第21話 お向かいさんとの買い物
勉強会が終わった夕方。
「それで、海斗くん。そっちは晩ご飯何にするの?」
お互い一人暮らしということもあり、一緒に買い物行くことになった海斗とクルミは、それぞれの家から持ってきた手提げバッグを腕に通して歩いていた。
「んー……どうしようかな。なんにも考えてないけど……あ、カレーでいいや」
ちょうどカレー屋の旗が見えて、海斗は即決する。
その視線の先に気づいたクルミは、ふふっと笑ってその旗を指差した。
「海斗くん、あれ見て決めたでしょ?」
「今日頭使って疲れたからな。考えるの面倒臭いんだよ」
「ふーん。じゃあ、あたしもそーしよっかなぁ」
後ろ手を組みながらクルミが言い、ふと海斗は思い出す。
「あ、クルミも一人暮らしなんだっけ。あんまり想像できないな。料理とか失敗してそう。あとつまみ食い大量にするとか」
「酷っ! たしかに得意じゃないけど、失敗したことはないよ⁉︎」
「じゃあ、つまみ食いは?」
「…………」
海斗が問うと、不満げに抗議していたクルミはプイッと顔を背けた。……やっているらしい。
「で、でも作ってるのはあたしだし、食べるのもあたしだよ? 別にいいじゃん」
「いや、別に否定はしてないぞ? まあ、つまみ食いしすぎて立ち食いみたいになってたらどうかと思うけど」
「うっ……」
何気ない冗談のつもりだったのだが、どうやらただの事実のようだ。クリーンヒットしてしまったらしく、クルミはバツが悪そうにしている。
「……え、マジで? クルミ、さすがに立ち食いはどうかど思うぞ?」
「しょ、しょうがないじゃん! 作ってたらお腹減ってくるし、目の前に美味しい料理があるんだよ? そんな状況で、このあたしがつまみ食いしないと思う?」
「あー。まあ、たしかに」
クルミからそれを聞くと納得しかない。だって──
「クルミ、食いしん坊だもんな」
「言わないでー! あたしも否定できなくなっちゃうから!」
「まだ否定する気なんだ……」
クルミは耳を塞いでイヤイヤと頭を振る。
海斗が呆れていると、そうこうするうちにスーパーに着いたようだ。入り口で二人分のカゴを取り、クルミに手渡した。
「ま、いいや。ほら、さっさと買って帰ろう」
「そーだね!」
クルミは恥ずかしさを誤魔化すように叫びながら受け取る。普段からよく作る料理を質問しながら、海斗は次々に食材をカゴに入れていった。
途中でお菓子を大量に買おうとするアホ一人には苦労したが、なんとか説得してレジまで辿り着く。
クルミが先にレジを終わらせるように促し、海斗はポケットから財布を出した。
「海斗くん、あたし荷物詰めたら外で待ってるね?」
「ああ。りょーかい」
人混みを見てクルミが言い、海斗も頷きを返す。
やがて荷物を詰め終えたクルミは少し離れた場所から海斗に手を振り、ひと足早くスーパーの出口から出ていった。
海斗もクルミに遅れること、わずか三分。
荷物を詰め終えて、すぐに外の駐車場に出たのだが──
「……あれっ?」
なぜか、クルミの姿が見当たらない。
たった数分しか離れていなかったのに、その間に何があったのか。
海斗はいちおう携帯電話にメッセージがないかも確認してみるが、さすがにこの数分だけでは来ていないようだ。
「クルミのやつ、どこいったんだ? 連絡も入ってないし、まさか迷子になったんじゃ……って、それはないか」
首を横に振りつつ、心配になった海斗は駐車場を歩き回って探し始める。
すると西口にある自転車置き場から、クルミと同級生ぐらいの女子の話し声が聞こえてきた。その声を聞くに、凛という名前のクラスメイトだろう。
「……あの、あなたって、さっき一緒にいた男の子と仲良いんですか?」
「……ん、まあ、そうだけど……なんで?」
凛はおそるおそるといった様子で確認し、クルミはいつもより固い声音で警戒を露わにして問う。
すると、凛はまるで勇気を振り絞るかのように言った。
「……やめた方が、いいと思います」
「…………やめるって、何を?」
彼女の曖昧な言葉だけで察しがついたのだろう。
クルミの声音は、どこか罪を追求するかのような険しさだった。
だが、凛はクルミの様子に気づくことなく、なおも言葉を続ける。
「あなたは他の高校の人みたいなので知らないでしょうけど、あの人は私たちの高校では悪い意味で有名なんです」
彼女の中では、これは正義の行いなのだろう。
その恐怖に染まった声と自分の正しさを疑わない彼女の盲目な言葉に、海斗の歩み寄る足が止まった。
