第2話 姉の尻に敷かれる弟

 カタカタカタカターー

 カタカタカタカターー


 部屋の中でキーボードを叩く音だけが響いた。

 レインボーに煌めくLEDの残光。

 少年はディスプレイを目の前に、瞳孔を開いたまま、瞬きを幾度も重ねた。


「後少し、もう少し、もうちょっとだけ……」


 少年は吐息混じりに今の心境を吐き出す。

 急がないと間に合わない。

 悠長に作業を続けていたのがバカだったと、少年は焦りを見せてしまった。


「後はここを直せば……ここを、ここを直せば……よ、よし。後、後少し……」


 少年は最後のキーを押す。

 プログラムのコードを打ち込み、修正を始める。

 ウネウネとした文字が蠢き合うと、少年は唇を噛む。


「これだけやれば。後少しだけ……よっしゃぁ!」


 少年はキーボードを思いっきり叩く。

 指の腹から力が抜け、筋肉の脈動を感じた。

 血液の流れが薄く残ると、少年は全身から力が抜ける。


「さぁ、終わりだ。あー、疲れたぁー」


 少年は部屋の電気を明るくする。

 暗がりが煌めきに伴い、ディスプレイの真白が、少年の目に映り込む。

 電光が乳白色になり、文字が小さくなってしまう。


「うわぁ、眩しい」


 少年は急に明るくなったので目元を手で覆い隠す。

 手の腹で視界を隠すと、手元を探ってペットボトルを取り出す。中には黒い液体。炭酸飲料代表格、ぬるま湯コーラを喉の奥に流し込むと、全身がシュワシュワと泡に変わりそうな錯覚に襲われた。


