静かな雨と吸血鬼

瀬戸悠生

静かな雨と吸血鬼

 高校生のふりをした吸血鬼がいる。ちょうど今僕の隣で、銀縁の眼鏡を灰色のクロスで丁寧に拭きながら、ワイヤレスヘッドホンで何かを聞いている。……あっ、今笑った。一瞬、上品な口から小さな牙がのぞいた。僕がスマホを取り落としそうになるほど体を震わせ、後ろに身を引いて吸血鬼から距離を取ろうと苦心していると、彼は均等な幅の二重にあの銀縁の眼鏡をかけた。目頭のところで綺麗に屈折した二重はとても繊細な様子で、まさかそれの持ち主が冴えない男子高校生だとは誰も予測できないであろう。正確には、「冴えない男子高校生の姿をしている吸血鬼」だが。

 僕は彼から目を移して手元のスマホを見た。ちょうど午前一時を回ったところだった。もう少しでこのカオスな状況から解放される。朝日が昇るまで、それまで耐えることができたら、僕の勝ちだ。

 ……まだこの時は、意味のわからない時間をただ過ごしているのだと思っていた。


 夕食を食べ終え、風呂からあがった僕の顔はひどいものだった。ここ最近、毎日部屋にこもりきりで療養している(療養というよりも隔離に近いものである)のだが、何も置いていない机でひたすらスマホや書物に向き合っていたものだから、元々形の良いとはいえなかった顔が目も当てられないほどにむくみ、いつ見ても眠そうだった目が完全に夜の廃人の目になった。ここ一週間ほどで視力が急激に低下してしまったかのようで、視界にはモザイクがかかってぼやけ、眼鏡なしでは一メートルより離れた距離にいる人の判別がままならない状態となった。

 そんな僕がかかったのは季節性の感染症で、この寮でかかるのは僕で三人目だ。毎年夏の終わり頃から冬にかけて、長い期間流行する普通の風邪だった。僕はルームメイトに別れを告げて、長い間空き部屋になっているところへ引っ越した。この部屋は本当に殺風景だ。あまり使われていないベッドが一つに、簡素なデスクとキャスター付きの椅子。クローゼットはもちろん空だし、棚にも何も置かれていない。あまりにも寂しいので、僕は一通りの勉強道具とスマホ、愛読書を持っていくことにした。食事は毎日ルームメイトや友人がドアの前まで運んできてくれるし、連絡をして頼めばコンビニで色々と買ってきてくれる。風呂はみんなが入り終わった後に一人で入る。いつもは共同で使っている浴場を独り占めできると思うと悪くはなかった。寮生はこの風邪の感染力が馬鹿にできないものであることを知っていたので、みんな早めに風呂に入ってくれるし、なるべく僕と会わなくてもいいようにいつもよりも早く自室に引く。僕にとってみれば有難いのだが、何日も誰とも話さない状態が続くと、「人とのコミュニケーションがうまく取れない病」が再び襲ってきそうで怖いばかりだった。とにかく、最近僕は寂しい。


 そんな退屈な日々を過ごすこと一週間半。僕が数学の問題集を一周し終える頃、彼はやってきた。風呂からあがった午後十時過ぎ、部屋に帰ったら誰かが侵入していた。真っ暗な部屋で一つしかない椅子に座り、机に突っ伏して寝ている。初めはルームメイトが遊びにきたのかと思ったけれど、よく考えて見れば、ルームメイトは他の誰よりも僕に近づくことを拒んでいたから違う……思い出したら気分が落ち込んできた。僕は警戒しながら部屋の明かりをつけた。

「……やけに明るいな……ああ、部屋の主のお出ましか。やあ」

 寝ていた人物は部屋の明かりがつくと上体を起こして辺りを見回した。着ている服は僕が通う高校のジャージそのもので、銀縁の大人っぽい眼鏡をしている。髪の毛は夜の闇に紛れ込んだような素晴らしい漆黒で、色素の薄い僕とは違って、いかにも伝統的な「日本人」といったような感じだ。さらさらの髪を七三分けにして上品な雰囲気が出ているわりに、顔立ちはパッとしない。彼はずり落ちそうな眼鏡を引き上げて僕の顔をまじまじと見つめた。

