第5話 杏奈の誘惑

 エマさんは背が低いから、俺の大きな腹を抱きしめた。

 俺のこのパンッパンの腹に、エマさんの腕は回っていない。

 正しく言えば『ソッと支えている』だ。


 やはりハグなんて軽率にいうんじゃなかったと後悔しても遅い。手放しに喜べないのが俺らしいと言えばそうなのだが……。


「私、背が足りないので、座ってもらってもいいですか?」

 エマさんも気まずかっただろうか。

 もう結構ですとも言えず、素直に椅子に座った。

 

 再びエマさんからハグをされる。

 

 今度は豊満な胸を枕にする感じで抱きしめられた。

「んぐっ」

 鼻血が出そうだ。

 耐えろ、俺。

 

 これが女の子のおっぱい。本物のおっぱい。

 大きなおっぱい。思っていたよりも弾力がある……。


「あ♡やん♡」

「ん……?」

 しまったーーー!! 考え事をしていて、つい調子に乗ってしまった。

「ゴゴゴごめんなさい!!!!!」

 慌てて顔を上げる。

 でもエマさんはトロンとした表情で「いいですよ」と言った。


 良かった。嫌がられてないみたいだ。


 俺は勢いよく立ち上がり「帰ります!!」と意思表明をする。

 こうでもしないと、俺の俺が元気になってしまいそうなのだ。

 その失態だけは絶対に避けたい。


 名残惜しげに見送られ、現実世界へと帰ってきた。



⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


 自室に帰ってくると、夕方四時五十分。

 ギリギリまで異世界にいたようだ。


「楽しかったな」

 一気に脱力すると、しばらくの間ベッドに横たわり呆然としていた。

 異世界に転移するなんてとても信じられないが、手に持ったファイルが何よりの証拠だ。

 俺はさっき異世界に行って、ダイエットの契約をしてきた。

 その申込用紙のコピーもファイルにきっちりと挟まれてある。


「エマさんとステラさんも、違う世界で実在しているんだ」

 頬にエマさんのおっぱいの感触が残っている。

 腕にステラさんの細い腰の感触が残っている。

 これが嘘だなんて説明する方が難しい。


 俺は起き上がって、テーブルのお菓子を片付け始めた。

 ダイエットは明日から。

 でも、お菓子くらいは今日からやめよう。

 エマさんとステラさんの顔を思い出しただけで、意識が変わる。

 明日、お菓子やめたって言ったら褒めてくれるかな。なんて既に期待してしまっている。


「って、今日のお菓子は殆ど食べきってるけどな」

 自分にツッコミを入れると、ゴミを袋にまとめ、ジュースは冷蔵庫に戻した。

 代わりにお茶のペットボトルを手に取る。

 生まれて初めて、やる気に漲っていた。

 ダイエットを成功させたい。

 本気だ。

 今度こそ生まれ変わって、カッコよくなって、あいつらを見返してやりたい。

 何より、エマさんとステラさんから褒められたい。

 

 俺だって変われるんだってところを、今まで馬鹿にしてきた奴らに見せつけたい。

 これは神様が与えてくれたチャンスなんだと思った。

 俺の人生はここから変わるんだと、そんな気がしてならない。



「悠伍~!!」

 そんな矢先に、ちょっと前に出かけて行った杏奈が何故か俺の家に帰ってきた。

「え? 杏奈、友達は?」

「ああ、別に大した用事じゃなかったんだぁ」

 片手に持っているコンビニの袋をチラつかせている。

「パン買ってきたから食べよー」

 俺が気になると言ってた新作のパンが、店頭に並んでいたらしい。


 くっ。ダイエットを決意した途端これだ。


「い……いらない……」

 俺の一言に、杏奈が呆然と立ち尽くし、顔が青ざめていく。

 俺が断ったのがそんなにショックだったのか。

 でも俺は一言もパンを買ってきてくれなんて頼んでないし……。

 そんなにあからさまにショックを受けなくても……。


「悠伍……」

「な……何?」

 恨めしい目で俺を見ながら、にじり寄る。


「腹イテーとか?」

「なんでそうなるんだよ!!」

「だって、悠伍が食べ物断るなんてあり得ないっしょ?」

「いや、あり得るだろ!!」

「はぁ? 無理無理。絶対なんかある。って、それお茶じゃん! いつも炭酸しか飲まないじゃん!! もしかして病気じゃないの?」

「……違うわ!!!」


 なんでさっきまでお菓子食べてたやつが急に病気発動してんだよ。


「ダイエットするって決めたんだよ!!」

 言い放った瞬間、つい力んで豚っ鼻をかまし、ふんっと鼻息を荒げた。


「……なんで?」

「そ、そんなのなんだって良いだろ」

「急に変じゃん。ウチがいない間に何かあったんじゃね?」

「はっ? ああああるわけ、ないだろ」

「じゃあ何でキョドッてんの? もしかして……好きな子でもできたとか……」


 女子のこういう勘の鋭さには、驚きを隠せない。

 でも、異世界に飛んだことを話していいのか確認し忘れている。

 大体のアニメでは、自分が異世界に行ったなんて言わないよな……。

 アニメを参考にして良いのかも分からないけど。


「そんなんじゃないよ。ただ、もう虐められるのが嫌になっただけ」

「だからウチが守るって言ってんじゃん」

「女に守られるなんて、情けないだろ!!」

 

 売り言葉に買い言葉だった。言葉に嘘はないが、少し言い方がマズかったかもしれない。

 杏奈は泣きそうな顔で俺にパンを投げつけると、踵を返して帰っていった。


 床に散らばったパンを拾い集める。

 あいつ、六個も買ってんの……。

 三種類のパンが二つずつ。

 俺と、杏奈の分か。


 急に罪悪感に襲われた。

 別にまだ何かを指示されたわけでもない。

 それなら、今日くらい付き合って食べても良かったのかもしれない。


 ぐぅぅぅ……と腹の音が鳴る。

 無意識で体がパンを求めてる。

 目の前に美味しそうな食べ物があるのに、これからは食べられなくなるだろう。

 

 これはもしかすると、ダイエット開始直前に食べておけと神様からのお告げかもしれない。


 俺は自室に上がると、窓越しに杏奈の名前を呼んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る