校長室

「今日は最高気温36℃よ! 暑いから、校舎の中で話したら?」

 渡り廊下から話しかけてきたのは、校長先生だった。

 とても短く切った髪は緑色に染まっていて、サングラスを掛けている。何より、タイツではなく素足のまま、膝丈より短いスカートを履いていた。

 ――俺が今まで出会った大人の中でも、とびきり特徴的な人である。

「校長先生、こんにちは」

 クマカワ先生は笑って頭を下げ、「それじゃあ、臼井くん。またね」と去っていく。

 あっさりといなくなったクマカワ先生に、俺はぽかん、と口を開けた。

 完全に姿が見えなくなったのを見計らって、校長先生が尋ねてきた。

「大丈夫? クマカワ先生から、何か言われた?」

「あ、いえ……」

 ……そう言えば校長先生も、サチみたいな色だよな。「おかしな色」と言ってしまって、後ろめたさがあったのかもしれない。トモチカさん曰く、校長先生の機嫌を損ねると大変らしいし。

「あの、校長先生に用があって来ました。お時間、いただけますか?」

 俺がそう言うと、校長先生は笑って、「もちろん」と返した。





 校長室や職員室の前には、『入室にゅうしつするときのあいさつ』と、ふりがなを振って大きく書かれたカードが掛けられてある。

 二回ノックしたのち、『失礼します。〇〇先生に用があって来ました。入ってもいいですか』と言うなど、用事に合わせて行う挨拶のやり方が載っていて、とてもわかりやすい。

 なおサチは、

『ちゃーす。〇〇センおるー?』

 と言って、ズカズカと入っている。

 だけど職員室と違って、校長室はいつも扉が開けられていた。だから挨拶は基本、「失礼します」だけだ。

 中に入ると、窓際には高級そうな机が艶やかに光を反射していて、入り口手前にはふかふかの黒いソファとテーブルが置いてある。――そしてなんと、校長室にはテレビがあり、家庭用ゲーム機もあった。学校にゲームっていいのかな。

 校長先生が冷たい緑茶を湯飲みに注いでくれる。俺はありがとうございます、と言って、それに口をつける。

 昔俺は、緑茶は苦いものだと思ってた。けど、校長先生が出してくれた緑茶は、どこか甘くておいしい。

「お菓子もあるわよ~」

 そう言って、先生は個装された半生菓子を渡してくれた。

 何となくソワソワしてしまい、会話が途切れる。校長先生は、俺が話すまで黙っていてくれているようだ。

「あの……」

 なんて切り出せばいいんだっけ。俺は必死に思い出す。


 ■


『でも、なんて切り出せばいいんだよ。俺、校長先生とはほとんど話したことないよ』

 俺がそう言うと、『んなもん、適当に会話を始めておけ』とサチが言った。適当って。

『とりあえず、「トモチカさんとお会いしました」ってところから始めてみれば? そしたら多分、むこうから話してくれるし。そこから気になるワードがあったら、繋げてみろよ』


 ■


「ええと、トモチカさんとお会いしました。トモチカさんって、校長先生の息子さんだったんですね」

 俺がそう言うと、「まあ、会ったの?」と校長先生が嬉しそうに言った。

「そうなの、トモチカは私の息子よ。幸村さんのところでお世話になったんだけど、あ、その関係で会ったのかしら?」

「あ、はい。そうです。俺の前に、幸村家で過ごしていたって言ってました」

「そうよね、トモチカって、タケルさんの先輩にあたるんだわ。今気づいちゃった」

 校長先生は、生徒のことを「さん」を付けて話す。サチのことも、「サチさん」と呼んでいた。

 よし、ここはサチの話をしてみよう。

「トモチカさん、サチのことよく知ってて。その……何と言うか」

「親近感を抱いちゃった?」

「ハイ」

 これは本当。サチへの対応と言うか、巻き込まれ度というか、まるで自分を見ているようだった。

「それで、校長先生が言っていた、『天上天下唯我独尊』を思い出して……」

「え?」

 校長先生が、サングラスの向こうで目を見開いた。

 そこで、ああ! と声をあげる。

「もしかしてタケルさん、『自分だけが尊い』という意味の方だと思ってた? あれ、もう一つの意味があるのよ」

 はい、と校長先生が、机の上に置いていた文庫本を持ってくる。

 そのページにはいくつか付箋が貼られており、その中の一つを引いた。

「『かけがえのない個人の尊厳』、つまり、すべての人間は尊いって説もあるの。あの子はああ見えて、人のことをよく見ていると思うわ」

「……そう、ですか?」

 意外な返答に、俺は戸惑う。

「私もね、あの子のことを理解しているとは思えないの。でもね、後でじっくり考えて、『あれってそういうことか!』って思うことが多いのよ」

 例えばね、と校長先生が言う。

「タケルさんがこの学校に来る前に、海外から来た転校生がいたの。

 でもその子、まだ日本語に不慣れでね。カードが読めなくて、ノックを四回したことがあってね」

 ふと俺は、幸村家に来たばかりのころ、サチが部屋の扉を四回ノックしたことを思い出した。

「それを先生の一人が、からかったことがあったの。『常識を知らないのか。そんなに叩いて、ドアを壊す気なのか』って。

 そこですかさず、サチさんが」


『はあ? 国際的には四回ノックすることがマナーだけど? 二回とかトイレに入る前のノックだぞ、お前職員室で用足すつもりなの?』


「って、言ってたのよね」

 すごい。サチの煽りが。

「その後、その先生はものすごく怒ったから、すかさず私が、『先に生徒をからかったのは、あなたでしょう』と口を出したの。

 元々、『教員や生徒の言動に対して、からかうようなことを言ってる』って報告が来ていたから、職員室で言えたのは、とっても良いタイミングだった。皆が、『からかうのはやめてください』って言えるようになったからね」

 どうやらサチの煽りが、ちょっとだけ校内をよくしたらしい。

 それにしてもあの四回って、そういう意味があったんだ。

「知りませんでした。ノックの回数に意味があるなんて……」

「と、思うじゃない?」

 校長先生がいたずらっぽく笑う。「それ、嘘らしいの」

 俺は思わず、湯飲みを落としそうになった。

「日本語で検索したら、その情報が真っ先に出てくるんだけどね。サチさん曰く、英語の文献がなかったんですって」

 サチって英語もできるの? そう言えば、トモチカさんの家に突撃した時、綺麗な発音していたけど。

「後から聞いたらその子、失礼のないように、インターネットで調べていたらしいわ。日本の企業が外国人向けに書いたマナーを読んだんですって。

 サチさん、その子が調べていたことを知っていたから、恥をかかせないために言ったのね」

 どちらの心遣いにも感動しちゃった。そう校長先生は嬉しそうに言った。

 そう、だったんだ。

 サチの意外な一面に、俺は息をのんだ。

「その後、ノックは四回するのが流行りになったわ。皆が真似して。そして二回ノックする先生たちは、生徒から『先生今からトイレすんの?』とからかわれたわ」

 うん。

 やっぱり先生たち、大変だと思う。サチの真似をする子たちが増えて。

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