ムーン07 五百円のコミュニケート

 宇佐見美波、悪の科学者にして偽りの月女王にも表向きの立場がある。

 5月初旬に転校生として現れた彼女は学生としての生活も無難にこなし、時には父の会社に技術提供を行い株価を持ち上げながらも世に埋没していた。裏では世界を混乱に導き、新たな秩序を構築させる扇動者としての顔を隠しながら。

 表と裏、どちらを重視し、自身の主たる人生として受け止めているかは本人にしか分からない。

 ただひとつ確かなのは。

 学校と言う社会の縮図は意外と狭く、ちょっとしたことで他者と縁を結びやすい環境に身を置いていることだ。


******


 広井御斗みなとは全体的に線が細く、どこか斜に構えて見える少年である。

 同じ時に生まれた双子の姉に愛想を全部吸い取られた、とは数少ない友人の言。指摘された当人も左程間違った評価ではないと感じているので似てない双子、気風の良い姉と愛想の無い弟との見方は正しいものだろう。

 ただしその友人はこうも補足した。弟も付き合ってみれば意外といい奴だと。御斗は言葉の意味を図りかねている。


 放課後は運動部各位から助っ人を頼まれる姉と異なり御斗は帰宅部だ。なるべく人の集まりに加わるのを避けるためだが、早く帰宅すれば好きに夕食の準備ができるからという理由もある。父親は忙しく自然と姉弟が家事担当になった広井家、そそっかしい姉にはあまり料理の才能がなかった。

 自分が率先して作るほうがまし──これが講じて料理は彼の趣味のひとつとなった。部活に料理部でもあれば彼の活動範囲ももう少し広く、帰宅部でもなく。

 奇妙な出会いは避けられたかもしれない。

 そんな御斗がさて今日は何を作るかなどと考える帰り道。


「うわああぁぁぁぁん!」


 彼は音を拾った。

 大通りから外れた脇道、ちょっと気をつけないと見過ごすような狭い道の奥からその泣き声は聴こえた。

 声の主は音から察して子供、女、本気で泣いている。

 今からでも聴こえなかったことにしたい。彼は正義感の塊ではなく、これから夕食の買い物に出向く身。音を聴くからに面倒事厄介事の予感しかしないからだ。

 早々に立ち去りたい、しかし万が一にも正義感の塊たる姉に知られるとその方が面倒になる。


「ちッ」


 御斗は踵を返して脇道に入る。夕刻にも薄暗い道を進んで数分、泣き声の主に突き当たった。

 そこには地面にしゃがみこみ、ただただ泣いている女の子の姿。見たところ年齢は小学校低学年前後、痛ければ泣き、怒れば泣き、悲しければ泣く、感情表現が制御できない年頃だ。

