ピンクサロンのマリーさん

鈴木一矢

第1話


 僕の住む街には、「マリーさん」と呼ばれている女性が住んでいる。住んでいるとは言っても、マリーさんの家を知っているわけではなく、子供の頃からよく姿を見かけていたこともあり、おそらく家は近所なのだろうとみんな勝手にそう思っているだけだ。

 彼女は街では有名人で、理由はその奇抜な見た目だ。マリーさんは大体、平日の18時頃に駅前のスーパーに現れる。ピンクでフリフリな所謂ロリータファッションに身を包み、日傘なのかよくわからない、これまた服装とよくマッチした可愛いらしい傘を晴れの日だろうが雨の日だろうが関係なく差してゆっくりと歩いているのだ。彼女はスーパーの中でも傘を閉じることはなく、誰もがその光景に慣れてしまっているため店員が注意している姿を見たことは一度もない。母曰く、僕が生まれる前に当時のスーパーの店長が注意をしたのだがマリーさんはそれを無視。頭にきた店長が無理矢理傘を取り上げたところ、彼女の顔を見るなり態度を変えて傘を返したと言う。

 小学生の頃、マリーさんの顔を見てみようと友人達と一緒にスーパーに張り込み、マリーさんが現れたタイミングでわざと彼女の足元にお菓子を落とし、顔を覗いたことがあった。結論として、マリーさんは口元にマスクをしていて、上半分は前髪が長すぎてどんな顔なのかはよく見えなかった。しかしその時に見たヘアスタイルはいまでも忘れない。金髪をクルクルに巻いて、まるでフランス映画に出てくるマリーアントワネットのようだった。それ故に、僕たちは彼女をマリーさんと呼ぶようになった。それ以降、僕たちがつけたあだ名が広がり、いまでは街の人たちみんなが彼女をマリーさんと呼んでいるらしい。


「俺たちがつけたあだ名、いまじゃみーーーんな使ってるよ」


 そうハイボールを煽りながら話すのは小学校からの幼馴染、井上雄大いのうえゆうだいだ。


「小学生がさ、マリーさんがーって噂話してたよな」


 雄大に続いて話すのは同じく幼馴染の荻野健一はぎのけんいち

 

 大学卒業後、僕は就職を機に地元を出て東京で一人暮らしをしていたのだが、コロナの影響で仕事はリモートに。若い会社だったこともあり、コロナ収束後も希望者はリモートを続行しても良いという決定が下り、僕は東京のワンルームで十万もする大して愛着もない部屋をすぐに契約解除し、つい先日、地元に戻ってきたところだった。

 僕の住むこの街は所謂ベッドタウンで東京にもアクセスが良いこともあり、万が一出社ということになっても別段困りはしないのだ。流石に実家に戻るのは気が引けたので、実家の近くにアパートを借り一人暮らしをしている。家賃七万で1DK、東京の部屋よりもずっと良い。

 地元で就職した雄大と健一は、僕が戻ってきたと知るや否やこうして飲みに誘ってくれたというわけだ。

 学生時代を振り返っていく中で、マリーさんの話題に帰結した。というのも、雄大と健一が店に来る前に、下校中の小学生がマリーさんについて話しているのを聞いたというのだ。自分たちがつけたあだ名が浸透しているということがなんだかおかしいと同時に、僕はまさかいまだにマリーさんが出没しているということに驚きを隠せなかった。


「マリーさんってさ、僕たちが生まれる前からあのスーパーに出没してたわけじゃん? いまいくつなんだろ」

「うちのお袋が大学生の頃にはもういたって。おんなじ格好で」

「は? それじゃあえーと……よ、四十年くらい前からいるってこと? めちゃくちゃババアじゃん」

「あの噂って、まだあるの?」


 僕がそう聞いた瞬間、二人ともいやらしい笑みを浮かべた。

 マリーさんには噂があった。それは、繁華街にあるピンクサロン「ミルキーヘブン」でマリーさんが働いている……というものだった。店のホームページにも、店内のパネルにも存在せず、フリーで入った時にごく稀に、マリーさんが現れる……そんな都市伝説のような噂。

