夜、寝ていたら耳がかゆくて…

 十月の中旬、東北方面に一週間の出張に行くこととなった。なるべく安い宿泊先を、と出先の人間に頼んでおいたら、アパートの一室を用意してくれた。東京ではとんと見なくなった昔ながらの二階建ての木造アパートで、築五十年以上は経っているんじゃないかと思うような外見だった。夕暮れのせいでよりすすけた感じに見え、これなら普通に安ホテルに泊まった方がよかったかと少々後悔した。もっともその安ホテルが、インバウンド需要のせいで安くなくなったためにこんなボロアパートを借りる羽目になったのだが。


 借りてくれた部屋は二階だったので、外付けの鉄製の階段を上がっていくが、長年の風雨にさらされたせいですっかり錆びついて、今にも崩れ落ちそうなほどだ。階段の一段一段を踏むたびにギシギシと音を立て、手すりも同様に錆びつき、触れるとざらついた感触が手に残った。


 二階に上がってすぐの部屋が借りた部屋で、先程事務所の方に顔を出した時に預かった鍵で、薄汚れた玄関ドアを開けて中に入る。

 玄関からすぐ床敷きの台所で、右手に小さなキッチン、左にはトイレと思われる扉があった。靴を脱ぎ中に入るが、床にはうっすらと埃がたまっていて、携帯のスリッパでも持ってくればよかったな、と後悔した。家主は綺麗好きではないようだ。自分の部屋もどちらかといえば汚部屋なのだが、さすがに金を取って人に貸す時ぐらい掃除をしろよとイラっとしながら中に進む。


 狭い台所を抜けて、曇りガラスの引き戸を開けるとそこは六畳の和室で、ここが唯一の居住スペースとなる。

 着替えなどを詰め込んだバッグを放り出し、畳の上に大の字に横たわる。今住んでいるマンションには和室がないので、畳の感触は久しぶりだ。い草のいい香りが――と期待したが、実際したのは少し酸っぱい感じのカビ臭さであった。最悪だ。


 部屋着に着替え、トイレに向かう。まさか汲み取り式ではないだろうな、と不安を覚えたがきちんと水洗のトイレであった。ただし湯舟がすぐ横にあるトイレ一体型のユニットバスと言うやつで、先程の畳以上にカビ臭い。汚れているわけではないが、経年劣化で黄ばんだり、金属部分が錆びついたりしているので、綺麗とはいいがたい。風呂も含めて落ち着ける場所ではなさそうだ。

 小便を済ませ、ついでだからと軽くシャワーで汗を落としてから、夕食にする。外に店を探すのも面倒だとここに来る途中で買ったコンビニ弁当をレンジで温める。ボロアパートではあったが、生活に必要な最低限のものは備え付けてあった。光熱費は後で精算するようで、無駄は出来ない。エアコンも設置されていたが、付けなくても問題のない気温だったので節約になった。真夏もしくは真冬なら余計な出費となっていたことだろう。


 壁の隅に立てかけてあった折り畳み式のちゃぶ台を用意して、テレビを見ながら食事をする。テレビはあったが、ネット環境は残念ながら整っていなかった。携帯の電波は届いていたので、夕食後各種メッセージのチェックとニュースや天気の確認だけはした。


 移動の疲れもあり、翌日は朝早くから現場に行かなくてはならないので、かなり早めに床に就くことにした。ベッドは残念ながらないので、昔ながらの押し入れから布団を出して、床の用意をする。かなりくたびれて中綿が固くなった布団ではあったが、さすがにちゃんと洗濯はしてあるようで、変な臭いはなく、一安心した。

 枕もそば殻の昔ながらの物で、汚れの目立たない茶色の毛布を腹にかけて横になるとなんだか昭和時代にタイムスリップしたような妙な感覚に襲われた。


 見上げる天井には、これまた昭和風の吊り下げ型の蛍光灯がぶら下がっており、長いひもが手の届く範囲まで伸びている。寝ながらオンオフできるようにとの配慮だ。ひもを引いて灯りを消すと、丸い蛍光灯が微かに白く輝いている。管内の蛍光塗料が発光しているのだろう。