「不味い!」


 当然の発言を口走る。

 表情が歪むと、そのまま腰を預けていた椅子から下り、代わりにベッドへと向かう。

 一回寝たい。せめて横になりたい。そんな脳疲労に苛まれると、急に扉が開けられた。


「鋼仁、バイトよ!」


 全身の毛穴から「ヤバい!」と警戒が鳴る。

 それはマズい。この状況はマズい。

 うつ伏せのまま動けない体を無理に起こそうとするも全く動かないので、少年は悲鳴を上げたくなる。


「ま、待ってよ姉ちゃん! 今起きるから」

「鋼仁、アンタまた徹夜だったのね」

「ううっ、それは……」

「この間はあたしが手伝ってあげたのに、アンタはまた、はぁ、非効率」

「ぐはっ!」


 部屋の前に立っていたのは少年=大神鋼仁の姉だった。

 姉の的を射た言葉の数々。

 グサリグサリと百発百中で胸に突き刺さると、言い返せる言葉は無い。


「それで、アンタのコードは……はっ、ここミスってるわよ」

「えっ!?」

「後はここ。それとここ。残りは……ここと、それと、あそこね。アンタ、睡眠不足よ」


 姉は鋼仁のプログラミングミスをズバズバ指摘する。

 一言一言が厳しく、怒っているようだ。

 心が痛い。だけどこれが平常運転。諦めるしかなく、鋼仁は黙って受け止めた。


「そ、そりゃあ睡眠不足だけどさ、姉ちゃんみたいな奴に言われたく無ぇんだけど!」

「姉ちゃんみたいってなに?」

「そ、それは……あっ、ごめんなさい。マジでごめんなさい!」


 鋼仁は一瞬で我に返る。

 視線の先に映る姉の姿は、表情から言ってイライラしている。完全に怒り顔が表面に露わになっていて、鋼仁は背中がヒヤリとする。


「姉ちゃんみたいって、私のことなんだと思ってるの?」

「そ、それは……姉ちゃん、俺より凄いじゃん」


 鋼仁の姉は凄い。

 大学生で運動神経は抜群。女子サッカーのU20にも選ばれる程で、国外問わずたくさんの名門サッカーチームからスカウトまで来る程。

 ずば抜けたストライカーの才能がある。


 だけどそれを抜いても凄まじい知力と身体能力がある。

 おまけに高校生の頃からの友達とゲーム会社まで設立してしまった。

 経営者の一人として尽力する傍ら、持ち前の知力も活かし、日夜活動を続けている。


 そんな姉と比べると、自分がやけに小さく見える。

 鋼仁にとってはコンプレックスとまでは行かないが、正直頭が上がらない程だった。


「はぁ。バカバカしい。そんなことはどうでもいいのよ」

「どうでもよくないって」

「どうでもいいことなの。それより鋼仁、悪いけどバイトよ。どうせ暇でしょ?」

「ど、どうせって、今からプログラムの打ち直し……にゃぁっ!?」

「そんなのもう終わらせたわ」


 鋼仁は姉に指摘された箇所を直そうと視線を泳がせる。

 しかしディスプレイの中のコードは綺麗に整列され、修復された後がある。

 いつの間に直したのか。姉の凄さをマジマジと見せつけられ、鋼仁は頭を抱える。やっぱり勝てない。勝てる要素がない。尻に敷かれる自分を鋼仁は呆れてしまう。


「これで暇になったでしょ」

「うん」

「それじゃあ早速だけど、このプログラムのデバッグお願い」

「えっ?」


 鋼仁はベッドから体を起こす。

 姉の手の中には懐かしのUSBメモリ。それからVRドライブがあり、何が如何なっているのか分からない。


「姉ちゃんのとこのゲーム? はぁー、デバッグなんて要らないくらい完璧じゃん」

「うちのゲームじゃないわ」

「はぁ? それじゃあ子会社? それとも他社がライセンスを借りて作ったゲーム? 流石にそれは俺の専売特許じゃ……」


 鋼仁は難癖を付けてでも逃げようとする。

 しかし姉の表情が芳しくない。

 何やら裏がある。鋼仁は不思議に顔をマジマジ覗く。


「姉ちゃん?」

「うちのゲームはバグはほとんどないけど、今回は例外。変なプログラムが見つかって、今調査中なの。で、そのプログラムを別離させたから、その調査をアンタに任せたいの」

「お、俺がするの? 嫌だよ。そんな危ないこと、命がいくらあっても足りないって!」


 流石に鋼仁も拒否する。

 それはそのはず、知らないゲームのプログラムに飛び込むなんて、あまりにもリスキー。最悪帰って来られないから、死の危険さえ存在した。


 しかしこんな作業をポッと出に任せられないのも事実。

 困った顔をする姉を前に、俺は如何しても否定的になれない。


「そうね。流石に危険よね」

「……うん。ちなみに姉ちゃん、そのゲーム、どうするんだよ?」

「どうって……誰かが行くしかないでしょ?」

「もしかして姉ちゃん?」

「それも一つよ。こんな危険なもの、放置はできないから」


 姉は強い。心も強い。決して折れない訳じゃないけど、流石に今回は鋼仁は引き下がれない。

 何だか嫌な予感がする。

 確かに姉なら無事に切り抜けられるはずだけど、弟としてここは一つ姉を立てたかった。


「それじゃあ私行くから。悪かったわね」

「バイト代、いくら出してくれるの?」

「……それじゃあこのくらい」


 姉は指を三本立てる。

 ゴクリと鋼仁は喉を鳴らすと、唾が手の形になり手を伸ばしていた。そんなイメージが頭の中に浮かぶと、鋼仁は好奇心を糧にしてニヤケ顔を浮かべる。不適だった。


「それじゃあそのバイト、俺がやるよ。姉ちゃんにはいつもいつも世話になってるから」

「正気?」

「うん。【上限解放】も使っていいんだよね?」

「それはいいけど、とりあえずコージーで行くのね」

「うん。あの姿なら、俺は負けない。姉ちゃん達以外には」


 鋼仁は余裕ではない。だけど億してもいない。

 ニヤケ顔は確信で、姉はそんな鋼仁を弟として信用する。


「それじゃあ、ほい」

「うわぁ」


 VRドライブを鋼仁に投げる。

 精密機械を何とか指で掬い上げると、鋼仁は全身を使って受け止めた。


「姉ちゃん危ない!」

「それくらい取れるでしょ。それじゃあ少しお願い、とりあえず三時間経ったら一度戻って来て。それでダメなら、強制的に引き戻すから」

「……任せてよ。必ずやり遂げるから」

「期待してるわよ」


 そう言い残すと、姉は鋼仁の部屋を出る。

 その後ろ姿は頼りにしている証拠。

 鋼仁は姉の尻に敷かれている。だけどそれは嫌いではなく、決して悪くないと思うのは、弟の性だった。

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