「……君は感染しているんだろ、最近流行りの風邪に。僕には君の血は頂けないかな」

 何を言っているのか理解できず、僕は固まったままでドアの近くに突っ立っていた。思わず後ずさると、肩にかけていたタオルが足の上に落ちた。彼は続けた。

「……君、タオル落ちたよ。あ、そうだ。僕の眼鏡知らないかい。銀縁の眼鏡で、この春にレンズを取り替えたんだ。あれがないと何も見えなくてね」

 何と言葉をかけたら良いのだろうか。眼鏡、すでにかけてますよ。あなたの鼻の上にのっているそれを、「眼鏡」というのです。

 とりあえず僕は、彼に名前を聞いてみることにしたのだが、部屋をきょろきょろと見渡す目の前の人にどうやって話を切り出そうか、頭を捻って考え込むのが先だった。

「……僕のことが気になるの?」

 彼は椅子に正座で反対向きに座り直すと、背もたれに顎を預けて眠そうな声で聞いた。それはそれは、気になりますとも。まず、どうやって鍵のかかっていたこの部屋の中に入ったんだよ。

「……それじゃあ、優しい僕が君のために説明してあげよう。まず……僕は吸血鬼だ。君よりずっと力が強いし、なんなら僕は拳で君の胴体を貫くことができる」

 僕は思いっきり勢いをつけてしゃがんで、頭を抱えた。駄目だ、この人。きっと僕と同じ風邪にかかって、この部屋に送り込まれたんだ。風邪のせいで熱が出て色々わからなくなっちゃったんだ。かわいそうに。

「……おい、何してるんだよ。失礼だな……僕は正気だ」

 お前の心の中なんてお見通しだ、と言わんばかりの呆れた顔で、彼はため息をついた。

「……僕は吸血鬼だから、鍵のかかった部屋の中に入るなんて、どうってことないんだ。それで……どうして君の部屋に来たのかというとね、血が吸いたいからだ」

 口が半開きになって塞がらない僕が見えていないかのように、自称「吸血鬼」は続けた。

「……さっき空を飛んでいたら、急に空腹に襲われてさ。とりあえずこの大きな建物の中に入ってみたんだ。でも、どうしたことだろう。一つの部屋に二人ずつ入っているじゃないか。僕は見ている人間がいると血を飲めないんだ、いらいらするから」

 その後の長い話をまとめると、ざっとこんなものだった。彼は探し回った結果、僕のルームメイトが一人でいる部屋を見つけた。僕が隔離されてからルームメイトが一人寂しく使っている部屋だ。試しに吸血鬼が侵入すると、ルームメイトは人間とは思えないような速度で吸血鬼の胸ぐらを掴んで、こう言ったそうだ。「おい、僕は一人になれてものすごく嬉しいんだから邪魔をするなよ。ルームメイトの奴が風邪にかかって隔離されて、僕はあのお節介から解放されたんだ。毎朝僕のことを起こしてくるんだよ、あいつ。鬱陶しくて仕方ないわ」……この量の言葉を凄まじい早口でまくしたてられたため、諦めて他の部屋を探すことにしたらしい。

「……君は嫌われているんだな。まあ、でも、僕はまた別の人を探さないといけないね。病気の人間の血は美味しくないらしいし」

 他人の人間関係に干渉した余計な一言を言いつつ、彼は眼鏡を掛け直した。ルームメイトの衝撃の本音を知って魂が抜けている僕をよそに、吸血鬼は部屋の窓を開けて外に飛び出そうとしている。

