第17話 おばあさんの恩返し

 あの黒猫騒動から一時間。

 午前八時半にはもみじカフェのバイトが始まり、日曜日ということもあってか、前日に増して大盛況となっていた。

 海斗も必死になって接客をこなし、お客さんの勢いが落ち着いた頃には、昨日と同じく十一時半過ぎだ。

 店内のお客さんがようやくいなくなり、クルミと澪は額の汗を拭う仕草をする。


「ふう、やっと終わりましたね……」

「だねー。でも、あたし昨日より疲れてないよー」

「あ、たしかに私もです」


 海斗も頭上に腕を伸ばしながら呟いた。


「そういや、俺もだな。──っと、お客さんか」


 こっちは昨日と同じだなと思いつつ、海斗は入り口へと接客に向かう。

 カランカランと軽やかな音が店内に響き、おばあさんとおじいさんが雑談しながら続々と入ってきた。


「そうよ! それがもう……」

「ほー!まさにあれだな、地獄に仏ってやつだろう?」


 と、興奮して話す二人。なんだか話が盛り上がっているようだ。


「いらっしゃいませ!」


 海斗がその会話を遮ることに罪悪感を覚えながら声を掛けると、ピタリと会話が止まってしまう。

 それからまじまじと海斗の顔を見つめられて困惑していると、おじいさんが海斗に指を差してきた。


「おい、ばあさん。この子があれか? お前が怪我して、交番までおんぶしてもらったっていう……」

「合っとるけど、あんた指差したらいかんよ」

「おっと、こりゃすまんな」


 おじいさんが頭をかきながら謝罪してくる。

 どうやら今日は夫婦でもみじカフェに来店してくれたようだ。


「いえいえ。ひとまず、席にご案内いたしますので」


 海斗は笑顔でそう促して、窓際の席に案内する。

 コップとおしぼりを持っていって注文を聞き、そのまま一旦下がろうとした。


「ああ、ちょいと聞いていいかね?」


 ふと思い出したように、おばあさんが問いかけてくる。

 海斗は振り返って返事した。


「はい。どうしました?」

「前に助けてもらった時。あん時さ、制服着とったでしょう? ちゃんと学校は間に合ったかね? あたしゃ心配でしょうがなくて、夜しか寝れんじゃったよ」


 あっはっは、とおばあさんが豪快に笑い、海斗は苦笑する。

 しっかり寝れてるじゃん、と言いたいところなのだが、おばあさんたちにとってはけっこう大事な話らしく。


「そりゃお前、昼間に寝にゃあ体力が持たんわ!」


 と、おじいさんも冗談混じりに笑った。


「あ、そうなんですね……まあ、遅刻はどうにかなったので大丈夫ですよ」

「ほー、そりゃよかった」


 海斗は答えてから、このままだと帰るのが遅れそうだと隣のテーブルで片付けをしていたクルミと目を合わせて、厨房に戻ることにした。


「にしても、アレだね。あたしゃ、なんにもお礼ができんで警察の方から感謝状でも送ってもらえんもんかね」

「おお、そらいいわな」


 そう楽しげに話す二人。その会話を聞きながら一礼し、クルミと一緒に厨房に引き返そうとして、ふと海斗は呟きをこぼした。


「……感謝状、か」


 それを聞いていたクルミも続けて言う。


「……それがあったら、海斗くんのウワサも変わるのかな」

「──あっ」


 どこか寂しそうな、悔しそうな声音。

 だが、その言葉に海斗は思わず目を見開いて立ち止まった。

 クルミも不思議そうに足を止めて振り返ってくる。


「……海斗くん? どうかした?」

「それだ! それだよ、クルミ!」


 つい叫ぶ海斗に、クルミはきょとんと小首を傾げて戸惑いを見せた。


「へっ? 何が?」


 おばあさんたちも突然の声に驚いたのか、会話をやめて無言になってしまう。だがクルミも海斗の言葉の意味に気づいてくれたようで、口元に手を当てて「あっ!」と小さく叫んだ。


「そっか! 感謝状があれば、海斗くんのウワサが嘘だっていう証拠になるじゃん!」

「ああ! しかも、全校集会なんかで受け取れば、生徒全員に事実が広まるぞ!」


 そうしてクルミと二人で盛り上がっていると、まだおばあさんたちの前だったことを思い出す。見ると、おばあさんたちに怪訝そうな顔で見られていて、海斗とクルミはハッと我に返って頭を下げた。


