雇い主たちの事情と、私たちの自己紹介
ゴルトベルクさんはゆっくり瞬きをした。少しの間があって、彼はおもむろに話しはじめる。
『金を稼ぎに来た。より正確に言えば、商売の修行をしてこいと言われ、放り出された』
『いろいろ事情があるんですけれど……』
言葉に詰まるエーベルさんをよそに、ゴルトベルクさんは話し続ける。
『この国で商売をして、自力で金を稼いでこいと本国を追い出されたのだ』
まあ……と、私は少し眉を曇らせた。
『大変ですね。それで、しばらくこちらでお仕事を?』
『いや。旅費が稼げ次第、帰国する』
それでは、一年間という雇用期間はどうなるのだろう。首を傾げる私に、ゴルトベルクさんは、さらに付け足した。
『一年以内に帰国費用を自力で稼げなければ、俺は勘当らしい』
エーベルさんへそっと視線を向けると、彼は沈痛な面持ちで俯いていた。その心中、察するに余りある。
私は恐る恐る、彼に尋ねた。
『でも、在留資格の期限があるでしょう? それはどうなんですか』
『さあ?』
この人は一体、母国で何をやらかしたのか。エーベルさんが立ち上がり、『ちょっとこちらへ……』と、部屋の扉を開ける。私を呼びながら、身体を半ば外へと出した。
『お話があります』
私は言われるがまま、エーベルさんと外に出た。ゴルトベルクさんには秘密の話があるのだろうか。廊下には、それなりに人影があるのだけど。
『ルドルフ様にはもう後がないんです』
切羽詰まった顔で、エーベルさんが言う。
『詳細は省きますが、ルドルフ様はあの調子なので、ゴルトベルク家から見放されかけているんです』
そうなんですね、と頷いて、さらに続きを促す。正直、驚きもない。
『彼の父親が最後の機会として、今回の渡航を言い渡したんです。私はそのお目付け役なのですが、これまでの様子を見るに、楽観的には決してなれない』
エーベルさんはため息をついて、こめかみに手を当てる。
『……とはいえ、ルドルフ様のおじいさまとおばあさまは、彼に大変甘い。最悪の場合でも、彼らがなんとかするでしょうね』
それはゴルトベルクさんが堕落した、最大の原因ではなかろうか。エーベルさんは、私にすがるように尋ねる。
『ハタノさんは、ご実家が商家なんですよね。どれくらい商いの経験がありますか?』
『屋台や小売店への棚卸し、計画と運営なら、多少の経験があります』
これは実家から出ていくお金を貯めるために、お兄様とじいやとこっそりやっていたことだ。
『ハタノさん、お願いです。我々の手助けをしてください』
私は、閉じられたゴルトベルクさんの部屋を見る。当の本人は、どう思うだろうか。
『ゴルトベルクさんのお話も伺いたいです。いいですか?』
エーベルさんは進んで扉を開ける。私が部屋に戻ると、ゴルトベルクさんがこちらを見た。その青い瞳に、にこりと微笑みかける。
『自己紹介がまだでしたね』
私が藪から棒に口を開くと、二人とも驚いたのか目を丸くする。それに構わず、私は胸に手を当てた。
『波多野ミナトと申します。実家は造船業を営んでいますが、僕には兄たちと小売店を経営した経験しかありません。特技は外国語です』
突然の自己紹介に呆気に取られているゴルトベルクさんの顔を、まっすぐ見据える。
『あなたは?』
促す。戸惑いながらも、彼は居住まいを直した。エーベルさんは、怪訝な顔で私たちを見ている。
『ルドルフ=ゴルトベルク。実家は鉄道を経営していて、他にも様々な事業を手がけている。商売の経験はない。大学では、文学を専攻していた』
エーベルさんを見る。ゴルトベルクさんも、彼をじっと見つめた。彼は仕方ないとばかりにため息をついて、私に向き直る。
『エーベルハルト=エーベル。冗談みたいな名前ですが、本名です。ゴルトベルク家に仕えている使用人の息子ですが、何かと旦那様と奥様には目をかけていただいています』
私は、自己紹介をしてくれた二人にお辞儀をした。きっちり腰から曲げて、顔を上げる。改めて、身体ごとゴルトベルクさんに向き直った。
『おおまかな事情は、エーベルさんから伺いました。あなた方のお手伝いを、通訳以外でもさせていただきたいです。もしかしたら、僕の経験が役に立つかもしれません』
ゴルトベルクさんがエーベルさんを見た。エーベルさんはその視線にぎくりと身体を強張らせながらも、私をちらりと見る。
『いずれにせよ僕たちだけでは限界がある。ここでの協力者がいれば、心強いだろう』
『また勝手に、俺のことを話して……』
何かを言いかけて、ゴルトベルクさんは口をつぐんだ。
私は、それをじっと見つめていた。青い瞳は観念したように私を見つめ返して、そしてゆっくり、大きな右手を私に伸ばす。私はその手を、自分の右手で握った。
『では、そういうことで。あとお給料にも、ちゃんとその他協力代を上乗せしておいてください』
ちゃっかり要求する私に、エーベルさんが顔を引き攣らせた。にこりと微笑みかけると、ゴルトベルクさんは頷いてくれる。
こうして、私は彼らと深く関わることを決めた。
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