「……あ。雨降ってる……」

 腰の力が抜けて床に膝をついた僕を振り返って、彼は申し訳なさそうに続けた。

「……今晩はここに泊めてよ」


 時刻は十二時の少し前になった。吸血鬼はさっきまで机の前の椅子にいたのに、僕がベッドに腰掛けると、のこのこついてきて隣に座った。僕はすぐさまスマホを手に取り、英単語の勉強ができるアプリを開いた。話しかけんなオーラを出すのは苦手だけど、ここまで警戒されて戦闘態勢に入られたら、この人も早く出ていってくれるだろう。頼むから、何もしないでくれ。できれば話しかけないでくれ。

 残酷にもその願いが聞き届けられることはなく、彼は口を開いた。

「……ねえ、君って全然喋らないね。少しくらい口をきいてくれたっていいのに。君くらいの歳の人間はみんなお喋りで、余計なことまで話してしまうって聞いたよ」

「それは人によると思うけどね」

 彼はズササーという音がはっきり聞こえるくらい、露骨に後ろに引いてベッドから落ちた。

「……君、喋れるの」

 今あなたに少しは話せって言われたから喋ってみたんですけど。駄目でしたかね。

「吸血鬼っていうのはさ、もちろん冗談だよね」

 手元のスマホから目を離さず、隣に座り直した彼とは絶対に目を合わせないようにして聞いてみた。すると、彼はフッと鼻で笑って「……君はつくづく馬鹿だな」と言った。

「……冗談なわけないだろう。現に、僕は空腹で倒れそうだし、君が病にかかっていなければ、一滴残らず飲み干したい、ってほど血を欲しているよ。でも、飲まない。君の血を吸って病気と馬鹿がうつったら嫌だし」

 さっきから一言多いぞ、と思いながら顔色には出さない。ここで大人の対応をして、相手のペースに乗せられないようにしなければいけない。そしてこの人には早く帰ってもらおう。

「そういえばさ、血を吸われた人って吸血鬼になるの? 小説とか映画の世界では、血を吸われた人は吸血鬼になるけど」

「……ああ、君は思っていたよりずっと馬鹿だな。そんなわけないよ。そういう仕組みだったら、僕はこれまでに一体何人の吸血鬼を作ってきたことになるんだ。数えきれないよ」

 彼はため息をついて勢い良くベッドに寝っ転がった。反動で眼鏡が飛んでいく。僕は同じく眼鏡をかけているものとして顔をしかめたのだが、彼は全く気にしていない様子で天井を見つめている。

「……わかった。試してみようか、君で」

 いやいやいや、わかってない、わかってない。やめておくれ……というより、どうしてそういう話になるんだよ、今の流れで。

 震える手から落ちていったスマホが、床と激突して凄まじい音を立てた。僕は後ろの壁に背中を密着させて体育座りをし、できる限り小さくなる。頭の中では目の前の吸血鬼に対する警報が流れている。

「……君、さっきから変だよ。そんなに壁際まで引いて何をしようというんだい。もしかして壁が大好きな人なのかな。まあ、君が何に恋をしようと僕の知ったことではないけど……」

「本能が逃げろと言っていますので……! それと僕は人間の女の子が大好きですから! 壁には恋してませんから!」

「……本能は喋らないだろ。それよりさ、お腹が空いて仕方がないんだけど。やっぱり君の血を飲むよ」

 吸血鬼は僕を追い詰めるような形でこちらに迫ってきている。僕は猫に追い詰められたネズミそのものだ。命の危機に瀕したネズミはどんなことをするんだろう。目の前の宿敵に、果敢に飛びかかるのだろうか。僕にそんなことはできない。なんと言ったって、僕は人間なのだから。

「そ、そうだ! 天気予報を見よう。雨がやんだら帰るんだろ?」

 その言葉に吸血鬼がうなずいたのを見て、僕はスマホを拾い上げた。どうかすぐに雨がやむ予報であってください、と祈りながら天気予報のアプリをひらく。

 『……でしょう。また、雨は明け方まで続く予報です。雷雨となる恐れもありますので、充分に注意をしてください……』

 画面の真ん中を文字が流れていく。震える指で横にスクロールして天気のマークを見ても、朝までずっと傘マークがついている。……最悪だ! それじゃあ、こいつと朝まで一緒なのか……。

