第13話 極楽浄土が待っている

 姉は帝の妃として期待されていた。左大臣家に生まれた女ならば当然のことだ。

 生まれた瞬間から、妃になることが定めと教えられ、そのための養育を施されてきた。

 姉自身もそのことを疑っていなかった。……そのように行春自身は信じていた。

 姉が入内できる年齢になると、父はすぐさま帝に、左大臣の大君おおいきみを妃にしたらどうかと打診をした。周囲の公卿くぎょうたちも味方につけ、根回しも万全だった。

 しかし、帝は妃はいらぬと拒んだ。表向きは、大君が病弱であることが理由だった。妃となるためには心身ともに健やかであることが必要であると。妃であることは、それだけで重荷なのだと説いた。

 帝自身、母子の関係で苦労していたからかもしれない。東宮ともども、女人との関係は特に慎重になっているようだった。

 入内の夢が絶たれたと聞いた時の姉は、ひとつため息をついて、庭で青々と茂った松の木のある方を眺めていた。横顔からは、悲しいともつらいとも読み取れなかった。


「わたくしも、主上おかみと同じことを思いますよ。すぐに病んでしまうこの体では、後宮での暮らしに耐えきるのは難しい……。これでよかったのです。これで……」


 ごほ、ごほ、と咳をして背中を丸める姉の身体は、以前よりも少しずつ痩せていっているような気がした。痛々しくて、姉を慰めようと手を伸ばしかけたその時。

 ぱしり、と手が振り払われる。落ちくぼんだ目が、弟の目をとらえた。姉の口元にかすかに浮かんだのは……。


「ふふふ。……父上の野心など知ったものですか」


 低い、怨嗟に満ちた声。行春の知らない姉がそこにいた。

 気が弱く、従順な性格な姉だったが。


「父上に愛されて育った行春にはわからないでしょう。『おまえでなければ』と恨み言のように言われつづけられたわたくしのことなんて。その言葉のせいで、わたくしも、母上もとっくに壊れていたのを、あなたは知っていた?」


 行春は何も言えずに黙り込んだ。


「母上は、あなたに続いて子を産めなかった。わたくしに代わる娘を得られなかった。それは、どれだけ妾(嫡妻ではない妻)の元に通っても変わらなかった。父上が摂政関白になるために駒となれる娘は、わたくしひとりだけ。病弱なわたくしにしか頼れない苛立ちが! 娘のわたくしにも降りかかっていたのですよ! あなたにとって、わたくしが責められている光景は、当たり前すぎて、見落としていたでしょうけれど」

「姉上はまだ病み上がりでは……」


 激高していては身体に障ると暗に告げたら、姉は唇を歪ませた。

 

「いいのよ。わたくしはもう。わたくしも母上も、もう『あなたたち』には期待しておりません。それに……幸せになれる方法はもうわかっているのです」

「幸せになれる方法、とは……」

「わたくしにも母上にも、極楽浄土が待っているのですよ」


 行春が困惑する中、姉は、袖から薬包紙を出して、一気に飲みこんだ。いつもの持病の薬だろう。

 姉のぎらついた目が、やがて夢見るようにとろけだす。


「『おまえでなければ』……。それなら、わたくしではなくて……あぁ、わたくしの『身代わり』として妃になればよかったのに」

 