 ミルキーヘブン自体は若い女の子ばかりで、マリーさんが働いていたらあまりにも浮いてしまうような場所だったと記憶している。


「噂自体はまだあるけどよ、実際に見たって話は全然聞かないよな」

「いや、なんか人づてで実際に出てきた〜みたいのは聞いたぞ?」


 健一曰く、会社の先輩のそのまた友達がマリーさんに当たったことがあったと酒の席で聞いたことがあるという。その人曰く


「とにかく凄かった……って友達が言ってたって先輩が」

「……いや凄いってなにが?」

「そりゃあお前あれだろ……か、顔?」

「あー……昔のスーパーの店長が絶句したとかいうあれね」


 母から聞いた話を思い出し、健一の不確かな情報に相槌を打つ。あの話も僕が高校生くらいの時には尾鰭がついて


「マリーさんの顔を見ると呪われる」


 そんな噂話に変わっていた記憶がある。マリーさん自身はただ平日にスーパーにやってくるだけなのに、どんどん勝手に設定が付け加えられているのだからたまったものではないだろう。いや、それを気にするタイプならとっくにこの街から出て行っているかと、あーでもないこーでもないと話す二人を尻目に僕は思った。


「行くかー、ピンサロ」


 雄大が口を開く。男同士でこの話題になったのだ、こうなる予想はできていた。かくいう自分もそういった店は長らく行ってなかったこともあり、内心ワクワクしていた。

 店を出ると、生ぬるく埃臭い水滴が、僕の肌を弾いた。小雨が降っていた。


「お、雨割り効くじゃん!」


 健一が嬉しそうに空を見上げる。

 店から駅の反対口に向かうための地下道を歩き、地上に出ると少しだけ雨が強くなっていた。早足で繁華街に向かい、傘を差すキャバクラやガールズバーのキャッチを無視し、奥にあるカレー屋を右に曲がると、古いビルが見えてきた。

 ミルキーヘブンと書かれた看板が小さく光っている。雨雫が反射したその光はやけに怪しい雰囲気を放っていた。雨宿りのために入りますよ〜と言わんばかりの走り方で僕たちはエレベーターに向かう。

 ガタガタと不安な音を立てるエレベーターが四階へと向かう。風俗店のエレベーター内で友人と話すことなんてないので、みんなただ階数を示すLEDを眺め、そうこうしてる内に扉が開いた。通路のすぐ突き当たりにある扉は開けっぱなしで、中からは怪しい光と音楽、そしてボーイのアナウンスが聞こえる。


「フリーになりますがよろしいですか?」


 来店した僕たちを迎えてくれた厳つめのボーイが尋ねる。横のパネルを一瞥した感じ、どの子もレベルが高そうだ。外の天気について伝え、雨割を引いてもらい一人六千円。最初に健一が、次に雄大が、そして僕。

 マウスウォッシュをし、ボーイに案内された席へ行く。半個室のような、名ばかりの仕切りで区切られた空間。膝立ちになれば周りの、他の客の様子が伺えてしまうピンクサロン特有の席。正直慣れないが、周りの情報に過敏になりすぎるとろくなことがない。ボーイが運んできた烏龍茶を一口飲む。女の子を待つ間、壁に貼られた注意事項を眺めることで集中を高める。

 気持ちが昂っているのか、落ち着かない。だけど風俗に慣れている男にはなんとなくなりたくない。手汗をかいていることに気がつき、ズボンで拭うと、精神集中のために僕は目を閉じる。

 僕の席に誰かが入ってきた気配がする。挨拶なしとはシャイな子か? それとも目を瞑る僕への配慮か? メンタルを風俗を楽しむモードの僕に切り替え、そっと目を開ける。


 マリーさんがいた。


 地元を離れていた僕でも、一眼でわかる。ピンクのフリフリロリータ服に金髪クルクルヘアスタイル。だけどいつもと違うのはそう、傘を差していない。ありのままのマリーさんだ。あの噂は本当だったんだ。

 ピンサロ特有の照明の暗さと、小学生の頃に見た時と変わらない前髪の長さ、マスクはしていないようだが、俯いていることもありどんな顔かは相変わらずわからない。

 言葉が出ない。口の中が酷く乾いている。目線をマリーさんから烏龍茶に移したが、女の子がいるタイミングでの飲食は禁止と張り紙に書いてあった気がする。そんなどうでもいい情報が頭の中をよぎり目の前の現実から逃避しようとするが、マリーさんはたしかに僕の目の前にいる。

