くしゃみをしたら…

 これからする話は、丁度一年前、僕が中学二年の晩秋に起きた世にも恐ろしい出来事だ。



 その日は冬の到来を感じさせるような寒さが骨身にしみる夜だった。


 いつものように自分の部屋でベッドに横になり、スマホを持ち上げて動画を見ていた。

 動画の内容は特に重要じゃない。無数にある、なんとなく面白いかな、という程度のもの。画面をスクロールして、適当に選んで再生する。それが僕の夜の定番だ。明日の教室で友達との話題にできるような動画が一つでも見つかればいいかな、程度の感じで動画を見続けていた。


 ベッドに深く潜り込み、柔らかい毛布に包まれていると、冬を思わせる冷たい空気がほんの少し遠く感じる。しかし、暖房器具はまだ使っていなかったので、室内は冷えた空気に満たされ、毛布から出ている首や顔、手先などは知らず知らずに冷え切っていた。

 そのせいか、首から肩にかけて少し筋肉が凝り固まってきた。体をほぐそうかと頭を少し起こした時、ふと、鼻の奥がムズムズとした。寒さで乾燥した空気のせいかもしれない。そして、そのまま、何も考えずに大きなくしゃみをした。


「ハぁクぅショぉーーーン!」


 その瞬間――


「痛ぁっ!」


 激痛が首筋から肩、背中に向かって走った。


「ああぁ……っ!」


 首の付け根、ちょうど頸椎のあたりから電流が流れるようにビリビリと痛みが広がり、僕は反射的にスマホを手から落とした。体のすぐ横に落ちたスマホは、マットレスに跳ねてベッドから床へと落ちていく。


「ぐうぅ~っ……」


 痛みのせいで体が硬直しだすのがわかった。手が小刻みに震える。

 僕は小さく呻いたが、その声もかすれる。首が動かない。いや、動かそうとするとまたあのビリビリとした痛みが襲ってくる。いつもは軽く動かせるはずの首が、まるで重りを付けられたかのように動かなくなっていた。


 なんだこれ……嘘だろ……


 僕は驚きと恐怖、それに襲ってくる信じられないほどの痛みにパニックに陥りかけていた。


 くしゃみをしただけで、首にこんな激痛が走るなんて――

 そんな馬鹿な話があるわけない。夢だ幻だ、現実じゃない……


 だが、痛みは変わらずそこにあり、冷酷な現実を僕に突きつけていた。


「くぅっ……」


 僕はベッドの上で微妙に姿勢を変えようとしたが、首の痛みがそれを許さなかった。わずかに動くだけで、全身に冷や汗が噴き出すほどの痛みが首から背骨を駆け抜ける。


「うぅ……」


 どうすればいいんだ――


 体が勝手に震えているのがわかる。家族に助けを求めようと考えたが、夜も遅いし、両親は恐らくもう寝ている。呼び起こすべきか、それともこのまま耐えるべきか……。そんなことを考えている間にも、痛みが全身を支配していく。


「うっ、はっ、はぁっ――」


 再び鼻の奥がむずがゆくなり、くしゃみが出そうだ。開いた口を閉じて息を呑み、目を強くつむって、鼻をすすり上げくしゃみを止める。もしまたくしゃみをして、同じような衝撃を与えたら、今度はどうなってしまうかわからない。


「うぅっ、はぁ、はぁうぅ……」


 どうにかくしゃみを止めて、息を整えようとする。


 落ち着け、落ち着け……


 なんとか自分に言い聞かせるが、襲ってくる痛みと共に鼓動が早まり、体は痺れたように言うことを聞かなくなってくる。


「ううぅぅ……」


 どうして、こんなことに……


 自分が情けなくて仕方なかった。たかがくしゃみ一つでこんな目に遭うなんて。普段なら笑い話にできるはずのことが、今は恐怖そのものだった。


 このままじゃ埒が明かない。やはり助けを呼ぼう――


 そう考え、別室の両親に向けて大声を上げようとした。


「助けて――あっ、ぐああぁ!」


 ダメだった。声を張り上げる振動だけで、突き刺すような痛みが襲ってきた。


 どうすれば…。そうだ、スマホが――


 目だけを動かしてスマホを探す。が、ない。


 そうだ、さっきベッドから下に落ちたんだ――


 どうにか取れないかと、体を動かそうとするが、ダメだ、激痛と痺れでどうにもならない。


「はぁ、はぁ……」


 時が止まったように感じた。僕の世界はベッドの上、そして痛む首だけに狭められていた。周りの音も、部屋の空気も、すべてが遠く感じる。普段の夜がどれだけ平和で当たり前のものだったのか、今さら気づいた。日常が壊れる時は、こんなにもあっけないものなのだろうか。

 もうどれくらい経ったのだろうか。痛みのせいか寒さのせいか、身体の震えが止まらない。心の中では早く痛みが引いてくれと祈るばかりだったが、痛みは相変わらず首から全身を蝕み続けている。


「くそっ……」


 涙がポロリとこぼれた。と同時に何だか情けなさ過ぎて、笑いもこみあげてくる。たかがくしゃみ一つで、助けも呼べず、ただじっと耐えるしかない――なんて滑稽なんだ。


「ふっ、ふふふ……、うっ、つぅ――」


 笑いが漏れたが、それもすぐに痛み遮られた。


 ああ、このまま僕の世界は終わっていくのか……


 このまま、ずっとこうなのか。明日の朝には、何事もなかったかのように起きられるのだろうか。それとも、この痛みと共に過ごす未来が待っているのか。考えれば考えるほど、不安と恐怖が膨らんでいく。

 部屋がやけに寒く感じた。


 痛みに支配された僕の世界は、静かに、冷たく、そして孤独だった……




 翌朝、いつまでたっても起きてこない僕を起こしに来た母によって、無事に発見され、病院へと緊急搬送された。第六頸椎の一部を損傷していた。入院は二週間ほどだったが、三か月以上のリハビリを終えて、やっと手足を何の支障もなく動かせるようになった。

 ただ、冷えると首から左腕にかけて痺れが出ることがある。冬を間近に控えた最近では、朝晩の冷えた空気で痺れが襲ってきて、一年前の悪夢が蘇ってくる。


 悪夢――そう、あの出来事はまさに悪夢だった。だけど、実はもう一つ思い出したくもない出来事が起こっていた。あの晩は寒かった。

 そう、寒かったのだ。僕の膀胱はその寒さに耐えきれずに、朝、母が起こしに来る寸前にとうとう決壊して――

 ああ、中二にもなって布団に小便の地図を描くことになるとは。更にそれを母親に見られるなんて――

 悪夢だ。記憶から抹消したい。ああ、今思い出しても本当に恐ろしい出来事だ。

 くそ……



 皆さんも、変な姿勢でスマホを見続けて、うっかり派手なくしゃみをしないように注意してください。世の中どこに落とし穴が口を開いているかわかりませんよ。



おしまい

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