 姉はやがて静養と称して別の邸に移っていった。

 行春は会っていない。姉はますます病んでいき、いつ容態が急変してもおかしくないと聞く。

 でも、会いにいかなかった。

 寺院参詣の際に、東宮といた女人がいた。笠から垂れた布で面を隠していたけれど、ふとした拍子に、素顔を垣間見た。

 あれは、他人の空似だろうか。

 行春の心はざわついている。

 今、姉は病で伏しており、ひとりで歩くこともできまい。

 だが、あの『姉』には、特に身体の不調はなさそうだった。体つきはまろみを帯びていて、頬がこけていることもない。なにより、目つきが姉よりも柔らかで……。

 あれからそれとなく東宮に尋ねるも、はっきりとした返事はない。


 ――あぁ、わたくしの『身代わり』として妃になればよかったのに。


 時折、姉の言葉が泡沫のように浮かんでは消える。

 ただ、行春は、もう一度、あの女人と会いたいと思っているのだった。



 東宮から「会いたい」という文が来た。望むところだ、と迎え打つ覚悟の松緒だった。

 夜、相模も先に下がらせて、自分の室で待っていると、御簾をあげてするりと男の影が入り込む。


「待ったか」

「お待ちしておりましたヨ」

「んん!?」


 東宮がぎょっとしたようにのけぞった。

 そりゃそうだ。目当ての姫君を抱き込んだと思いきや、相手が実は、女ものの装束を頭にかぶった「野良陰陽師」などとは思うまい。

 屏風の裏に隠れていた松緒は、大いに笑った。

 松緒があらわれると、途端にむすっとなる東宮。すぐさま晴明から離れた。


「何の真似だ」

悪戯いたずらです。いつもやられっぱなしだったもので、いつか意趣返しがしたかったのです」

「男の純情を踏み躙られましたネ」


 共犯の陰陽師もからかった。


「おまえたち……」


 東宮は何か言いたかったようだが、やがてため息ひとつで済ませた。


「松緒、まずは状況を説明してもらいたい。なぜ晴明はるあきらがここにいる?」

「協力を申し出てくれたのですよ。陰陽師は人ならざる力を利用する者ですし、味方になれば心強いでしょう?」

「晴明が? まさか。その男から申し出が? 信じられないな。対価はどれくらいだ? 松緒には用意できないだろう」

「対価はいただきましたよ。とても大事なものをいただきました」

「とても大事な……!」


 東宮が愕然とした顔で、松緒と晴明を交互に見やる。晴明は飄々としていた。


「晴明……!」


 東宮はなぜか激高している。対価を支払ったのは松緒なのに。


かめをひとつ、いただきました」

「か、甕……?」


 怒った次は惚けた顔。めまぐるしく表情が変わる。

 どうやらとんでもない勘違いをしているらしい。


「ええ、大事にしていた甕です。……あの中に、姫様と老後に営む予定だった椿餅売りの資金がありました。私の全財産です」

「は……?」

「全財産を引き換えにしてでも、取り戻したいものがありますから、惜しくありません」


 姫様のためならそれでいい。翁丸の件も、姫様の件と関わりがあるように思えてならないのだ。もう、なりふり構っていられない。

 なおも東宮は不思議そうに陰陽師のほうを見ていた。


「かぐや姫の秘密も、存じ上げておりますが、他人には漏らしませんヨ」


 ピンク髪の陰陽師はにこにこしているので、東宮は疑問を飲み込むことにしたらしい。

 閑話休題。松緒が口を開いた。


「たつきが文を持ってきました。『そういうこと』ですよね?」


 寺院参詣で別れた際、今後の連絡は『信頼できる者』の手で文でよこすと東宮が言っていた。

 その後、東宮からの文を持ってきたのは、ともに大納言家で仕えてきたはずの「たつき」だった。

 たつきはかぐや姫に仕えはじめて日が浅かった。

 最初から、東宮の間者だったのだろうか。

 後宮の「かぐや姫」が偽者だと言い、室への手引きをしたのか。

 松緒は大納言家を裏切った者がいるとは考えたくなかったのに。


「たつきからは聞き出さなかったのか?」

「聞けませんよ。あの子なりに罪悪感があるようでした」


 文を渡した手は氷のように冷たく、震えていたのだから。

 

