エレベーターの赤い女

「もう十時か……」

 夜、会社から帰宅し、マンションの一階でエレベーターを待っていた。待ち時間にメッセージのチェックでもしようと開いたスマホの画面で時間を確認。午後十時一分。外で晩飯を済まし、ちょっと一杯ひっかけてきたことで少し遅くなった。もっとも明日は土曜で休みなのだから問題はない。

 いくつかメッセージのチェックをしている間にドアが開き、画面を見たまま箱の中に入る。背中でドアが閉じるのを感じた時に、初めて先客がいるのに気づいた。

 赤いハイヒールの足が見えたのだ。そこで、ハッとなりスマホから顔をあげると、エレベーターの奥の隅に一人の女がうつむき立っていた。ハイヒールと同じ赤いワンピース姿のまだ若そうな女だ


「あ、すみません、降りますか?」

 上から降りてきたのだから当然一階で降りるものと思い声をかけた。だが、

「……」

 女は無言のまま小さく首を横に振る。

「そうですか……」

 俺は不審なものを感じながらも、女に背を向け自分の降りる十三階のボタンを押した。


(なんなんだ、この女……)

 肩越しからチラリと様子を探る。

 肩まで伸びた黒髪で顔が隠れ気味でよくわからないが、二十代ではないかと思う。細身で、ハイヒール込みの背の高さは百七十センチの俺とそんなに変わらない。十一月には少し寒そうな薄手のワンピース姿で、なによりもその真っ赤な色が目につく。


(赤いワンピース――、そう言えば朝、マンションのエントランスですれ違った様な……)

 記憶が蘇る。今日の朝、いつもより支度に手間取り慌て気味で部屋を出て、エレベーターで一階まで下りてエントランスを駆け抜けた時、自分と代わるようにエレベーターに向かっていた人物が確か赤い服の女だった、と思う。

 ただ、同一人物かと言われると自信はない。赤い服だけが印象に残っているだけで顔は全く覚えていなかった。


「……」

 朝すれ違ったのと同一人物なら、ここの住人の可能性が高いか?

 でも、それなら何故、一階でエレベーターを降りない?

 部屋に忘れ物をしたのに気づいて、そのまま戻るところとか?


 様々な考えが短い時間で頭によぎる。その間に微かな機械音をあげてエレベーターが上昇し始める。

 互いに無言のまま、狭い空間に重い沈黙が漂う。


(早く着かないかな……)


 なんとも居心地の悪い空気感に、ワンフロアも過ぎないうちにそう思い始めた。向こうもそう思っているかな、などと今一度女の様子を窺い見る。すると、


「……ぇ、……ぁ、……ぇ」


 女が何やらぶつぶつと呟いているようだと気づいた。口元が明らかに動いていたのだが、その声は小さすぎて、内容はわからない。


(なんだ、この女……)

 薄気味悪いものを感じて、眉をひそめる。

(ああ、もう、早く、早く……)

 いつもならスマホに目を通している僅かな間に自分のフロアに到着するのだが、今日はやけに長く感じる。

(いま何階だ?)

 階数表示のパネルを見る。四階を過ぎたところだ。

(遅い、こんなに遅かったか?)

 エレベーターのスピードなどいつも気にしたことないが、今日は妙に遅いんじゃないかと、少し苛立ちだす。その時――


「……て、……な、……え」


 女の呟きが、先程よりも大きく耳に届く。それでも内容はわからなかったが、女性のものとは思えないような低い呻くような声に、背筋がぞっとした。

「……」

 無言のまま、ゴクリと生唾を呑み、意識を背後の女性へと集中させる。なんだか、急に周囲の温度が下がったように感じ、首筋に冷気を感じた。


(なんだ…、なんなんだこの女……)

 胸の奥に不安が広がる。空気が重く感じられ、無意識のうちに呼吸が浅く、早くなってきた。


「……んて、……んな、……まえ」


 女の声が呪文のように静かな室内に響く。


「はぁ…、はぁ……」

 冷や汗が背中を伝い、手のひらがじっとりと汗ばんできた。手にしていたスマホをそっと懐にしまう。何かあった時、両手を空けておきたいという無意識の思いがそうさせた。

(くそっ、早く着いてくれ!)

 そう願うが、まだ九階だ。すると、


 ガクンっ!