「……朝まで雨なのか。残念だね」

 また僕の心の中を読んで、吸血鬼は笑った。綺麗な唇の隙間から牙がのぞく。

「絶対に嫌だからな! 絶対に僕の血はやらない」

 僕はそう言ってベッドから彼を追いやると、掛け布団を整えて就寝準備をした。もう寝てやる。だいぶ回復したとはいえ、最近まで熱で寝込んでいたような体だ。今日はもう疲れた。

「……まあ、いいよ。でも、君が寝ている間に僕が襲わないとも限らないわけだし、僕の目の前で寝るのはおすすめしないけど。僕にはもう君しかいないんだ。手ごろに夕食を済ませられるのは君だけなんだ。もし、君が目の前で寝たら、間違いなく君の血を飲むだろうね。それも、寝ている間は無防備だから、首とか顔とか、嫌がるようなところからも吸えるんだよ」

 彼は僕を諭すようにゆっくりと言った。

 僕にはもう君しかいないんだ、なんて、そんな追い詰められた人のセリフみたいなことを言わないでくれ。もしかして、君ってストーカーの素質があるんじゃないのか。ずっと君のことを見ていたんだ、僕にはもう君しかいない、とか言って強引に攻め寄ってくるタイプなんじゃないのか。

 僕はますますこの吸血鬼のことが怖くなった。


 午前一時。吸血鬼は大人しくしている。彼がこの一時間の間に発した言葉は「夕食じゃなくて夜食になりそうだな」と「朝になって干からびていたらどうしよう」というたったの二言だった。

 押しかけてきた吸血鬼が、僕が元いた部屋に置いてあった僕のヘッドホンを勝手に取ってきて装着し、僕の目の前で僕の大好きな曲を聴いているという、このなんとも言えない状況。なんだかますます頭が痛い。

「……ねえ、蒼佑そうすけって知ってる? 僕の大切な家族なんだけど」

 スマホに全神経を集中させようと苦労していた僕の耳に、かなり真剣な彼の声が入ってきた。いつの間に外したのか、ヘッドホンは机の上に置いてある。

「蒼佑? 聞いたことないけど……? そもそも吸血鬼ってどういう存在なの? 何の説明もされてないんだけど」

「……ああ、そうか。何も話していなかったね。それじゃあ、いちから説明するとしようか」


 ……僕はもとは人間だったらしいんだ。「らしい」っていうのは、よく覚えていないからなんだけど。それから、僕の他にもまだ吸血鬼は何人もいるよ。ただ人間に気が付かれていないだけでね。……自分が人間だった頃のことはよく覚えていないけど、でも、僕には弟がいた。名前は蒼佑。弟のことは鮮明に記憶している。あいつ、僕に全然似ていなかったんだ……なんと言っても、血は繋がっていなかったから。

 蒼佑はとても明るい子だった。僕がどことなく落ち込んでいるといつもの調子でそばにやってきて、馬鹿を演じて笑わせてくれた。涙が出るほど二人で笑い転げたよ。畳の上だったかな、いつも座布団が一枚だけ置いてあった。冬の午後には、落ち着いた匂いのするその部屋で僕は蒼佑に本を読んであげた。僕たちはおとぎ話が大好きだったんだ。……それから、蒼佑が外で遊んでいるのを見るのも楽しかった。午後の柔らかい光の中で飛び跳ねてまわる様子は本当に天使のようだったよ。雪が降っても、そんなのは関係なかった。蒼佑は寒さに強くって、外套も手袋も身に付けないで雪だるまなんかを作っていた。それで完成すると僕のところへ見せに来るんだ。大抵は動かしている途中で崩れてしまうのだったなあ。兄さまも外で遊びましょう、って無理やり外に連れて行かれたこともあった。でも……僕は雪だるまを作るのが下手で……蒼佑をがっかりさせてしまってね……今でも、少し残念に思うなあ。