「たつきの兄弟は俺に忠実な臣下でね。……だが、たつきは自ら言い出さなかったぞ。俺が気づいて揺さぶりをかけたのだ」


 松緒は黙り込む。東宮の言葉をどこまで信じたらよいのかわからなかった。


「松緒、嘘ではない。もう俺に隠し事などないのだ」


 東宮がなおも言葉を重ねる。その声は真摯なものに聞こえたけれど……。

 松緒は迷っている。結局のところ、東宮は姫様の敵、なのだから。


「フフフ……」


 唐突に、ピンク髪の陰陽師はあやしげに笑って、膝で二人の間にすり寄ると、失礼、と言いながらほとんど強引に松緒と東宮の手を繋がせて、その上に自らの右手を重ねた。


「晴明、何がやりたい?」

「ともにはかりごとを為す仲、かぐや姫の秘密を共有する仲間ですからネ。仲良しですヨ、仲良し」


 繋がれた二人の手をぶんぶん揺らしてみせる陰陽師。

 そのついでのようにぶつぶつと何かを唱えている陰陽師。空いた左手で空に何かを描いている陰陽師。……あやしさ満点である。


「おい、晴明。聞きたいことがある。今、何をやった?」

「……まじないなんて、やっておりませんヨ?」


 白々しく明後日の方向を見る野良陰陽師に、やがて東宮は責めるのを諦めたようだった。


「それでは改めて陰陽師の見解を聞きたいのだが……今の状況をどう見る?」


 すっと陰陽師の顔つきが変わる。


「混沌としておりますナ。占いでは大きく道はふたつ。死人は一人か、大勢か。失せ物探しは、六条のあたりが吉と出ております」


 晴明は、松緒のほうを見ていた。

「失せ物探しは六条のあたりが吉」。

 六条。六条と言えば……。


「六条でしたら。昔、姫様と住んでいたことがあります。……もしかしたら何かあるのかも」


 もちろん大納言家で調べていないはずがないだろう。

 でも、松緒自身の目で確かめたわけではない。

 

「まずは、そこからか……」


 東宮は呟く。

 松緒はもう六条に自ら赴くつもりだった。

 かぐや姫が失踪して、日数が経っている。どんな手がかりでもすがりつきたかった。


「私も参ります」


 そう言えば、わかっていたのか、東宮は頷いた。

 そして、なぜかうきうきと懐から暦を書きつけた紙を取り出す陰陽師。


「三人にとって良き吉日をすでに選んでおきましたヨ! 忍び込むならこの夜が良いカト!」

「……来るつもりなのか、晴明」

「当たり前ですヨ。アァ、尚侍サマとの逢瀬のつもりでいらっしゃったのですネ。だめですヨ、仲間なのに仲間はずれはよくないですヨ。尚侍サマもそう思われますヨネ?」

「……そうですね。三人で参りましょう」


 信頼できる人手は多いほうがいい。

 全財産も差し出したのだ、何があろうとこのピンク髪陰陽師を信じると決めている。

 それに、東宮とふたりきりではとても気まずい。実は昔馴染みだったことがわかり、身の置き所に困ることがあるからだ。その理由で陰陽師を巻き込んだところもある。

 こうして、良い日取りを選び、六条の邸に向かうことが決まった。


 

 


 須磨が一時的に宿下がりをしたため、代わりに蔵人頭の長家が尚侍ないしのかみ『かぐや姫』(つまり、松緒のこと)の補佐に入ることになった。


「お互いのことを知るには良い期間ではありませんか。我々は仕事の同僚ともいえる立場ですから」

「うまく口が回る方ですね。他の女人も放っておかないでしょうに」


「お互いのことを知る」。意味深長に聞こえるのは気のせいだろうか。

 几帳を間に立てて、互いに向かい合う形で文机に向かっている。

 彼のほうは、蔵人所の仕事も持ち込んでいるので、たまに書状の雪崩を起こしていた。

 お互いに顔が見えないので、長家の表情はわからない。

 

「どうでしょうね。仕事には厳しいと言われてしまうので、女人にも厳しいと思われているようです」

「そのようには見えませんが」


 長家は、柔和な顔立ちである。帝のように華やかな印象はないが、それなりに整っている。


「……人望はあまりないのです」

「まさか」


 松緒でさえ、人として好感を抱いているのだから、部下に慕われてもいるだろう。そう思って、驚いてみせたのに、長家は意外なことを言う。

 

