8月24日:パンディンガ

 ガラス窓を雨粒がパシパシと叩き続ける。台風が近付いて空が荒れているからだ。

 静かなはずの室内なのに、どうしてかそんな音が耳に入ってきてしまう。


 このけたたましさは雨風のせいだけなのだろうか。荒れているのは空だけなのか。胸の中で激しく動いているソレは一体何という感情になるのだろう。


 昨日商店街で部長と知らない誰かが会話しているあの光景を見てからというもの、心のざわつきが収まらない。


 莉子ちゃんも、ひまわりちゃんも、はっきりとした答えは出してはくれなかった。


 私と同じ三年生の、葉月圭斗けいと。クラスは違うし、本当に知らない。

 ただ、夏休み前での情報では学年で二番目の成績らしい。人気の男子生徒。

 そんな人が部長とどんな関係があるというのか。


 クラスメイトではないことは分かっている。兄妹とか親戚とかでもない。

 同じ学校に通っている同じ三年生という共通点を持っているというだけだ。

 むしろ、接点はそれだけで十分なのかもしれない。


 私は別に、誰かが私の与り知らぬところで何をしていたっていいと思っていた。

 そんなことにまで口を挟むような権限などないのだから。

 だとしたら、今、私の胸の内に渦巻くものは一体なんなのだろう。


 色、形、味のいずれを比喩的に形容したとしても禍々しさを拭えないに違いない。きっと決して人の前に曝け出すことも憚られるような得体の知れない代物だ。


 部長に聞けたら答えは直ぐに出るはずだろう。

 スマートフォンのメッセージアプリを開いて「昨日部長は誰といましたか」って。

 そうしたら疑問の一つがたちまち解消されることは間違いない。


 だけど、その答えは私の望んでいるものである可能性はどのくらいなのだろう。


 開けてみなければ分からないシュレーディンガーの猫。

 開けてしまえばあらゆる厄災が降り注ぐパンドラの箱。

 さしずめ、パンディンガの猫か。中身を確定させることこそが恐怖なのだ。


 たまたま通り道で会っただけ。

 そんな答えを望んだとして、真実は果たしてそうなるのだろうか。


 あのとき、部長は、どんな顔をしていた? どれくらい話し込んでいた?


 思い返すだけで胸がキュゥと苦しくなるのは何故なのか。

 私はそこにどんな感情を抱いているというのか。


 聞く機会、確認する機会はいくらでもあったし、今もこのタイミングにもある。

 だけどやっぱり、パンディンガの猫を前にして私の心は硬直する。


 窓の外がうるさい。雨が激しくなってきた。

 昼を回ろうとしているのに夜のように薄暗く、どんよりとしている。


 部長のことを――雪村ゆかりという人間を思い返す。


 四六時中常に傍にいるわけではない。

 ただ、子供っぽい見た目をして考え方も子供っぽいことは誰もが知っている。

 わがままなところも多くて、自分の思うとおりにしたがる。

 だから私はそんな部長の横にいて、観劇するような気持ちを抱いていた。


 本棚しか残ってないスカスカな図書館準備室が新しい文芸部の部室となったとき、自分の持っているマンガや私のマンガをかき集めて自分の空間にした。

 なけなしの部費に自分のバイト代まで注ぎ込んで快適な部屋へと作り替えた。


 私には、おこぼれのようなものだったのかもしれない。

 部長の理想の中に、私が借り住まいしているかのような、そんな高校生活だった。


 あまり他人に対して強く出ていけない陰キャな私にはただただ部長が眩しくって、でもそんな部長の灯りの中にいたくて、そうやって過ごしてきていた。


 二人だけの部室も少しずつ大きくなっていて、備品も増やしたし、後輩もできた。部長がどんなものを望んでいるのかをずっと横で見てきた。


 じゃあ。


 葉月圭斗も、部長が望んでいたのだろうか。

 二人並んで歩いて、楽しそうに笑いあって、目と鼻の先の私に気付かなくて。

 あれがもし本当に部長が望んでいたことだとしたら、私はどうしたらいいのか。


 あの二人の関係はいつから紡がれたものなのだろう。

 本当に、あの日、ぱったりとたまたま出会っただけなのか。

 それとも、本当はもっと前から接触していて、私が知らなかっただけなのか。


 ねえ、いいの?


 このままだとパンディンガの猫が近付いてくるよ。私はその先を望んでいいの?

 知ったらどうなるか分からない。知ってしまったらもう引き返すことはできない。


 あのあどけない部長が、自分の知らない顔を持っているかもしれないってことを、私自身が追及するなんて。そんな権限ないって自分が一番分かっているくせに。


 部長が望むのなら、部長が望んだことならそれでいいってずっと過ごしてきたのに今になって手のひらを返すのは私自身のエゴイズムが強すぎるんじゃないのか。


 ただ今までずっと、これまでずっと部長に依存してきて、部長の望むままの場所に自ら身を置いてきた立場こそが高慢だったといえるのかもしれない。

 だって、私は部長のためにどれだけのことしてきて、できたというのか。


 横に立っていただけの添え物じゃないか。そう思うとまた辛く思えてきた。


 少し先の未来、私は文芸部を離れることになる。

 もう少し先の未来、この学校を卒業して部長とも離れることになる。

 そこからまた先の未来、私は今とは全く違う世界で生きていかなければならない。


 早いか、遅いか。その程度の話でしかないはずなんだ。

 だとしたら、部長のことで今、私がどうこう言うのは間違っている。

 そうじゃないだろうか。


 答えを知っても真実は変わらない。真実は私にとって都合がよいとは限らない。

 なら、パンディンガの猫からは離れるべきだ。

 これまでもずっと都合の良いように生きてきたのだから。


 私が望むことは、部長が望みどおりに生きていくこと。

 それはつまり、部長が私の思うとおりになってほしいというわけじゃない。


 はたして、部長と葉月の関係はどんなもので、どの程度なのか。

 顔を知ってる程度なのか、友人関係なのか、はたまたそれ以上か。

 そんなことを私が考え、悩む必要など一切ない。触れる意味すらない。


 だから、心の中で渦巻く感情はしまっておくべきだ。

 誰にも曝すことのできないソレは飲み込んでしまうしかない。

 私の本心など他人には関係のないことで、私のエゴイズムなど醜いものだから。


 今、私が望むことは、この台風が早く去ってほしいということだけだ。

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