 エレベーターが突然揺れた。パチパチっと照明が点滅する。


「な――!」


 驚きで心拍が大きく跳ねあがる。

 一瞬、エレベーターが停止した、ような気がしたが、すぐに上昇感を感じる。よかった、動いている、とホッと一息ついた。

 そこで、背後から異様な気配を感じて、首を捻り女を見た。


 目が合った――


「――!?」


 尋常ではない眼差しだ。どこに焦点が合っているのかわからないような目つき――それが、空間全体を見通しているようで、妙なプレッシャーを感じる。黒目がちな双眸が、すべての光を吸い込むようで不気味だ。


「……なんて、……みんな、……しまえ」


 相変わらずぶつぶつと呟き続ける唇は、着ている服と同じく真っ赤で、まるで鮮血のルージュを塗っている様だ。


「あ、あぁ……」

 言い知れぬ恐怖が腹の底から湧き上がり、喉から吐き出て、声にならない呻きとなった。


「……こなんて、……てみんな、……でしまえ」


 女の声が耳から脳へと突き刺さる。

 壁際から微動だにしていないはずなのに、女の姿が徐々に大きく見えてきて、まるで近づいてきているように錯覚する。

 重苦しい圧迫感で、女から遠ざかろうとするが、エレベーターの扉に邪魔されそれ以上下がれない。


(ダメだ、早くここから立ち去らないと――)


 女の右手がすうっと持ち上がった。こちらを捕まえるかのように伸びてくる。その手も赤い。服と同じ真っ赤な手袋をしていた。


「…とこなんて、…べてみんな、…んでしまえ」


「ひっ!」

 短い悲鳴が漏れ出る。刹那、床が再び小さく揺れ、


 ピン、ポン!


 到着を告げる小さめの電子音が室内に響いた。


「はっ!?」

 扉が開く。開いた隙間から光の速さで外に飛び出す。そして、そのまま背後を振り返らずに廊下を走った。学生時代の百メートル走の記録を破れそうな勢いで自分の部屋の前まで達し、震える手で鍵を開ける。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 ノブをまわして扉を開ける寸前に、廊下の先に見えるエレベーターへと視線を向けた。ちょうど扉が閉まるところだった。赤い女が付いて来て――はいなかったが、扉の閉まる寸前に再び視線が合った。そして、その声が、はっきりと耳に届いてきた。


「おとこなんて、すべてみんな、しんでしまえ」


 男なんて、全てみんな、死んでしまえ――


「ひいっ!」

 女の呟きの内容がわかったことで恐怖が倍増し、即座に扉を開けると、室内に飛び込み、乱暴に扉を閉じた。むろんしっかりと鍵もかける。


「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」


 心臓が痛い。


 何なんだ、あの女は――

 普通じゃない。

 異常、いや、異様だ!


 気分が悪くなってきた。頭痛もしてきた。


「落ち着け…、大丈夫だ、もう大丈夫……」

 自分に言い聞かせるために口に出して言う。

 そのおかげか、呼吸が徐々鎮まってくる。

「はあぁ~、よし、大丈夫、平気だ」

 気分が落ち着くと共に、喉がカラカラに乾いているのに気づいた。

 そこで、台所に入り、冷蔵庫から買い置きの缶ビールを一本取りだす。


 プシューッ!


 栓を開けると一勢いよく喉に流し込む。半分ほどを一息で飲み、どうにか喉の渇きは収まった。しかし、肝に刻まれた恐怖感は消え去らない。背筋を冷気が走り、体がぶるっと震えた。

 寒い。室温が、というのではなく、体の中が寒かった。

 そこで体内から温まろうと、焼酎の瓶を取り出し、コップへと注いだ。そしてそのままストレートで飲む。


 うぐ、うぐ、うぐ……


「はぁ~……」


 喉から食道、胃の中がアルコールで焼けるように温かくなる。更にもう一杯。続けてもう一杯。

 そして――そのまま酔いに任せて眠りに落ちた。




『男なんて、全てみんな、死んでしまえ!』

 赤い女が恨めし気な表情で叫ぶ。

 赤い手が伸び、こちらに向かって迫ってくる。


「うわぁっ! 来るなぁっ!!」


 叫ぶ――その自分の声で目が覚めた。


「はぁ、はぁ……」


 動悸が激しい。最悪の目覚めだ。

「くそ…、はぁ…、あの女……」

 寝起きと二日酔いではっきりしない頭に、昨夜の赤い女のことが蘇ってくる。それと同時に、あの時感じた恐怖感も腹の底から湧き上がってきた。

「ちっ、何だったんだ、あれは……」

 また気分が悪くなってきた。とりあえず冷水でも一杯飲んで、気分を落ち着かせようとキッチンに向かった時、


 ピンポーン!