 彼はそこで話をやめた。床を見つめる黒い瞳が少し潤んでいるように見えて、僕は慌てて顔をそらした。急に静かになった部屋がとても広く感じた。ほんの少し前に静寂が訪れた時は心地よかったのに、今のこの空間は胸が押しつぶされそうで息がしづらい。今まで話やスマホに夢中でよく聞こえていなかったけれど、窓に打ちつける雨の音が分厚い毛布のように耳を塞いで、いっそう気分を暗くさせた。

 彼の話を聞いて僕は少し変に感じた。なんだか全体的にふわっとしていて、作り話のような気がしたからだった。でも、彼の涙を見てしまった今となっては、そうとも決めつけられないのだった。僕は静寂に耐えきれなくなって口を開いた。

「あのさ、僕、思い出した。僕の死んだおじいちゃんの話」

 反応はなかった。部屋にこもる声を聞いていると、まるで自分以外存在しないかのように感じられて、怖くなって顔を横に向けた。しかし、そこには確かに、頭を抱えて黙り込む吸血鬼がいた。

「おじいちゃんが小さい頃に一度だけしてくれた不思議な話なんだ。強烈な内容だったからよく覚えていたんだけど」

 最近は思い出す回数が減った。おじいちゃんが亡くなってからしょっちゅうこの話を思い出して、悲しくなっていたのに。お葬式で訳がわからなくて泣けなかったことも思い出した。明日からおじいちゃんはいない。おじいちゃんはもう喋らない。おじいちゃんはもう卵焼きを作ってくれない。おじいちゃんはもう何も考えられない。そのころの僕にとっては、「何も考えられない」状態が一番怖いことだった。だから、おじいちゃんの死を悲しむというよりも、おじいちゃんは何も考えなくても怖くならないのか、そればかり心配していた……まずい、思い出したら僕まで泣きそうだ。

「僕のおじいちゃんの名前は、凛介りんすけ

 僕は話し始める。意識はおじいちゃんが子どもだった頃、ちょうど戦後のあたりへと飛んでいった。




「凛介! お前また高月のお屋敷に行ったんか! あそこには行っちゃいけねえって何度言ったらわかるんだ、お前というやつは!」

「うっせえなあ! どこに遊びに行こうと俺の勝手だろ!」

 今年で十二歳になった凛介少年は、今日も母親と口喧嘩をしていた。出稼ぎで家を空けている父親に代わり、男ばかりの四人兄弟を育てる母の雪子は、繊細な名前とは似ても似つかない、腕っぷしの強い女性だった。上から三番目の凛介は兄弟の中でも特にやんちゃで、大人の言うことを聞かない。

 そんな彼が夏の間毎日のように様子を見に行っているのは、「高月のお屋敷」という村の外れにある大きな洋風の館だった。そこには不思議な家族が住んでいたとか、幽霊が住み着いているとか、庭に死体が埋まっているとか、変な噂ばかりがたつので、親は自分の子供たちに「高月のお屋敷の近くに行ってはいけない」と言い聞かせていた。多くの子どもは親に従順で、そうでなくても、高月のお屋敷は不気味な雰囲気が漂っているので誰も近づこうとしない。

 しかし、この少年だけは違った。自分から屋敷に出向いたのである。そうすると、意外と普通の人が住んでいるらしいということがわかった。凛介が見にいくと、いつも夫婦がバラの植った庭の手入れをしていて、それ以外にこれといったものは特になかった。強いて一つ気になることといえば、屋敷に近づくと首のまわりがぞわぞわして気持ち悪いことだ。高月のお屋敷が放つ独特な雰囲気のせいだ、と凛介は思った。しかし、本当になんてことはない屋敷で、村の人たちは洋風の館が珍しいというだけで悪い噂を勝手に想像しているのだ、とも思った。

 なあんだ、こんなものだったのか。高月のお屋敷なんて全く怖くないじゃないか。大人たちが怖がりすぎるんだ。

 凛介はついに飽きて、屋敷に行くのをやめた。彼が再びあの門の前に経つのは、それからかなりの月日が流れてからだった。


 冬のよく晴れた日、凛介はあの屋敷の噂を聞いた。高貴な家族が越してくる。どの大人に聞いても同じ言葉が返ってきた。……高貴なあのご家族が、また今年も高月のお屋敷にやってきた……今回はお嬢様も連れてくるらしいぞ……ああ、あの気のおかしくなりなさったお嬢様も連れてくるのか……今年の冬も、あの家族がやってくる……。