 他人の接近に気付いたのか、泣き声を収めて少女は御斗を見上げる。僅かな沈黙が狭い路地に満ちる。

 こういう時、姉なら上手い言葉をかけられるんだろうが──


「どうした、何があった」

「う」

「痛かったり怖かったりじゃなさそうだが、迷子にでもなったか?」

「うう」


 声の性質が再び号泣に近付いている、御斗はそう判断して少し距離を離してしゃがむ。目線を子供に合わせる、相手を怖がらせない基本だ。

 そうして質問の後は口を閉ざす。追い込むように問いかけても子供は泣くばかりで物事は前進しないのだ。やがて多少落ち着きかけた子供は、


「ごひゃくえん」

「なに?」

「ごひゃくえん、ころがって、おちたの! びえええええええ!!」


 一度収まった癇癪が再び鎌首をもたげたか、幼女は溝を指差しながら大泣きを再開させた。騒音と化した子供にそれ以上の聞き取りは無理だろうが事情は凡その見当はついた。

 幼女の示した先には白く濁った水の溜まった溝がある。洗剤と汚水の匂いが混ざったそれは生活排水が流れ込む下水の通り道か何かだろう。

 ここに幼女のお小遣い、五百円玉が落ちた。拾おうにも子供に溝は深く、汚れた水で五百円は見つからない。それで泣いていたというわけか。

 そこまで事情を汲んだ上で、御斗には幼女を助ける義務はない。名も知らぬ子供が自らの不注意でお小遣いを失くしただけの話。

 だが。

 子供の泣き声は、彼にとっては耳障りなのだ。


「しょーがねーな」


 斜に構えた細身の少年はポケットをまさぐる。そこにあるのは小銭入れ、これで静かになれば安いものと彼は一枚の銀貨を取り出そうとして


「ちょっと待ったー!」


 静かな空間に闖入者が現れた。少女も御斗も共に驚くが、御斗が声をかけた時と異なり不思議と少女の恐怖を煽ることはなかった。

 不意に登場したのは彼の見知った人物だ。個人的な面識はない、しかし用事があって姉のクラスに出向いた時に何度か見かけた同級生。今時目を引く長髪を背中に流して転校生。

 確か名前は──


「やあ少女、君が五百円を落としたのはこの溝かな?」

「う、うん」

「ならばよし、正直者にはお金をお返しするのが泉の女神」


 闖入者はトンチキなことを言うが早いか制服の袖をまくり、その手を生活排水に汚れた透明度ゼロの溝に突っ込んだ。

 何をするのか、と止める暇もない。呆気に取られた二人を尻目に彼女は腕で溝をザブザブと攪拌する。


「わははは、わははは……はい、あった!」


 じゃぽんと引き抜かれた右手、あらかじめ用意していたペットボトルのお茶で洗い流せばあら不思議、手のひらの上には五百円玉が!

 ぽかんと口を開けたままの少女に銀色のメダルが差し出され、


「水じゃないのは勘弁してね。今度は失くさないように」

「う、うん」


 差し出されたお金を少女はおそるおそる受け取る。何度か指で突き、撫でつけ、大事そうにポケットに収めた。そのままペコリと頭を下げ、泣き虫少女は路地裏から光差す大通りの方へと走って消えた。


「これにて一件落着、一同立ちませい」

「しゃがみはしたが座ってねーぞ」


 時代劇のお白洲を思わせる締めの言葉に思わず突っ込みを入れる。取り残されたのは部外者二人、既に集う理由を失くして立ち尽くす二人だ。

 騒音の元は去り、彼の憂いは断たれた。そのまま踵を返してもいいのだが、


「それより手を洗い足りねえだろ、これでちゃんと洗っとけ。こっちはちゃんとミネラルウォーターだ」

「ありがたく」


 持っていたペットボトルを提供する。多少飲み差しだが溝の汚水よりは綺麗なものだ、彼女も気にせずチロチロと腕の汚れを落としてる。

 僅かばかりの沈黙、先に口を開くのは御斗の方だった。


「にしてもあんたも無茶するな。目当てが見つかるかも分かんねえ溝に手を突っ込むなんて。うちの姉貴でもそこまで猪突じゃねえぞ」

「結果は最良で被害ゼロ、見事な判断でしょ?」

「いやあんたの手、無茶苦茶被害受けてんだろ。かぶれるかもしんねえぞ」

「あっはっは、わたしの手は既に汚れてるから今更今更」


 どういう意味で言ってるのか、慣用句に従えば悪事に手を染めていると自白しているような内容だが御斗には図りかねた。あんな馬鹿げた善性を示した相手にその表現はあまりにも似つかわしくない。

 彼が反応に困ったのを知ってか知らずか、今度は少女が話し出す。何故あのような無茶をしたかの回答を。


「あの場であの子に五百円を与えるのもひとつの解法。でもそれだと勿体無くて口と手を出しました」

「五百円がか?」

「失敗から学ぶ機会が」


 彼女が返したのは御斗にとって思わぬ言葉だ。


「失くしたお金を誰かから代わりに貰った、これだとあの子はラッキー!としか思わないでしょ?」

「……まあ、そうだな」

「それだと次からは気をつけよう、お金はもっと大事にしなきゃって学びは得られない。誰かが泥まみれになって取り戻してくれた方が子供には教訓になるかなって」


 一理ある、のだろうか。

 御斗は単純に少女の泣く理由を失くそうとした。落としたお金と同額の保証があれば泣き止むだろうと。しかし目の前の変わり者は今泣き止ませ、さらには次に泣くことが無いよう防止の意識まで植え付けようとした。

 その試みが上手く言ったかを確認する術はないが──


「それじゃわたしは失礼するわね。反物屋で生地を買わないと」

「あ、ああ」


 終始呆気に取られ、相手のペースで会話が進んだ一連のイベント。御斗が果たしたのは主人公の役割ではなく事件の目撃者に過ぎなかった。

 しかし彼の中に悔しさはない、代わりにあったのは拍手でも送ってやりたい不思議な心持ちだ。彼と異なる解決を示し、誰に言われるまでもなくリスクを承知で最後までやり遂げたことへの称賛。

 そこまでを考えて、御斗はようやく喉につっかえた転校生の名前を思い出す。


「宇佐見美波、だったか。変な女だな」


******


「ごめーん、ちょっと遅れちゃった」

「宇佐見の方が遅いとは珍しいこともあるもんだ」

「うん、寄り道をしたから」

「寄り道?」

「手洗いと買い物」

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