 玄関の呼び鈴が鳴った。

「誰だ? 土曜の朝早くに……」

 少し訝しく思いつつインターホンに歩み寄り、来訪者を確認する。

 スーツ姿の男が二人――全く見覚えのない客だ。

「えっと、どちら様ですか?」

 思った以上にかすれた声で訊く。水を先にのんでおくべきだった。

『朝早くからすみません。――警察の者です』

 画面の向こうで警察手帳が示された。

「警察……?」

 官憲の世話になるような覚えは全くなかった。何事かと考えていると、向こうが先に答えを返してくれた。

『えー、実はこの上の階で昨夜事件がありまして、その事について少しお話を伺いたいのですが、よろしいですか、直接お話をさせてもらっても?』

 事件? 何が?

 刑事が聞き込みをしているのだからただ事ではないか。

「わかりました。少しお待ちください」

 そこで通話を切り、とりあえず水を一杯飲んでからと冷蔵庫に向かった。カラカラの喉を潤してから、玄関を開けた――



 昨夜、丁度この上の階の部屋で住人の男が殺された。時間は午後八時から十時までの間と思われるらしい。二人の刑事はその事で聞き込みに来たのだった。

 昨晩は十時過ぎに家に帰り、そのまま酒を飲んで寝てしまったので何も知らないと答えると、刑事は更にこう訊いてきた。

「実はもう一人、死んだ人がいましてね。マンション裏の駐車場で女性が亡くなっていました。赤いワンピース姿の女性でして、状況からベランダから飛び降りたものと思われます。その人が飛び降りたのが午後十時頃じゃないかと思われるのですが――その事について何かご存じのことはありませんか?」

 これを聞いた時、俺の心臓は口から飛び出してくるのではないかと思うほど跳ね上がったのは言うまでもない。


 エレベーターでの出来事をありのまま話した後、詳しい話を聞きたいということで警察署に行くこととなった。そこで、飛び降りて死んだ女が、自分の見た女と同一人物であると確認、その日はそれで帰されたが、後日もう一度事情を聴かれ、その時、事件のあらましを教えてもらった。


 簡単に言えば恋愛のもつれで女が男を殺した、と言うことだ。

 あの日、朝早くに女は男の部屋を訪ねたが、あいにく留守で、そのまま玄関前で待ち続けていたらしい。あの朝、玄関ホールですれ違ったのはやはりあの女だったのだ。

 夜八時ごろに帰宅した男と玄関前で口論。同じフロアの住人がそれを目撃。その人目を気にして男は慌てて女を自室に引き入れたそうだ。

 そして室内で事が起こった。何が起こったかは当事者が両方とも亡くなっているので分からない。だが、女が男を刺殺したことは間違いないようだ。その後、女は一旦現場を後にした。部屋を出て、エレベーターで下に降りたようだ。この辺りは血染めの手跡が残っており、間違いないということだ。俺が出会ったのはその時で、女はそのまま部屋に戻り、ベランダから身を投げたのだろう――そう警察は結論づけた。

 血染めの手跡――そう俺が見た時赤い手袋をしていたと思ったのは、鮮血で真っ赤に染まった手だったのだ。あの時、もし女が突然の目撃者を消そうと思ったら――そう考えると、今も身が震えてくる。


 何故、女はエレベーターを降りてそのまま逃げなかったのか? それはわからない。警察では俺に出会ったことで、そのまま逃げられないと思い、男と一緒に死ぬことを選んだのではないかと考えている様だ。


 ただもう一つ、気になることがあった。これは警察側も少し引っかかっているようだったが、女の飛び降りた時間だ。マンションの住人の何人かが、女性が地面に落ちた時のものと思われる音を聞いていた。みな午後十時ごろだという証言であったが、中の一人が、間違いなく十時前だと言っているらしい。テレビを見ていた時なので、確かだと。

 しかし、俺がエレベーターで会ったのは十時過ぎだ。この時間の食い違いは、どういうことなのか……。

 ちなみにマンションのエレベーターには監視カメラが設置されており、映像は記録されているのだが、その時――犯行後の女がエレベーターに乗り込んだ、まさにその時の映像が、すっぽりと抜け落ちていたそうだ。当然、俺と一緒に乗った映像も残っていない。全く不思議なことだ。


 あの時、俺が出会ったのは、果たして生きた女だったのだろうか? それとも――


 その答えは今も出ない。ただ、あの後すぐ、俺は引っ越しをした。エレベーター恐怖症になってしまい、十三階までの階段での上り下りに耐えられなくなったからだ。いま住んでいるのは三階建ての小さなマンションだ。もちろんエレベーターは付いてない。



おしまい


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