 去年まで聞こえていなかった数々の言葉が、凛介の頭の中に一気に流れ込んできた。その瞬間、彼は決心したのである。高月のお屋敷の秘密を見つけてやる、と。

 学校から全力疾走で帰宅して、汚れた学帽とぺしゃんこのカバンを投げ捨て、置いてあった赤いマフラーを引っ掴んだ。玄関を飛び出していく凛介の背中を一番上の兄の言葉が追いかける。今日、父さんが帰ってくるって。夕刻までには家に着くって言ってたぞ……。兄は、だから早く帰っておいで、と言おうとして口を閉じた。二番目の兄が、凛坊りんぼうはどうせ言ったって聞きゃあしねえ、ほっとけ、ほっとけ、と軽い調子で言ったからだった。

 凛介はそのまま、曇天になりつつある怪しい空の下をまた全力疾走していった。

 村の端までは走ってすぐなので、凛介の家から高月のお屋敷まではそう遠くない。しかし彼は、春や夏の間は駆けていって数分だった道のりを、十数分もかけて丁寧に歩いた。草履を履いた足を引きずり、半ズボンのポケットに両手を突っ込んで歩く姿は、出稼ぎへと出掛けていく時の父の様子にそっくりだった。家に帰った時に連れてきた赤いマフラーはしっかり首に巻いた。別に寒くはなかったのだが、高月のお屋敷に近づいた時の、あのなんとも言えない嫌な感じが首にこびりつくのが不快だからだった。


 凛介は一本道を歩いて、いよいよ黒塗りの金属の門の前に立った。空はますます暗くなっていき、まだ昼の三時であるとは到底思えそうにもない。雪が降りそうだった。もし降れば、今年初めての雪だ。凛介は初雪を高月のお屋敷の前で眺めるのがなんだか不吉に感じて、急に帰りたくなった。

 ギギィ

 錆びたような音を立てて門がひとりでに開いた。まるで凛介を中に誘っているかのようだった。


「凛介さまですね。主さまから伺っております」

 凛介が意を決して扉をノックしようとした時、また扉が勝手に開いて、中から黒いロングスカートをはいた女性が出てきた。その人は、夏の間に庭仕事をしていたあの夫婦のうちの一人ではなかった。日本人らしくないはっきりとした目鼻立ちの顔で、髪の毛は少し赤色がかっている。まっすぐ伸ばした光沢のある髪は胸の辺りで切り揃えられ、前髪も眉にかかったところで綺麗に整えられている。どこも欠けたところのない完璧な女性に見えたが、凛介を見てニコリともしない固まった表情は冷酷さを感じさせた。

「主さまから丁寧におもてなしをするように申しつかっております。こちらへいらっしゃいませ」

 そう言って、家の中へと入っていってしまった。凛介はポカンとした表情でしばらく突っ立っていたが、目の前で閉まっていく扉を見て、もう二度とこんなことはないだろうから、と覚悟を決めてその女性の背中を追いかけた。

 家の中はひどく綺麗で、埃ひとつと言わず、塵さえも見当たらないようだった。洋風の館らしく玄関ホールは吹き向けになっていて、左右には部屋への入り口がそれぞれ一つずつ、正面には広間へと続く廊下がある。年季の入った木で作られた重厚な空間が、怖気付いた少年の肺を潰した。凛介は息を全部吐いてしまってから、精一杯吸って、ゆっくり深呼吸をした。女性はずっと奥まで進んで、広間のわきにある扉から庭へ出た。ついて行った凜介はそこで奇妙なものを発見した。洋風の館に、瓦葺きの家がつながっていたのだ。門から覗いただけでは見えない位置に、縁側と雨戸と瓦のついた平屋が接続している。女性はどんどん奥へ進んでいってしまう。凛介は思わず止めてしまった足をまた一歩踏み出して、曇天の下を少しずつ歩いていった。

