雇い主が財布をすられました

『正午ですね。ご飯にしましょう』


 私の提案に、ゴルトベルクさんは頷いた。


『それでは、一旦ホテルへ戻って荷物を置くか』


 人混みを身体で押しのけるようにして、私たちは進む。大荷物を抱えたまま歩くのはなかなか苦労したけれど、なんとか市電の停留所へとたどり着いた。

 車内で揺られることしばらく、ホテルの最寄駅へと到着する。先に降車しようとしたゴルトベルクさんが、腰のあたりをぽんぽんと叩いた。


 ものすごく、嫌な予感がする。


『財布がない』


 私は間髪入れずに二人分の運賃を払い、ゴルトベルクさんを市電から降ろした。がたんごとんとのどかな音を立てて去っていく車体を見送りながら、私たちは見つめ合う。


『……本当に、財布がないんですか?』

『コートの右側のポケットに入れたはずなんだが、見つからない』

『それは多分、すられたんですよ!』


 あまりにも本人が平然としているので、かえって私が慌てた。ホテルに飛び込んで階段を駆け上がる私に対して、ゴルトベルクさんは優雅な足取りで昇っていく。

 彼らの宿泊する階に着いてすぐ、エーベルさんの部屋をノックした。


『エーベルさん、いらっしゃいますか!』


 私の焦った声に、すぐに扉が開いた。エーベルさんはぱちりと緑の目を瞬かせ、『どうかしたんですか』と私に視線を合わせる。


『ゴルトベルクさんが財布をすられました』


 エーベルさんは、たっぷり沈黙してから頷いた。のこのこゴルトベルクさんが現れたところで、エーベルさんは部屋から出てゆらりと立ちはだかる。


『ルドルフ。僕に何か言うことはあるか』

『財布をなくした。在留証明書は、言われた通り素肌に身につけていたから無事だ』


 エーベルさんは天を見上げて、何か祈りの言葉を呟いたようだった。私はたまらなくなって叫ぶ。


『なくしたんじゃなくて! 盗まれたんです!』

『起こっている現象は一緒だろう。俺の手元から財布が消えただけだ』


 信じられない。口をぱくぱくさせながらエーベルさんを振り返ると、彼はこめかみに手を当てて唸っている。


『いつかやるとは思っていたが……こんなに平然としているなんて……』


 ここで私が盗んだのではと疑わず、責めないエーベルさんの、なんと心の清いことか。それとも、余程ゴルトベルクさんの信用がないのか。


『騒いでも仕方ないだろう。この国で作った口座にはまだ預金がある』

『ルドルフ、お金はタダで湧いてくるものじゃないんだよ……』


 エーベルさんの口ぶりから、日頃から大変な苦労をしていることが偲ばれた。それから、二人はとても親しいのだろう。

 私よりエーベルさんの方が動揺しているので、やっと気持ちが落ち着いた。とりあえず、とゴルトベルクさんの部屋の方を見やる。


『荷物を置いて、話し合いましょう』


 二人とも、異論はないようだった。ゴルトベルクさんはスラックスのポケットから部屋の鍵を取り出して、扉を開ける。


『鍵は無事だ』

『よかったな』


 吐き捨てるようにエーベルさんが言う。この人は案外、荒っぽい口調で話すらしい。

 私はそそくさと部屋に入って、荷物を適当に置いた。無造作な配置にゴルトベルクさんは何かを言いかけたけど、それより先にエーベルさんが彼の持つ荷物を取り上げて、ベッドの上へ乱雑に置く。


『ルドルフ。財布の中身は覚えていますか。いくら入っていたかは?』

『覚えている』


 そう言って、ゴルトベルクさんはすらすらと金額を唱えた。思わず、ほうと感嘆してしまう。その記憶力と計算能力は、私も欲しい。

 そしてその額に、少し気が遠くなった。普通に持ち歩いていい金額では、ない。

 下一桁まできっちり聞いて、うん、とエーベルさんは頷く。


『そのお金で、この国の四人家族の食費が何日分、まかなえるか分かりますか』

『三日……?』

『十日です』


 そうか……と感心したようなゴルトベルクさん。ここまで来たら相当の大物だなぁ、と他人事のように私は思った。

 エーベルさんは深いため息をついて、手で顔を覆う。


『ルドルフ。金額自体はたしかに、僕らにとっては大きな問題じゃない。あなたが、財布を盗まれたことを、とても軽く考えていることが、問題なんだ』


 訥々と、彼は語る。悲壮感があった。


『勉強ができて、教養もあって賢くて、運動もできて、容姿も優れていて。なのに、なんであなたはこうも抜けているんですか? なまじ他がいいだけ、差し引きして大損です。旦那様の年収を負の値にしたくらいのめちゃくちゃな大損ですよ』


 貶す前の助走に、エーベルさんが普段どれだけゴルトベルクさんに甘いかが伺えた。褒められてるけど本当なのか、と疑いの視線をゴルトベルクさんに向けると、椅子に腰掛けて足を組んでいた。


『これまでの人生で必要のなかった能力だからだ。俺がゴルトベルク家の次男として生きていく上で、お前が挙げたもの以外に必要なものがあるか?』


 あんなに言われて平然とできる人間は、なかなかいない。


『もういい。ハタノさん、こういう時はどうすればいいですか』


 すがるようなエーベルさんに、少し伏し目がちになって答える。


『重要な証明書の類はなくしましたか?』


 ゴルトベルクさんが首を横に振る。ああ、それは……と、私は頷いた。


『不幸中の幸いでしたね。まず財布は見つからないので、諦めるほかないです。川辺の砂利から砂金を探す方が、まだ簡単でしょう』

『……そうですよね。まあ、見つかるわけがない』


 苦虫を百匹噛みつぶしたような顔で、エーベルさんが唸る。しかし四人家族の食費十日分とは、財布によくも入ったものだ。


『一応、僕はゴルトベルクさんの財布を持っていないことを証明しておきますね』


 コートとスラックスのポケットをひっくり返し、ジャケットを脱いでエーベルさんに渡す。それをもそもそとひっくり返し、手で丹念に調べ、彼は今朝私に持たせた財布一個を見つけた。その目は、なんとも言えない哀愁で満ちている。

 私は少し思うところがあって、二人をじっと見つめていた。


 嘆き、怒り、なんとか反省を促そうとするエーベルさん。特になんとも思っていなさそうな顔で、それをじっと見つめるゴルトベルクさん。


『ゴルトベルクさん』


 あの美しい青い瞳が、こちらを向いた。


 人よりもいろんなことができるというくせに、生活のために大事なことができない彼を放っておいたら、どうなってしまうんだろう。きっと、いい結果にはならない。


 だから今、彼らにお節介を焼かなかったら、私は絶対に後悔する。

 指と指を絡めて握り、臍の上に置いて、思い切って尋ねた。


『この国には、どうしていらっしゃったんですか?』

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