 蛍光灯なんて、いつぶりだ、見るのは……


 などと考えながら目を閉じると、すぐに睡魔に襲われ、程なく眠りに落ちた……



 それからどれくらい時間が経ったのか、耳が急にこそばゆくなり、目が覚めた。まだ部屋は暗く、左腕のスマートウォッチで確認すると午前三時三十六分だった。真夜中だ。


「耳が……」

 右の耳の穴の奥に強いかゆみを感じ、横になったまま小指を耳の穴へと突っ込んだ。その時――


 ガサガサ……


 耳の中、鼓膜に直接響くように奇妙な音が聴こえた。


「えっ、何だ!?」

 思った直後、耳の穴に突き入れていた小指の先に何か動くものが触れた。


「ひっ!」

 驚き、反射的に右手を耳から離した。瞬間、耳の穴から何かが這い出てくるような感触。


「うわっ、なに、なんだ――」

 慌てて身を起こし、右手で再び耳を触れる。


 さわさわっ……


 手のひらに蠢く何かが触れた。


「うわうわうわっ!」

 それを握り取ると、正体を見ることなく遠くへと投げ捨てた。


「はぁはぁ…、虫か……?」

 手のひらに残る感触から、虫ではないかと想像したが、はっきりしたことはわからない。暗闇に目を凝らし、投げ捨てた方向を見つめていると、


 カサ、カサカサカサ……


 何モノかが蠢く音が――


「虫か、やっぱり!」

 その時顔のすぐ前に天井の灯りのひもが垂れているのに気づき、急いでそれを引く。


 カチッ!


 蛍光灯のスイッチの音――しかし灯りは点かない。


 カチッ!


 もう一度引く――暗いままだ。


「どうして…?」

 天井を見上げ、ひもを連続して引く。


 カチカチカチッ!


 しかし全く反応はない。


「停電? いや――」

 カーテンの隙間から、僅かに街灯の明かりが漏れている。それにテレビの主電源が入っていることを知らせる赤いランプは、しっかりと輝いていた。

「くそ、蛍光灯が切れたのか? でも二本とも同時には――」

 天井からぶら下がった電灯は、丸い蛍光管が上下に二つあるタイプだ。例え片方が切れても、もう一方が点くはずで、両方と点かないとなると機器そのものの故障としか思えない。


 カサ、カサカサカサ……


 何モノかの這いまわる音は依然と続いている。

 どうする? 何か明かりが――

「そうか、スマホ!」

 寝る時に枕元に置いておいた。目を凝らしてそのシルエットを確認、手を伸ばす。


 ぞわっぞわっ!


 伸ばした左手のひらに綿毛に触れたような感触を覚え、慌てて手を引く。

「何だ!?」


 ガザゴソガサゴソッ……


 スマホの辺りで影が動く。何か、そこにいた!