 女性は平屋の玄関前までくると足を止めて凛介を振り返った。

「わたくしはここから先へは参れません」

 あからさまに不安そうになった凛介の表情を見て、彼女は小さく微笑んだ。秋の妖精が優しく風を吹かせた時のような、静かな心地よさがあった。

「大丈夫です。こちらの館に逃げ込めば、わたくしが凛介さまをお守りしますから。……ただ、あなたがあちらにいる時は、わたくしには手出しができません。ですから……」

 身の危険を感じたらこの館に逃げ込むように、と彼女は強く言った。

「……では、トキお嬢様とうまくやってくださいね」

 凛介にその言葉は届かなかった。なぜなら、すでに彼はトキの支配下に入っていたからである。




「凛介おじいちゃんはそこでトキちゃんっていう女の子に会ったんだ。その子は凛介おじいちゃんと同い年だったけど、体が弱くて学校に行けてなくて、療養する目的でその年だけ都会から来ていたんだって」

 吸血鬼は大人しく聞いていて、先ほどからぴくりとも動かない。僕は一息置いてまた語り始める。




「あなたが凛介? うふふ、なんだかリンスみたいなおかしな名前」

 凛介が玄関に足を踏み入れると同時に、春の蕾のような声が聞こえた。すぐ目の前にぶかぶかの白いワンピースを着た少女が立っている。

「わたし、トキ。それから、こっちは弟の尊春たかはる

 少女はそう言って歯を見せて笑った。凛介もぎこちないながら笑みを返す。


 トキは実に色々なことを凛介に話して聞かせた。凛介は当初の目的であった、高月のお屋敷の秘密を見つけ出す、ということをすっかり忘れて、ひたすらトキの相手をしていた。華奢な体に鼻筋の通った顔をもつトキもまた、洋館の入り口からここまで案内してくれたあの女性のように日本人とは思えないような容姿をしているのだった。真っ白な肌に色素の薄い瞳、髪の毛は白いというより銀色に近い色で、太陽の光を反射すると、水の中を乱反射して飛び散った透明な光のかけらをまとっているかのように見えた。

「これはね、月白げっぱくの病って言うらしいよ。佑莉ゆりさんは副作用だって言っていたけれど」

 自分の髪の毛をいじりながらトキは言った。佑莉さんと言うのは、凛介を案内してくれた人のことだ。


 凛介たちは時間も忘れてカルタで遊び、畳に寝っ転がって絵本を読み合った。二人のお気に入りは眠り姫だった。仲良く並んで寝っ転がって本を読む姿は、本物の兄妹のようだった。


「……ねえ、帰らなくていいのかい。家の人が心配しているだろう」

 トキの動きが一瞬止まって、口から先ほどとは違う雰囲気の言葉が出てきた。

「……トキが目を覚さないうちに、君は家に帰るといいよ。外を見てごらんよ、もうすっかり暗くなった。向こうの洋館の方へ行けば、佑莉さんが途中まで送ってくれるよ。ほら、早く、トキが目を覚さないうちに」

 凛介は急かされて玄関で靴を履いた。なぜか、息がだんだん苦しくなっていく。息を吸うたびに酸素が少しずつ減っていって、どんどん呼吸がままならなくなっていった。

「君は……一体なんなの。誰なの」

 苦し紛れに吐いた言葉が広い空間の淵を沿って流れていく。ワンピースを着た少女は答えた。

「……今喋っている僕は、尊春。トキが作り出した彼女の弟。この体に宿った二人目の子供。この子は、トキは、吸血鬼だよ……」

 凛介はそれ以上いても立ってもいられなくて、玄関を飛び出した。洋館へ向かって走る。

「ねえ、尊春! せっかく仲良くなれそうだったのに! どうして行かせてしまうの……」

 今度は後ろからトキの声が聞こえた。

「待って! 逃げないで!」

 彼女の悲痛な叫びが聞こえる。だって、そこでは息ができないんだ。息ができなかったら、俺は死ぬんだから、逃げるのが当たり前じゃないか。……トキは? 凛介は立ち止まった。トキは体が弱い。逃げたくても逃げられないのかもしれない。ならば……。

