもちを、一緒に売ってあげられなくて、ごめんなさい」


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