物陰に潜み、息を殺し、ただ俯く。
山崎海斗にできるのは、ずっとそれだけしかなかったから。
彼女の言う悪い意味など、海斗はとっくに知っている。
でも、だからなんだ。何も見えていない癖に、どうしてクルミにまで声を掛けるんだ。迷惑を掛けるんだ。
頼むからやめてくれ。頼むからどこかに消えてくれ。
そう祈るほどに、願うほどに、海斗の心臓が痛いほど強く脈を打つ。
目の前の誰かに斬りつけられたような、深く鋭い痛みが襲ってくる。
これはただの幻痛にすぎない。
彼らは何も知らない。だから、仕方ない。
そう理解はしていても、自分自身に幾ら言い聞かせようとも、海斗の心は傷ついていく。
でも、その時だった。
「──ねえ。だから何? あなたは、彼の何を知ってて、そう言ってるの?」
クルミの澄み切った声が響く。
暗くなった視界を眩く照らし出すような、そんな優しい声が。
「……え、それは……」
クルミに言い返されたのが予想外だったのか。
凛は、戸惑った様子で言葉を詰まらせた。
畳み掛けるように、さらにクルミは問いを投げかける。
「直接彼に聞いてみたことは? 会話をしたことは?」
「……ありません。でも──」
「ないんだ。ないのに、そうやって人の悪口を言うんだね」
根拠の薄い自信を持って言葉を続けようとした彼女の声を遮り、クルミは酷く軽蔑した眼差しで彼女を睨みつける。
その憎むような視線に凛も動揺して、怯えたように肩を震わせた。
しかし、それでもまだ納得がいかないのだろう。なんとかクルミを説得しようと薄っぺらい言い訳を重ねる。
「でも、あの人には悪いウワサがあって」
「だから何? それはホントに正しいの? ちゃんと調べたの?」
クルミは怒っていた。
激怒していた。
でも、理性的に、必死に、訴えている。
無知であり続ける彼女に、伝えようとしてくれている。
クルミは、言葉を続けた。
「あたしは、ちゃんと話してるよ。まず彼を見て、彼を知って、そのうえで彼を信じたの。だから、あたしは彼と一緒にいるの」
「…………」
「ちゃんと考えてよ。彼を、彼自身を、ちゃんと見てあげてよ」
もう、日が落ちていく。
アスファルトの地面に暗い影が落ち、沈黙が広がる。
「あたしが言いたいのは、それだけ」
凛にそう告げたクルミは、足音を立てて海斗の元に近づいてくる。
そんなクルミの言葉は、ずっと海斗が言いたかった言葉だった。……いや、本当は、海斗が自分で言わなくてはならない言葉だった。
たぶん、もっと早くに。
でも、海斗は怖かったのだ。だから口をつぐんで耳を塞ぎ、見ないフリを続けてきた。
それを、きっとクルミは知っている。
怖がっていることも、言いたいことが言えないままでいることも。
だから、代わりに言ってくれたのだと思う。
その事実は、なんて嬉しくて……なんて、悔しいのだろう。
海斗のそばに、クルミが戻ってくる。
どうしてか後ろめたくて、海斗は逃げるようにその場から離れて、入り口近くのベンチに座った。
「……どうしたの、海斗くん?」
その眼差しからは、心配ばかりが見えている。
海斗は思わずたじろいで、あっちこっちに視線を彷徨わせて、せめてお礼だけでも言おうと口を開けた。
「……いや、なんでもない」
だが、実際に出てきたのは、なんとも情けない、幼子よりも拙い嘘だった。
なのにクルミは慈しむような眼差しで微笑んで、その温かい手のひらを海斗に伸ばす。
「そっか。……じゃあ、そろそろ帰る?」
「……ああ」
頷き、二人で自らの家へと歩き出した。
この時ばかりは、クルミも揶揄ってはこなかった。
でも、どんな顔をしているのか。何を思っているのか。それを確かめるような勇気はなかった。
それでも、もう二度とこんな思いはしなくない。
そう強く思って、つうと海斗の頬に涙の雫が伝う。
クルミには見えているはず。気づいているはず。
なのに、何も言わない。
ただ、海斗の隣で手を繋いで、一緒にいてくれている。
だから、流す涙は悔しさから覚悟へと変わっていく。
そう。今になって、ようやく海斗は決心したのだ。
クルミに促されて仕返しをするのではなく、自分自身の意思で、言葉で、彼らにやり返すことを。
そして、もう涙は流すまいと頭上を見上げた。
暗い雲が立ち込める、夕闇の空を。
その視界の端っこで、遠い山の向こうで、いまだオレンジ色に輝く夕焼けが、灰色の雲を照らしていた。
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