 スッと、マリーさんが僕の腕を掴む。


「ひっ」


 情けない声が出てしまった。マリーさんは持っていたおしぼりで無言で僕の手を拭く。目を凝らしてみると、その手はとても細く、指には赤いネイルがしてあったが爪は噛んだようなあとがあった。僕の手を掴んでいるその肌の感触は、お世辞にも良いとは言えない。みずみずしさは皆無の乾燥した、きめの粗い肌。

 マリーさんがさらに僕に近づく。


「く、臭い」


 鼻をつんざく匂いが鼻腔を伝い、目まで届くような感覚だった。体臭というよりかは、薬のような、病院のような香り。それをもっともっと濃く、強くしたもの、そんな匂いだ。

 マリーさんは僕の股間に触れると、ニヤッと口を開けて笑った。その時に見えてしまった。ねばーっと糸を引く唾液、そしてその先に広がる暗黒を。歯がなかった。

 カチャカチャと僕のベルトを外そうとするマリーさんの頭を、僕は思わず突き飛ばしてしまった。


 ズルッ……ゥ


 頭皮が、剥がれたように見えた。実際はマリーさんのかぶっていたカツラ、金髪クルクルヘアーのそれが取れただけだったんだろう。でもその時の僕には頭皮がズルりとグロテスクに頭から分離したように見えてしまったんだ。


「ひ、ひぃぃひゃああああああ」


 限界だった。


「ごめんなさいごめんさないごめんなさい!」


 マリーさんか、ボーイか、誰にむけたものかわからない謝罪をしながら店から出て、エレベーターでなく階段を駆け降り雨の中、雄大と健一を待った。

 しばらくして、二人が店から出てきた。僕の様子を見て心配する二人に、ボーに何も言われなかったのかと聞くも、とくになにもと言われた。僕はありのまま、マリーさんのことを話した。

 二人とも信じられないという顔をしていたが、茶化すようなことはせず運がなかったなと、すぐそこにあるカレー屋でカレーを奢ってくれた。最初こそ食欲が湧かなかったが、いざカレーを目の前にすると、スパイスの匂いがあの薬のような匂いをかき消してくれたような気がして、間髪入れずに頬張った。


 翌日の夕方、僕は駅前のスーパーにいた。昨日のことを冷静に考えると、自分はなんて失礼なことをしてしまったんだろうと思ったのだ。僕は別に、マリーさんに襲われたわけでも、傷つけられたわけでもない。彼女はただただ、ピンサロ嬢としてのサービスを全うしようとしていただけだ。


「謝らないと」


 この街に戻ってきたんだ、マリーさんとは否が応でも顔を合わせることになる。あの時逃げたあいつだと、恨まれてしまうかもしれない、それなら謝ろう。謝ろう。

 マリーさんがスーパーに入っていく背中を、僕は呆然と見つめている。スーパーの中で謝るのは、周りの目もある。彼女にも失礼だ。

 気がつくと僕は、マリーさんをつけていた。スーパーから出てきた彼女に謝ろう謝ろうと、タイミングを見計らってはなにかと言い訳をつけて行動に移せず。

 マリーさの歩く姿を見ていると、見知った町内が、いつもと違う姿に見えてきた。非現実的でどこか禍々しいような、そんな街並み。マリーさんはフラフラと、左右に揺れながら歩くのが癖のようだ。僕はその動きに魅入られたように、僕自身もフラフラと足並みが落ち着かない。

 

 どれだけ歩いただろう。見知った公園を曲がり、見知った自販機の前を通り、見たことのない脇道に入り、知らない家々が並ぶ通りを歩き、古く錆びた門の内側に、マリーさんは消えて行った。

 こんな奥まった場所にマリーさんの家はあったのか。僕はどこか虚ろになった思考の中で彼女に謝らなければと、門を開き玄関まで足を運んだ。

 インターホンは壊れているようだ。押しても音はならない。ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。扉を開けると、あの匂いが強くなった。マリーさんの後ろを歩いている時も、彼女と店で会った時も感じていた薬のような匂い。それが充満していた。そしてこの匂いはどういうわけか、僕の思考を鈍らせる。

 中に入ると、右にリビング、そして廊下が続いていた。家の中は意外にも整頓されていて、先ほどスーパーで買ったであろう食材が入った袋がリビングのダイニングテーブル上に置かれていた。