「え、なに、なんだ、え、え、え――」


 驚きと疑問の声をあげている間に、蠢く音がさざ波のように広がっていく。


 カサ、カサカサカサ……

 ガザゴソガサゴソッ……

 ササッ、サササササササ……


 部屋中、三百六十度、全方位から何かが蠢く音と気配が伝わってきた。


「う、うう…、なんだ、なんだ、え、え、えっ――うっ!」

 うろたえ、首を左右に忙しく動かして周囲を見回していると、突然鼻の奥の方がこそばゆくなった。と同時に頭蓋に響くようにして音が届く。


 カサカサッ……


「バカなっ――」


 右手を鼻にあてる。その手のひらに右に鼻の穴から何かが這い出て降りてきた。

 手のひらからくすぐったいような感覚が伝わってくる。何かが這っている。


「うわぁっ!」

 とてもそれを見る勇気はなく、手を払うようにしてそれを放り投げた。


 なんだ、何がどうなっている? 何がいる? 何だ、どういうことだ――


 パニック状態に陥っていた。まともな思考が出来ない。腹の底から恐怖感が湧き上がる。いや――


「ぐふっ、うがっ――」


 腹の底から上がってくるのは恐怖感だけではなかった。何かが胃から食道を這い上ってきていた。


「うっ、まさか――、ぐふっ、ぐえぇぇぇっ!」


 上がってきたモノが、喉を抜けて口腔内へとやって来る。

 我慢できない嘔吐感と言い知れぬ恐怖が襲ってきて、体をくの字に折ると、寸前まで寝ていた布団に向けて吐き出した。酸っぱい胃液と共に何かが吐き出される。

 暗闇の中、カーテンの隙間から洩れる街灯の微かな灯りに照らされて白い綿毛のようなモノがいくつも見えた。それらがもぞもぞと蠢いている。


 虫か――? いや、わからない。暗くて姿がはっきりしない。手足があるのか、頭がどうなっているのかまるでわからなかった。ただ、間違いなくそれらは生きていた。


「ぐえぇぇ! うあぁ……、はぁはぁ、なんなんだ、これは――」


 体が震えてきた。

 ダメだ、このままここにいては――

 そう思うのだが、腰が抜けたようになって動けない。両手を布団について前傾姿勢に座ったまま立つことができなかった。

 そのうちに、


 ガサガサ、ガサガサガサ……


 周囲の気配が自分に向かって狭まってくる。


 ダメだ、ダメだ、ダメだ――

 動け動け動け――


 心の中で叫ぶが、それに反するように体はより震えが増し、まともに反応しない。


「あ、ああっ、ああああ……」

 両の手から何かが這い上がってくる。


 サワサワサワ……


 両手がそいつらに覆われ、手首から前腕、二の腕へと集団が皮膚を覆い尽くしながら登って来る。


「ああ、やめてくれ、もう――」


 足からも無数の奴らに這い上がってくる。スエットの裾の隙間から中に入り込み、素肌を直に登って来る。ふくらはぎから太腿へ、更に腰から上へ――全身が覆われる、謎の生物に!


「あ、ああ、うああぁぁ――」


 口が塞がれ、鼻が、耳が、そして目が――


「くふっ……――」


 息が出来なくなり、そして、何もわからくなった……




 ピピ、ピピ、ピピ……


「……う、うぅぅ」

 アラームの音が聴こえた。それに合わせて左手首のスマートウォッチが振動している。

「あ、朝か……」

 目を開く。無意識にスマートウォッチに手を伸ばし、音と振動を止める。

「……あれ、ここは?」

 見知らぬ場所。自分の部屋じゃ――


「あっ!」


 蘇る記憶――


「虫!」


 体を起こし周囲を見回す。カーテンから洩れる朝日で照らされた室内に、あの謎の生物の姿は一片もない。


 あれは夢……


「いや、違う、現実だ!」


 布団の上に残る嘔吐の後。その中に埃の様な白い毛がいくつもこびりついている。あいつの残した体毛…

「ああ、ダメだ、ここにいちゃ――」

 どこに奴らが隠れているかわからない。荷物を急いでまとめると、その部屋を後にした。



 その後、近くの安ホテルを改めて用意してもらい、一週間過ごした。あの虫――いや、虫だったかどうかわからないが、あいつらが何だったのか、未だにわからない。出張の間は、夜眠るとまたあいつらが来るのではないかと何度も目を覚ましてしまい、体調が芳しくなかったが、その後は何の異変も起きなかった。

 東京に帰ってくると、夜の恐怖もなくなり、今までと変わらぬ日々を送っている。ただ、部屋の隅に固まる埃を見るとビックとしてしまう。なので部屋は汚さず、常に掃除するようになった。



おしまい


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