第三章
第12話 夢の中の
“結婚しよう、リーズロッテ。なにせもう俺とリズは、一緒に寝てしまった「深い間柄」だからね……”
顔の無い男に、熱烈に迫られる夢を見た。
わずかに、高い鼻の先と、異様に整った形の唇が見える。しかし目元は、紫がかった黒の煙に覆われていた。どんなに風が吹こうとも煙がたなびくばかりで、顔が判然としない。
暗い色のローブの袖から骨ばった手首がのぞき、指の長い手が伸びてきて、リーズロッテの小さな手を絡め取る。
唇だけでにっこりと微笑まれた。
“もう君は俺のものだ。俺だけの聖女。気が遠くなるような年月、待ち続けていた”
繋がれた手が、捧げるように軽く持ち上げられ、つま先が浮いた。
手も体も、相変わらず子どものままだと気づいて、リーズロッテは呪縛から解かれたように叫ぶ。
「ね……寝たと言っても、ベッドを分け合っただけですよね!?」
自分の声で、目が覚めた。
がばっと上掛けを掴んで跳ね起きる。
窓からは明るい朝の光が差していて、小鳥のさえずりが聞こえた。
ベッドの上では、大きな猫が耳まで裂けそうなあくびを……。
「いない……」
昨晩、ジェラさんが寝ていた辺りには何もいなかった。
いま一度窓に目を向ける。いやに鳥の声が聞こえると思ったら、カーテンも窓も開いていた。大きな猫が出ていった後のようだった。
(何よ……。結局猫は猫よね!? 気まぐれで、わがままで、好き勝手。突然押しかけてきて、断りもなく消えてしまって……)
ベッドから起き上がり、柔らかい布製のルームシューズに足をすべりこませながら、ふう、と大きく吐息。肩ががっくりと下がった。なかなか立ち上がれない。
おはようとさよならくらい、言っていけばいいのに、と胸の中で恨み言を呟いてしまった。
* * *
数日、シェラザードには行けなかった。
ジャスティーンがひどく忙しげで「夜に迎えに行けない。ひとりでは危ないから」と心配そうに止められてしまい、それを押してまで動くに動けず。
ジェラさんから、部屋に来ることもなく。
(食事を一緒にしていないから、魔力が弱まって出歩けなくなっちゃったかな?)
リーズロッテは、気がつくとジェラさんのことを考えていて、そのたびに慌てて(大丈夫、大丈夫)と自分に言い聞かせる。
それでも、会えない時間が長くなると、猫を見捨ててしまったような罪悪感が芽生えて苦しかった。
そんなある日、望んでもいない相手が面会に訪れた。
「遠目でも、すぐにわかりましたよ、リズお嬢さん。デヴィッド・ヘイレンです。ご家族にはすでに挨拶は済ませているんですが、リズお嬢さんにはお会いできないままだったので」
学生や教職員が昼食で利用するカフェテリアの入り口にて、突然に声をかけられた。
明るい茶色の髪に、同色の瞳の青年。見るからにお金のかかっていそうなジャケットに、白いシャツを身に着けていて、生徒ではなくとも若い職員に見える。
大ホールを擁する石造りの建物を背にして、入り口の階段を素早く下りて距離を詰めてきた。
逃げる間もなく、目の前に立たれてしまい、愛想よく笑いかけられる。
「何か御用ですか」
「挨拶です。これから、私達は家族になるわけですから」
「ご丁寧にありがとうございます。ですが、わざわざ来ていただかなくても。ここ、学校です」
「卒業生なんです。構内の立ち入り許可証もありますよ。いやー、久しぶりに来れて良かったです。私の青春の一ページですからね。懐かしいなぁ」
周りをたくさんの学生たちが通り過ぎて行く。
リーズロッテは判断に迷い、態度を決めかねていた。
個人的には非常に迷惑なのだが、それを顔に出すのはさすがに失礼かと我慢している。とはいえ、不意打ちで待ち伏せられていて、ぶしつけに顔を見つめられて「家族」を強調されても、親近感など持ちようがない。
「あなたとわたくしは、まだ家族ではありません。他人の男女です。しかもあなたには婚約者がいます。たとえわたくしがその姉だとしても、気軽に二人で顔を合わせるのは良くないと、わたくしは考えますが」
デヴィッドは、おかしそうに噴き出した。見るからに感じの悪い、胃の腑がざらつくような仕草だった。
リーズロッテの厳しい視線には気づかぬのか、デヴィッドは両目を細めてリーズロッテを見下ろしてきた。
「ごもっともです、リズお嬢さん。その愛らしい容姿からは想像がつかないほどに、貞淑をわきまえておいでだ。たしかにあなたは、十五歳の貴族のご令嬢ですね。実に好ましい」
いま、何か。
妙なことを言った。
リーズロッテは双眸を見開いて、デヴィッドを仰ぎ見る。
ちりっと神経が刺激される、嫌な感覚が背を走り抜けた。
「リズお嬢さんが結婚できる年齢までは、あと三年ですか。見た目が子どもとは聞いておりましたが、どうしてひとの噂はあてにならぬもの。それだけお美しく成長されていれば、そこで止まってもなんの不足があるでしょう。『病気』などと馬鹿なことを言う者もいるようですが、実際のあなたを目にしたら浅慮を恥じ入るでしょうね。高い魔力による『永遠の若さ』とは、こうも素晴らしいものなのかと……」
熱っぽく語っている内容のすべてが、リーズロッテにとっては気持ち悪い。
(何を言っているの? 子どもは子どもだわ。月のものもない。跡継ぎを生むこともないとわかりきっているようなわたくしに、結婚の話を持ち出すなんて、どういうつもり。だいたい、あなたはクララの婚約者だというのに!)
デヴィッドの視線が、舐めるように髪や肌を伝っていくのを感じる。
怖気が止まらない。
足が震えている。このままでは、怯えているのがばれてしまうと焦るリーズロッテに対し、デヴィッドは余裕そのものの口ぶりで言った。
「クララさんとの婚約は、まだ仮の段階です。発表もしておりません。今ならまだ、大きな騒ぎにはなりません。年齢差でいっても、本来なら私の婚約者にふさわしいのは」
明るい茶色の瞳に、暗い情欲の炎が浮かんでいる。それはおそらく「永遠の若さ」に向けられているのだろう、とリーズロッテは思う。他に価値のあるものなど自分にはない。
(たとえわたくしの成長に魔法が関係しているとしても、使いこなせていないのよ。あなたに「永遠」を与えることなんてできないわ。望まれてもどうにもできない……!)
一歩後退すると、デヴィッドが二歩詰めてくる。
息苦しくなって、息を止めたままさらに後ろに下がろうとしたそのとき。
すうっと、横を何かが通り抜けた。
背の高い人影。暗い色のローブを羽織り、フードまでかぶっているので、後ろ姿からは男か女かすらわからない。
だけど、初めて会った気がしない。
絶対にどこかで会っている。
(夢の、中で、顔の、ない)
記憶を辿ったリーズロッテの前にその人が立つ。
全身は半透明に透けていて、足元の方はほとんど透明で消失しており、実体を感じさせない姿であった。
そのひとは、リーズロッテを振り返ることなくデヴィッドに向き合い、拳を振り上げた。
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