 ピチャ……ピチャ……


 なにか水音のようなものが廊下の先から聞こえる。奥の部屋から光が廊下に漏れている。彼女だろうか? 一歩一歩その部屋に向かうたびに、匂いが強くなっている気がした。この香りに慣れてきた自分がいる。

 光の漏れ出た部屋の扉が少しだけ開いていた。僕は恐る恐る、隙間から部屋の中を覗く。


 ピチャ……ピチャ……


 マリーさんが、ベッドの上でなにかをしている。いや、ベッドに寝ている誰かに、なにかをしている。寝ているのは、マリーさん? 彼女と同じ格好している誰かだ。その手がベッドからダランと垂れている。干からびた、ミイラのような……ミイラのような……

 ハッとした。脳が危険を伝えている。鈍り霧の膜が張った思考を本能が無理矢理ひっぺがすような感覚。

 あれは死体だ。ベッドに横たわっているそれは、間違いなく人の亡骸だ。そしてマリーさんは、マリーさんは……


 死体の性器を必死に舐めている。


 異常なその光景に僕は腰を抜かしてしまった。

 どすんっと、僕が尻餅をついた音が廊下に響いた瞬間、マリーさんは動きを止めた。


「逃げないと」


 わかっていても、体が動かない。彼女が来る。マリーさんが来る。


 ギィ〜ッ……嫌な音を立てて、目の前の扉が開いた。

 ゆっくりと、マリーさんが現れ僕を見下ろす。幼少期に見上げた時と違って、はっきりとその顔が僕の目に焼き付く。光のない虚ろな目には白目がやけに少なく感じる。黒く暗い瞳が半月ような形でこちらを見ている。口はだらしなく半開きになり隙間からは涎が垂れている。やはり歯はない。

 くしゃっと、彼女は微笑んだ。その表情があまりに恐ろしくて、僕は再び逃げ出した。昨晩のように


「ごめんなさい、ごめんなさい!!」


 今度はちゃんと、彼女への謝罪だ。背中に感じる彼女の視線をあの家の匂いを背にして、僕は交番へと駆け込んだ。


 死体遺棄の罪でマリーさんが逮捕されたのは、それからすぐのことだった。ここから先の話はどこまで本当で、どこまでが噂なのかはわからない。

 彼女の年齢は三十歳で本名は不明。というのも、出生届が出されておらず、彼女はこの世に存在しないことになっている人間だった。そして、僕たちが生まれる前に街に現れていたのは、彼女の父親だったという。

 彼女の父親には若い頃から女装癖があり、自身が理想とする女性の姿になっていたと言う。当時のスーパーの店長がその顔を見て驚いたのは、それが中年の男性だったからだろう。そして父親の性癖は自分が姿を変えるだけでは飽き足らず、自分の理想となる女性を作り出すために、行きずりの女を孕ませ生まれた娘を金で買い取ると自身と同じ格好をさせ、性処理をさせていたというのだ。

 マリーさんは生まれた時からずっと、父親のおもちゃとして育てられ、それ以外の生き方を知らなかったのだ。そしてあのピンクサロンは、その父親の親戚がオーナーをしている店だったそうだ。

 父親が死んでも尚、マリーさんは父親を喜ばせ続けようとその体に縋り続けた。ストレスで髪は抜け、食べても食べても嘔吐を繰り返す拒食症になり、その度に食材を買い足しては戻し、それでもそれ以外の生き方を知らない彼女は男を喜ばし生きるためにあの場所で働き……。

 父親の腐敗臭を隠すために、大量の薬品を使っていた形跡が家からは見つかったそうだ。その薬品は吸いすぎると意識が朦朧とするそうで、僕の判断力を鈍くしていたのはそれが原因だった。そんな中で生き続けきた彼女の精神は、もうとっくに壊れているに違いない。

 この話を聞いた雄大は言った。


「歯のない人がする”アレ”って、めちゃくちゃ気持ちいいらしいよ」


 それを聞いて健一は言う。


「ああ、先輩の友達が言ってたのってそういう……」


 二人がチラッと僕をみる。いやいや、もったいなかったなって思うわけないだろ。

 街からマリーさんが消えても、マリーさんの噂が絶えることはない。それどころかあの頃よりも尾鰭をつけて、都市伝説のように広まっていく。


 僕の住む街には、「マリーさん」と呼ばれている女性が住んでいた。

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ピンクサロンのマリーさん 鈴木一矢 @1kazu8ya

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