目の前で起きる事件

初めまして、チカさん

 俺たちが住む町の名前は、彦姫町。その名前は、かつてこの地を収めていた彦と姫から来ているらしい。その後、彦姫村は狐塚村や林原村と合併し、彦姫町となったそうだ。

 俺たちが住む幸村家は、丁度その三つの村の境にあり、市立図書館のある狐塚にも、林原にも行きやすい。

『チカさん』が住んでいるアパートは、林原にあった。林原には大きな森林公園と治水施設があり、山にあるダムと繋がっているそうだ。比較的開発が進んでいる狐塚や、狐塚のベッドタウンである彦姫と比べると、田んぼや畑、山や川といったのどかな風景が広がっている。

 カンカンカンカン。

 金属の階段を登って、二階にある部屋へ向かう。

「じゃあタケル、打ち合わせどおりによろ」

「いや、あのさ……」

 俺は本当に実行に移していいのか悩んだ。

「言ったっしょ。アイツ、こうでもしねーと出てこねーの」

「いや、でも……」

「いーから」

 ……何を言ってもダメらしい。

 もうどうにでもなれ。そう思って、俺はピンポンと呼び鈴を鳴らした。

『……どちら様ですか』

 気だるそうな男の人の声がする。

「た、宅配便でーす」

 嘘をつく罪悪感と緊張で、思わず声がひっくり返る。

 俺がそう名乗ると、間を置いて、バタバタと足音がドアの向こうから聴こえた。

 やがてドアが軋みながら開かれる。ドアが開かれるのと同時に、サチが顔を出した。


「Here's Johnny!」

「ぎゃぁぁぁ!!」


 なぜか英語で話すサチと、響く男性の叫び声。

 間を置かず、サチはドアに手をかけた。

 ワンテンポ遅れて、男性が抵抗してドアを閉めようとするも、サチはあっさりと開け放った。――とある事情で天狗に気に入られたサチの腕力は、平均成人男性の筋力をゆうに超える。

「おおおおお前!! なんでここにいるんだよ! どこでこの家を知った!?」

「んなもん、校長先生から聞いたに決まってんだろ」

「あんのクソババア個人情報漏らしやがって!」

 相手を怒らせているにも関わらず、素知らぬ顔をして、サチが俺に言った。

「タケル。コイツが『チカ』。林原智親トモチカ」 

 この人が『チカ』さん。

 年は二十代半ばだろうか。160cmある俺よりずっと背が高い。さっきまで寝ていたのか、寝癖の着いた黒い髪に、シワの着いた白いTシャツとよれよれの黒いスウェットを履いている。

 サチが呼び捨てにしていたから、同級生の女の子なのかと思ってた。大人の男性だった。





「クソ……インターフォンが映像付きならこんなことにはならなかった……」

『チカさん』――トモチカさんが、悪態をつきながらもお茶を出してくれた。

 オレンジ色のアイスティーはほんのりあまくて、少しレモンの香りがする。

「この家には客に出す菓子もないのか?」

 なおサチは、偉そうにふんぞり返りながら、こう言った。

「霞でも食っとけ」すかさずトモチカさんが返す。

 で、とトモチカさんがちゃぶ台の前に座る。

「その子が、ミドリさんが言ってた『タケルくん』か?」

「そそ、タケル」

 サチの言葉に、そうか、とトモチカさんは言った。

「苦労してるんだな……」

 その実感のこもった哀れみに、俺は悟った。――あ、この人、サチに振り回されて来た人だな。

「改めて、俺は林原智親。色々あって、俺も幸村家にお世話になってたんだ」

「そうなんですか?」

 俺はビックリして思わず聞き返した。俺の前にも、幸村家で暮らしていた人がいたんだ。

「中学最後の一年と高校三年間、幸村家に住まわせて貰ってな。生まれた時からコイツを知ってる」

 ピッ、とトモチカさんがサチを指さす。サチは行儀悪く、氷をガジガジかじっていた。

「だから君がなすすべもなく、サチに振り回されてここへ来たことは大体想像つく」

「いや、あの……騙してすみませんでした……」

 遠い目をしながらうっすら笑みを浮かべるトモチカさん。止められない、というより、止めることすら放棄していた俺は、申し訳なかった。

「で? なんでうちに来たんだよお前。タケルくんまで巻き込んで」

「あ、この家のWiFiのパス教えてもらってい?」

「聞けし。そんで教えるわけねーだろ」

 ……と言いながらも、トモチカさんはサチのタブレットを自分の家のWiFiに繋いでくれた。優しいのか、あるいは下手に拒否したらサチが何をしでかすかわからないからか。どちらもだろうなあ、と俺は思った。

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