「父が早くに死にまして。元服げんぷくして、官職についても、出世の見込みはまるでなかったのです。十年以上経ち、今上きんじょうが即位され、私が引き立てられなければ、尚侍ないしのかみさまにお目にかかることも難しかったでしょう」

「ご苦労をなさったのですね」


 長家の身の上は、世間にも広く知られていることだ。滅多にない幸運を受けた「幸ひ人」と称する者もいる。


「しかし、苦労したとしても、報われた。だからこそ嫉妬の対象なりうるのですよ。妬みほど恐ろしいものはありません。いつだって、自分の後ろには大きな穴が空いていて、人はいまかいまかと落ちるのを待っているように思います。「蔵人頭」も完璧にこなしてみせなければならないのです」


 あなたのような方には無縁かもしれませんが、と言い置かれて、「かぐや姫」はそんなことありませんよ、と反射的に返していた。


「わたくしとて、嫉妬されますし、わたくし自身が嫉妬することもございます」


 松緒にはまったく同情できないが、かぐや姫の美しさを嫉妬する者はたしかにいたのだ。

 「あずま」の姿も思い出された。あれを、嫉妬と言わずしてなんというのだろう。

 本当は、どうして、なぜ、と相手を問い詰めてやりたかった。姫様にも「松緒を一番にしてください」と懇願できたらどんなによかっただろう。

 これは「かぐや姫」の言葉としては適当ではなかったのかもしれないと思うが、松緒の中の「イマジナリー姫様」は沈黙を守っている。


尚侍ないしのかみさまが?」

「はい。しかし、人を陥れようとは思いません。嫉妬そのものが悪いのではなく、嫉妬をした相手の悪口や……相手を下げる行いをしたら、それこそ恥ずべきことですから」

「そうですね」

「わたくしは、短い間ですが、蔵人頭さまの仕事ぶりを垣間見ることができました。わたくし自身も手伝っていただいて助かっていますし、蔵人頭さまの仕事はとても丁寧です。書かれる文字が美しいのもそうですが……、蔵人頭さまは人をやる気にさせるのがお上手です」


 長家は、話し相手の様子を実によく見ている。

 仕事を持ってきた部下には必ず「ありがとう」と言い、疲れていると思えば、さりげなく休みを取らせたり。

 仕事の指示も的確で、相手の資質に合わせた物言いをしているように見えた。

 こういう上司の下にいると、部下も生き生きとする。

 前世の松緒はこのタイプの上司になかなか出会えなかったけれども。


主上おかみはそういうところを見込まれたのではありませんか。そうでないにしても、主上の見る目はたしかだったように思われます」


 しん、とその場が静まり返った。

 なぜだろう。失礼なことを言ったつもりではなかったが、生意気だと思われたのだろうか。


「……参りました。実のところ、自分の身の上話をすればあなたの気を引けるのでは、と小賢しい算段をしていたのですが、尚侍ないしのかみさまのほうが上を行ってらっしゃる」

「え、あの……。わたくしは特に計算で申し上げたわけではないのですが……」

「今すぐこの几帳の壁を取り払い、尚侍ないしのかみさまに直にお目にかかりたい」


 几帳がゆさゆさと揺れた。向こう側で、彼が触れていれのだ。


「しかし、仕事中ですので、こらえましょう。仕事中、ですので……」


 本気で悔しがっているように聞こえたので、松緒は思わず吹き出してしまった。


――やはり真面目な方だわ。


 恋愛的な意味は別として、松緒は長家という人間にますます好感を持った。


 ――もし、姫様が婚姻するのなら、このような方がいいのかもしれない。お仕事で忙しくても、その分近くに私がいられるもの。


 仕事をしながら、そんなたわいもない妄想をした。


 ――姫様を、探さなくちゃ。


 次の日。松緒はこっそり宮中を抜け出して、六条に向かった。 


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