第26話 勇気はポケットの中に

 七月十九日。

 あの七夕から二週間ほど経った週末の金曜日。

 海斗にとってこの高校で最後となる夏休み前の登校は、いつも以上に激しい非難の視線が向けられる中でのものとなった。

 すっかり梅雨も明けて、二年一組の教室も蒸し暑さを感じてしまう。

 クラスメイトたちは夏休みが始まる喜びに興奮しているようだが、登校中に見かけた生徒と同じく、時々海斗と目が合うと蔑みの視線を向けてきた。

 きっとクルミの言葉など忘れてしまったのだろう。何も考えずに日々を過ごしてきたことが伺える。

 やっと今日で終わりかと海斗はため息を吐きながら教室を見渡した。

 ふいに陽奈や凛たち三人の姿が目に入り、ついじっと見てしまう。

 すると女子三人は怯えた様子で顔を見合わせ、海斗を気にしながらヒソヒソと話し出した。


「ね、ねえ。こっち見てるよ。アレはマズかったんじゃない?」

「別に今更でしょ? あんなの気にするだけ無駄よ」


 聞こえないと思っているのか、それとも聞こえてもいいと思っているのか。女子三人は好き勝手に海斗のことを言い合っている。

 この様子を見るに、どうやら生徒たちの非難の視線は彼女たちが新たなウワサを広めたからのようだ。……まあ、それも予想通りだが。

 海斗は思わず睨むように彼女たちを見てしまい、すぐに自制して顔を背けると机に肘をついた。

 すると、凛が言いにくそうに声を掛ける。


「……ねえ、陽奈ちゃん。やっぱりアレはダメなんじゃ──」

「え? 凛、今なんか言った?」


 そう言う陽奈の声はどこか刺々しい。凛は怖気づいたのか、すぐに口を閉じてしまった。


「……う、ううん。なんでもないよ」


 止まった会話は、少し間を開けて凛を置き去りにしたまま楽しげに二人のやり取りが再開する。

 結局のところ、彼らはどこまでも自分本位なのだろう。陰口を言える相手がいれば、なんだってよかったのかもしれない。

 要は自分が楽しければいい、というやつだ。

 そうではない者がいるのは知っている。だが、そういう人も周りに影響されると、なし崩し的に陰口を言うようになってしまうことがあるのだろう。

 もしかすると、自分にもそういう面はあるのかもしれない。

 そこまで考えて、海斗は首を横に振る。

 ないとは言い切れないが、あまり気にしすぎても仕方ない。それより今は目の前のことに集中するべきだ。

 しばらくして、担任の先生が教室に入ってきた。

 クラスメイトは一斉に口を閉じ、海斗も姿勢を整えて正面を向く。


「はい。じゃあ、今日は夏休み前最後の登校日です。半日だけとなりますので、忘れ物には気をつけて──」


 朗々と話す先生の声に耳を傾けて、海斗は逸る心を抑えながら今か今かと時間が経つのを待った。

 恐れと不安、そして緊張。

 静かな興奮と歓喜が、心臓の鼓動を打ち鳴らす。

 そして何度目かのチャイムが鳴ると、海斗たちは整列して体育館へと歩き出した。




 それから始まった終業式も順調に進み、気づけばもう終盤だ。

 とうとう先生たちの協力の元で、クルミたちと立てた仕返し計画が始まる。

 最後に校長先生が舞台に上がり、厳かな声で話し出した。


「えー……実は、今日の終業式はこれで終わりではありません」


 ざわ、と体育館が生徒の声で騒がしくなる。男女様々な不満の声も聞こえる中、校長先生は引き締めた表情で続けた。


「二、三ヶ月前のことなのですが、とある生徒が足を怪我したおばあさんを交番まで背負ってくれたそうです。その生徒宛に、警察の方から感謝状が届いています」


 とはいえ、校長先生の真剣さに対して、生徒たちは興味なさげに近くの人と談笑している。真面目に話を聞いている者など、ごく一部だ。

 海斗のクラスメイトたちも例に漏れず、周りに座る友達の肩を叩いているのが見えた。

 だが、その余裕も束の間。


「──山崎海斗!」


 校長先生が生徒の名前を告げた途端、体育館中が静まり返った。


「すぐに壇上まで取りに来てください」

「……はい!」


 一瞬だけ息を止め、それから海斗はクルミを真似るように力強い返事をする。

 さあ、仕返しの時だ、と震える拳を握り締めて、武者震いだと言い聞かせる。

 数秒前よりも一層やかましく脈動している心臓の鼓動を感じながら、立ち上がった。

 海斗が舞台に近づくにつれて、生徒たちの動揺は広がっていく。

 混乱の声。半信半疑の視線。

 ずっと変わらなかった──変えなかった状況が、今度はたしかに変わろうとしている。

 今度こそ変えてみせるのだと、そう強く強く自分に言い聞かせる。

 クルミの力を借りるだけではない。

 自分自身の言葉で語るべき時が、ようやく来たのだから。

 海斗は一段、また一段と階段を上がり、舞台に立った。集まる生徒の視線はまだ冷ややかで、意外そうな感情しか読み取れない。

 そんな彼らから顔を逸らして海斗が演台で校長先生と向き合うと、校長先生は感謝状を差し出しながら眉を歪めて語りかけてくる。


「……山崎くん。キミには本当に申し訳ないことをしましたね」

「いえ、あれは俺が決めたことですから。それに先生方には充分お世話になりました。──だから、もういいんです。ここで仕返しも恨みも、全部済ませますから」


 そう決意した上で、ここに立っているのだ。

 海斗の本気を察したのだろう。

 校長先生は「そうですか」と呟いて小さく頷いた。


「……分かりました。どうぞ、ここからはお好きにしてください」


 そう言って壇上を降りていく校長先生と壇上に残った海斗の姿に、ようやく何かが起こっていると理解したのだろう。

 生徒たちが騒ぎ出して、ざわめきが広がる。


「ありがとうございます」


 海斗は頭を下げてお礼を言ってから、校長先生のいた向かい側に回り込んだ。

 そして顔を上げて、体育館をぐるりと見渡す。

 生徒たちは自然に口を閉じて、汗が滴り落ちそうな暑さの中、扇風機の回る音だけが聞こえてくる。

 何気なくマイクの角度を調節すると、その手はやっぱり震えたまま。


(……ああ、怖いな)


 こうして舞台に立って、改めて思う。

 でも、逃げ出したくない。立ち向かいたい。

 立ち向かって、真実を彼らに突きつけてやりたい。

 それが、山崎海斗にできる仕返しなのだ。


 だから──


 海斗はせめて手の震えを少しでも抑えようと、演台の影でズボンをくしゃっと握り込んだ。

 するとポケットの布越しに、クルミからもらったカード入れの感触が伝わってくる。


「…………」


 そういえば、お守り代わりに持ってきたのだった。

 ふと思い出して、ポケットの辺りを見下ろしながら、今では奇妙な関係性となっている彼女のことを考えた。

 きっとクルミのことだ。今も海斗のことを信じてくれているのだろう。実際、朝も応援のメッセージが届いていた。


 ──じゃあ、クルミの期待に応えないとな。


 そう思うと、今にも擦り切れそうだった勇気が幾らでも湧いてくるような気がした。それが気のせいであったことは、深呼吸をしようと息を吸った瞬間に理解できた。

 それでも、海斗は真っ直ぐに正面を向く。

 そして、今。何も知らないままの彼らと対峙した。

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