 凛介は踵を返そうとした。

「だめ、振り向かないで! 早くこちらへ!」

 その時、洋館の広間の扉が開いて佑莉さんが顔を出した。

「トキお嬢様の言葉に耳を貸してはなりません! 早く、早くこちらへ!」

 凛介は背中に何か禍々しいものを感じて弾かれたように駆け出し、佑莉さんが伸ばした手を取った。扉が閉まる瞬間、凛介のマフラーを首に巻いた人型の黒い「何か」がこちらを睨んでいるのが見えた。

「大丈夫でしたか」

 佑莉さんは凛介の顔を覗き込んだ。

「トキお嬢様はいつもはああではないのです。ただ、ここ最近、主さまの手にも負えないほど悪化していらっしゃる。ああ、可哀想な尊春。あの子だけはいつも逃げられないのです。尊春だけは……」




「……その後、おじいちゃんは家に帰って、母さんに散々叱られたんだって。家に着いたのが夜の十時とかだったからね。でも、母さんは叱った後に力強く抱きしめてくれたって。父さんや兄さん、弟にも心配をかけて、申し訳なかったって、おじいちゃんは言ってた」

 僕は長い昔話を語り終えた。吸血鬼はまだじっとしている。

「僕が知ってる吸血鬼の話はこれだけなんだけど、もしかしたら、と思って。でも、弟の名前は蒼佑じゃなくて尊春だったかあ。違ったなあ」

「……いや、違わないよ」

 吸血鬼は口を開いた。

「……僕が尊春なんだ。蒼佑は、凛介さんがトキに出会ってしばらくしてから作られた、彼女の二人目の弟。蒼佑は凛介さんに性格がそっくりだった」

 彼はため息をつくと、ようやく僕の方を見た。

「……なあんだ、君におじいさんの話をしてやろうとして来てみたら、もう知っているじゃないか。損した。帰ろ」

 え、それってどういうことですか。お腹が空いて干からびそうだったのでは。

「……ああ、もう本当に馬鹿だな。そんなところまで遺伝するのか。凛介さんも君みたいにお人好しで、なんでも信じてしまうような人だったよ。口は悪かったけど」

 ここへ来て僕の祖父の悪口まで言い出した吸血鬼は、銀縁の眼鏡の位置を整えてから立ち上がった。

「……違うよ。僕はもう消えそうだから空腹を感じなくなってる。本体のトキが最近死んだから、僕ももうすぐ消えるんだ。ただ、最後に凛介さんの面影のある人に会いたいと思ったから、君に会いに来たんだよ」

 吸血鬼は窓の留め具を下ろして、一気に開け放った。夜の新鮮な空気が部屋を駆け巡る。

「……雨はやんだようだし、それじゃあ、帰るよ」

 窓枠に手をかけた彼を引き留めて、僕は言った。

「まだ聞いてない話がたくさんあるじゃないか。結局高月のお屋敷はなんだったんだよ。トキは、佑莉さんは、尊春は、どういう人だったの。蒼佑の話も聞いてない。謎だらけだよ」

 吸血鬼はそっと微笑んだ。夏の涼しい夜に吹いてくる心地いい風の匂いがした。

「……秘密は、秘密のままの方がいいこともあるんだ。君のおじいさんが話さなかったことは、秘密のままにしておく方がいいと思うし、面白いから、そのままにしておくよ」

 僕は黙ることしかできなかった。吸血鬼は……尊春は最後に僕の方を振り返った。

「……それじゃあ、僕は行くよ、時介じすけ。さよなら」

「さよなら」

 手を振って、彼は夜の闇に消えた。


 部屋の中はまた元の退屈な状態へと戻り、僕、時介はベッドに横たわって眠りについた。午前三時を少し過ぎた時刻だった。

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