金銭感覚とは
じいやが持ってきてくれた帳簿を机に置いた。表紙をゴルトベルクさんたちに向ける。和綴じの冊子に、彼らが珍し気な視線を向けた。
『僕が実家で経営をお手伝いしていた、工具店の帳簿です』
たった数か月前のことなのに、なんだか懐かしい。少しくたびれた紙面をするりと指で撫でる。
お兄様は、私たちの上京と同時にお店を畳むつもりらしかった。もうお店はないにしても、この帳簿には、私たちの思い出が詰まっている。
私はページをめくって、出納内訳を広げた。収入に対して、出費は文房具などの消耗品代、お店の賃貸料や電気代などの維持費、そして従業員たちへのお給料。
『人を雇っていたので、彼らには毎月これだけの報酬を支払っておりました。小売店の従業員としては平均的な月給です』
私は指先で、とんとんと給料欄を叩く。ゴルトベルクさんは数字を読んで『少なくないか?』と眉をひそめた。
『為替の相場変動はあるとしても、これは単身者でも半月も暮らせていけない金額に見える』
『たしかに豊かな生活はできませんが、単身者ならひと月程度、十分暮らしていけます』
じいやが、さっと洋紙を私へ差し出す。そこにすらすらと数字と文字を書いてみせた。
生活費の内訳、各費用の値段。ほうと感心するエーベルさんに対して、ゴルトベルクさんがどんどん怪訝な顔になっていく。
『安すぎないか?』
『いたって一般的な、労働者の生活費ですよ』
私が言っても、彼は半信半疑のようだった。私は続けてページをめくる。
『ほら。そもそも、お店の品物がこれくらいの値段なんです』
とんかちなどの大工道具に、作業のための足袋、手ぬぐいなどの雑貨。それから、ねじをはじめとした細々とした消耗品。その値段を、ゴルトベルクさんの目が追う。
首を傾げる彼は、『分からない』と呟いた。
『そもそも工具や金具の値段で、この国の一般的な物価が分かるとは思えん』
それもそうだけど、私が思いつくのはこれだけだったのだ。
『たしかに、もう少し一般的な品物の方が勉強にいいかもしれません』
エーベルさんも、ゴルトベルクさんの意見に頷く。むう、と考え込む私をよそに、中村さんがお茶の入った湯呑みを持ってきてくれた。
「何のお話をしていらっしゃるんですか?」
「ゴルトベルクさんに、物価を勉強してもらおうと思ったの」
私が言うと、ついと中村さんの視線が帳簿へと向く。
「だけどお店の帳簿を見ていただいたら、もっと一般的な品物の方がいいとのことで。どうすれば分かりやすいかしら……」
あら、と中村さんは大袈裟な仕草で手を当てた。
「お嬢様、お金の価値を知る事始めに、それは大変むずかしゅうございます。それが分かればお嬢様のようにお金の勘所を掴めますが、基礎がなければ分かりようもないのですから」
中村さんはウンウンと頷く。そうねえ……と私がため息をつくと、「しかしこの中村アサ、考えがひとつございますよ」と、割烹着のポケットから一枚の紙を差し出した。
「こちらの品物を、お二方と一緒に商店街で買ってきてくださいまし」
小さな紙に、今晩のご飯の材料が几帳面な丸い字で書かれている。
「ほうれん草、お豆腐、里芋、にんじん、こんにゃく、ほっけ……」
私の呟きに、ゴルトベルクさんも私の手元をのぞきこんだ。ふっと顔をあげると、思ったより近くて驚く。
それをエーベルさんが引き剥がし、私は何事もなかったかのように続けた。
『これは、彼女の買い物の備忘録です。今晩の食事の材料が書かれています』
それで、と私は提案する。
『今から、この品物を買いに出ませんか? 先ほど彼女に、そちらの方が一般的な金銭感覚を掴みやすいのでは、と助言されたので』
私が言うと、二人も頷いた。中村さんはどこからかサッと買い物袋を私に持たせ、お金を握らせる。
「お嬢様のお仕事、陰ながら応援しておりますよ。いつもがんばっているお姿に、私もじいやも感激しております。どうかお疲れの出ませんよう」
そう言って、中村さんは私たちのことを見送ってくれた。
「いってらっしゃいませ、お嬢様! 今晩はごちそうです。ほっけを焼いて、お嬢様のお好きな里芋の煮っころがしも作って、じいやと待っておりますからね!」
大きな声に手を振って、私は二人を連れて商店街へと向かった。
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