第3話
食紅作戦を始めて数時間後、薔薇はあまり芳しくない状態になっていた。葉脈が血管のように浮かび上がった様は、もはや毒花である。
「あの、斎藤さん。これは」
「えっとですね、こういうこともあります」
予想外の答えにハナはまじまじと斎藤の顔を見た。その目を見ないようにしている下宿人は、あくまですました表情のまま次の手を考えている。
「今度は花の方を直接染めてみましょう。万年筆のインクが私の部屋にありますから」
「え、あの」
「ご存知ですか? 外国の物語に、白薔薇をペンキで赤く染めようとする人々が出てくるものがありましてね。女王に白薔薇を見られたら首を切られてしまうとかで」
「いや、ちょっと」
「私もあの品種は好きですが、お嬢様のこだわりは度を越えていますからね。いつも物語の女王を思い出していたんですよ」
「はぁ」
展開について行けないハナを残して、斎藤はさっさ台所を出て行く。ハナは急いで後を追った。
「暗いので気を付けてくださいね」
「え、ええ」
家人を起こすといけないので、明かりは点けられなかった。それでも斎藤はすたすたと階段を上がり、闇の中を進んでゆく。
「あの、斎藤さん。ひょっとして」
「はい?」
そのとき階下で物音がした。細く開いたドアから明かりが漏れ、誰かが出てこようとしているのが分かる。
「ハナさん、こっちです」
斎藤はハナの手を引っ張って廊下を反対に進み、迷わず突当りの納戸に駆け込んだ。
「隠れて待ちましょう」
狭い納戸で二人の腕がぴたりとくっついた。暗闇の中で大きな花束を花瓶ごと抱えながら、二人は互いの呼吸音だけを聞きながら静かに待った。痛いほどの静寂だったという。
そうしてしばらく経った頃、ハナがおもむろに口を開いた。
「あの、斎藤さん。もしかして」
「何でしょう」
「こういうこと、慣れてません?」
数秒だけ沈黙の時間が流れた。
「何のことでしょうか」
相変わらずの涼しげな声。しかし、ぶつかっている腕がびくりと反応したのをハナは知っていた。さらに言えば、ずっと彼の心音がバクバクいっているのも気づいてる。
「食紅の在り処、よくご存じでしたね。暗闇でお屋敷を歩くのも慣れてらっしゃるようですし」
「いや、それは」
「納戸に鍵がないこともよくご存じですね」
上手い返事を考えている斎藤に、ハナが素知らぬ顔で言う。
「そういえば料理人の方が仰っていました。夜のうちによく食材が無くなって、犯人らしき人影を見ても逃げられてしまうのだとか」
斎藤は何か言おうと口を開いて、それから一呼吸おいて言った。
「降参です。旦那様に言いますか?」
「助けてくれたら言いません。夜に下宿人が盗み食いして納戸に逃げ込んでますよ、なんて」
先程から空回っている頼もしい紳士に、ハナはわざと明るく言った。
「なので、真面目にやってくださいね」
「……はい」
*****
そこまで聞いて、彼は空になった湯飲みを置いた。
「そういう展開?」
私たちは同時に煎餅の最後の一枚に手を伸ばす。今度は饅頭の箱を開けながら、自分にもお茶のお代わりをと、彼に目で催促した。
「そうやって弱みを握られたじいさんが、今後屋敷の中でこき使われるとか?」
「それがまた違うのよ」
「どこに行くんだよ、この話!」
最初の饅頭をかじり、もう出がらしで薄いお茶とともに流し込む。とても美味しかった。
「まあ、なるようになるもんで」
次の展開を想像した私は、笑いをこらえて続きを話しはじめた。
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