8月27日:名前で呼んで

 空は見事なまでに青く美しく、おそらく凄まじい熱射が降り注いでいるのだろうがクーラーという文明の利器に体を預けている今の私たちには無縁だった。

 ハッと目を向けるとマンガの並ぶ棚に手が伸びていたので、迅速に叩き落とす。


「部長、勉強に集中ですよ」

「えへへ、すまんすまん」


 図書館での勉強もなかなか捗ったが、今日は私の家で勉強することになった。

 ただ、あまり一緒に勉強するという風習を積み重ねてこなかったせいもあってか、部長はそこまで身が入っているような気がしなかった。


 やっぱりマンガやらゲームやら誘惑だらけの部屋で勉強するものじゃないか。

 今さらのようになって後悔する。図書館がどれだけ快適か思い知った。


「美紅さん、そろそろ休憩にしないか?」

「私は一向に構わないですけどね」


 渾身のにっこり顔を見せた。ここで許可が下りたと判断はしなかったようだ。

 誰が何のための、どのような目標を掲げて勉強しているのかを思い出したようで、自分を戒めるように部長は乾いた笑いを一つこぼしてノートにボールペンを立てた。


 心を鬼にして、とは違う。私としては、部長の思い描く理想が、それを否定したりしないということだ。

 私に追いつくとか、私と同じ大学に行くとか、はっきりいって本音は嬉しいもののそれが本当の意味で部長の理想であるかどうかは曖昧に思っている。


 でも、こうして本人がやる気を出して勉強に励む以上、私も手は抜かない。

 だって今までもそうだったのだから。


「いつも部長は焦りすぎなんですよ。思い立ったが吉日とかよく言ったものですが、別に私は駆け足で逃げていったりしませんし」

「今、美紅さんの背中しか見えてない状態なんだけどね」


 悪く言えば堪え性がないとでも言うべきなのだろうか。

 部長は直情的に行動し、それをそのまま実現してしまうという体育会系だ。

 傍から見れば我儘な子供そのものだけど、実際に形を作れてしまう点が違う。


 そうやって色々なことを成し遂げてきたのだから、猪突猛進とも言い換えられる。勉強においてはそうもいかない。多くは行動だけでどうにかできるかもしれないが、足りていないものを補えないのならその限りではない。


 部長はロリだし、可愛いし、頭いいし、計画を練ることに関しては天才的な上に、頼れる人間を作ることにかけては右に出る者もいない。だからなんでもできた。

 勉強だって頑張ればどうにかなるんだ。ただ、届くかどうかは別な話。


 太郎君は時速十キロで一時間歩きました。次郎君は遅れて出発して、時速十キロで歩きました。太郎君に追いつくまで何時間掛かりますか。

 そのくらいの簡単な計算でしかない。得意と苦手のハンディキャップを埋めるには時間という単純明快な問題だけが大きな壁となる。


 部長は地頭がいいからやろうと思えばできるが、それを埋めきる時間が足りない。そうなると残された道筋は、ひたすらに無茶して詰め込むくらいだろう。

 はたして、部長は今までそんな埋め合わせをしてきたといえるのだろうか。


 文芸部を充実化させるために動き、さらにはバイトも忙しかったろう。

 その全てを使い切って苦手を克服する時間に充てられていたら余裕すらあった。

 現実はそうじゃなかった。夏休みから本気を出したのではちょっぴり遅いくらい。


 あとは、根性論の世界。脇道逸れずにまっしぐら。

 理屈上はそうなるが、部長の性格上、それができるかどうかは実に怪しい。


 十分なエンジンが積んであって、燃料も満タンだが、目的地までの距離は遠くて、そして時間も足りない。言ってみれば、そんな状況なのだ。

 ずっとアクセルを全開に吹かしっぱなしで止まらず走り続けられるだろうか。


 あるいは。


 部長が本当にソレを理想として臨み、追い求めているというなら不可能ではない。だけど、その目的地とは他ならない私なのだから、やはり無理がある。

 それって私からしてみたら、月の果てまで飛んでいくロケットに乗っていたのに、いきなりロケットから飛び降りて地上にUターンするようなものだ。


「ねえ、美紅さん」

「なんですか、部長」


 いつものような問いかけ。いつものような顔。文芸部部室にいるときと変わらない当たり前だった空気感。あまりにも自然で、変わることのないと思っていた空気。


「もうすぐ、夏休みも終わっちゃうんだよね」

「……そうですね」


 不意な言葉に、言葉が濁りそうになったが、何度も覚悟した気持ちだ。

 動じないような声色、表情を意識して、吐息のように私は答えた。


「そうしたら部活も終わっちゃう。美紅さんはどうするつもりでいるんだい」

「どうするって、どういう意味ですか? 受験勉強に専念するとかですか?」


 曖昧な言葉で、その返答はどうしたらいいのかも分からない。

 一体部長は何が言いたいのだろう。


「違うよ。いつまでかな、って思っただけ」

「……? 部長が何を言ってるのか分からないんですけど」

「ふふ……、それだよ。いつになったら部長呼びをやめてくれるかなって思ってね」


 ハッとしてしまう。別に考えたことがなかったわけじゃない。

 夏を超えたら部活は終わりで、後のことは全部後輩ちゃんたちにバトンタッチ。

 そうなれば私も部長も文芸部から離れていくことになる。

 なら、部長はいつまで部長といえるのだろうか。実にシンプルな話である。


「別に、いいんじゃないですか? 部長は部長で」

「それは困るなぁ。卒業しても部長なんて呼ばれたくないよ」


 にまにまとしたロリ顔で言われる。なんだろうね、このいやらしい顔は。

 はたして、何と呼ぶのが正しいのだろう。部長はなんて呼んでほしいんだろう。

 雪村さんか、ゆかりさんか。私にとって、どちらも似つかわしくない気がする。


「美紅さんとは対等の立場でいたいんだ。だからいつまでも部長だなんて他人行儀に呼ばれたくはないよ。ね? だからさ、夏が終わったらどう呼んでくれる?」


 いつかくるとは思ってはいたものの、部長から言われる日が来るとは。


「ええと……あの、なんて呼んだらいいですか?」

「そんなの、美紅さんが決めちゃってよ」


 一番困ってしまう回答だ。

 私は部長が良いと思ったらそれで良いのに。


「ぇ、ぁ……、ゆかり、さん?」

「ふふ。少し、追いついた気がするよ」

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