「……あ、すみません。大騒ぎしてしまって」

「……ごめんなさい」


 謝罪の言葉を口にすると、おばあさんは心配そうに言う。


「そりゃあたしらも騒いでたし、気にしないけどね。……海斗くん、ウワサってなんだか聞いてもいいかい?」

「あー……」


 どうしようかと海斗が迷っていると、クルミと目が合った。

 真剣な表情で頷きを返されて、クルミがそう思ってるなら、と海斗は思い切っておばあさんたちに自分の事情を打ち明ける決意をする。


「……分かりました。あんまりいい話じゃないんですが──」


 こうして海斗の身に起こった出来事とウワサのことを話し始める。

 その間、おばあさんたちは眉にシワを寄せながらも海斗の話を静かに聞いていてくれた。

 海斗が話し終わると、おばあさんは深いため息をつく。


「……そうかい。そりゃ悪いことしたね、海斗くん」


 申し訳なさそうに言われ、海斗は「いえ、全然」と首を横に振った。


「人を助けられたことは自分でも誇りに思ってますし、今はこうして理解してくれている友達もいます。だから、大丈夫ですよ」


 そう言って隣に立つクルミを見ると、力強い頷きが返ってくる。

 二人で顔を見合わせてニッと笑い、クルミは悪戯っぽい口調で言った。


「そうそう! それに海斗くんと仕返しも考えてるんだよ!」

「おや、そうなのかい?」


 おばあさんたちが驚いたように目を丸くする。


「うんっ! ──でもね? たぶん、あたしだけじゃ海斗くんの真実ってのは伝わらないと思う」

「だから感謝状を送って欲しいってわけだね」


 クルミの真剣な声に、おばあさんたちも真剣な言葉と視線を返してくれる。

 海斗も真っ直ぐに見つめ返して頷いた。


「はい。それがあれば、きっと客観的な視点で真実がハッキリ伝わると思うんです。だから──」


 協力してもらえませんか。そう言い切る前に、おばあさんが口を開いた。


「いいよ。あたしゃ、あんたに助けてもらったんだからね」

「……ありがとうございます。ご迷惑おかけしてすみません」


 海斗が頭を下げると、おばあさんはふるふると首を横に振る。


「そりゃこっちのセリフだよ。今まで知らんくってすまなかったね」

「……いえ、気にしてません。悪いのはウワサに惑わされてるやつらですから」


 でしょう? と笑いかけると、おばあさんたちはようやく愉快そうに笑い出した。




 その場の事態が収まると、正午から午後一時までは休憩時間ということもあって、亜紀の奢りでおばあさんたちと昼食を取ることになった。

 クルミが音頭を取り、コップを高く掲げる。


「かんぱーい!」

『かんぱーい!』


 こうして賑やかな談笑が始まると、ふいにおじいさんが何気なく問いかけてきた。


「ところで、海斗くんとクルミちゃんはあれか。らぶらぶなのか?」

「え……いや、別に付き合ってませんよ」

「そーだよー! 交際ゼロ日だもん!」


 はしゃぐクルミが否定するが、雰囲気に酔っているのか言っている言葉はめちゃくちゃだ。

 海斗は内心の動揺を隠すと、呆れながら言う。


「おい。そりゃ意味が違うだろ」

「ありゃ? そーだっけ? でも、どうする?」


 と、クルミは海斗の目をじっと見つめ、悪戯っぽく続けた。


「ホントにこのまま付き合っちゃう?」

「な……」


 思わず固まる海斗。それをニマニマと笑って見つめてくるクルミ。


(落ち着け。こいつ、絶対俺を揶揄って遊んでるだろ)


 そう気づいて、海斗はニヤリと笑った。


「……じゃあ、そうするか?」

「えっ」


 と、今度はクルミが固まった。

 海斗はふっと笑い、肩をすくめる。


「ま、さすがに冗談だけどな。これに懲りたら──」


「それだよ、海斗くん! あたしたち、付き合おう⁉︎」

「はっ?」


 冗談を本気で返されて混乱する海斗。

 そして元気に歓声を上げるおばあさんたち。

 何がなんだか分からないでいる海斗をよそに、もみじカフェの店内の空気は最高潮になっていく。

 クルミも興奮した様子で瞳を輝かせて言った。


「ほら、付き合ってるフリでいいから!」

「いやいや……ん? フリ?」


 海斗は思わず首を傾げる。


「そ! だって、そしたら海斗くんの学校の人たちが嫉妬しそうじゃん! あたし、その顔見たいもん! ね、いいでしょ?」

「おまっ、本気かよ? って、もう聞いてないし」


 お願いをしておきながら、クルミはおばあさんたちの拍手の音に釣られて盛り上がっている。あっという間に意気投合したクルミを見て、海斗は思わず腹を抱えて笑い出した。

 やがて笑い疲れて息切れしながら、また微笑みを浮かべた。


「……ホント、無茶苦茶するなぁ」


 呟くと、海斗の頬に冷たいコップが当てられる。

 振り向いてみると、そこには呆れ顔をした亜紀が笑みを浮かべて立っていた。


「モテモテだねえ、海斗くん」

「そりゃクルミに言ってくださいよ。俺なんか、今回なんにもしてないですし」


 海斗はコップを受け取って肩をすくめると、亜紀が自分のコップの中身をひと口だけ飲んだ。海斗も照れ隠しにアイスカフェオレを半分ほど一気飲みする。


「そうかい? そんなことはないと思うけどね? だって、キミがあのおばあさんを助けたのがキッカケなんだろう?」

「ま、そうですけどね。でも、そうした理由はくだらないものですよ」


 本当に、くだらない理由なのだ。

 そう自嘲する海斗に、ふっと亜紀は微笑みを浮かべた。


「別にいいさ。それに助けられた人がいるんだから」

「……まあ、それもそうか」


 目を見開いてから、ぱちぱちと瞬きして海斗もまた笑った。

 それにしても、世の中ってのは何が起こるか分からないもんだと思う。

 酷いことがあったと思っても、時間が経って考え直してみると幸運だったと言えるようになるのだから。

 もしもあの日、おばあさんを助けてなかったら。

 クルミと出会ってなかったら。

 そういうことを想像していると、ますますこの人たちと出会えてよかったと心の底から思えた。

 我ながら珍しくそんなことを考えていたせいだろうか。

 亜紀が嬉しそうに声を掛けてきた。


「……海斗くん」

「なんです?」


 振り向くと、亜紀はただひと言。


「……よかったね」


 と、そう言ってくれた。

 海斗は噛み締めるようにはしゃぐクルミたちを眺めて、深く頷く。


「……はい。ホントに」


 なんだか涙がこぼれそうになり、堪えていると亜紀が「なんだい、泣いてるのかい?」と揶揄ってきた。

 クルミからも怪訝そうな顔で見られていることに気づいて、海斗は慌てて「泣いてませんよ!」と誤魔化すように叫ぶのだった。

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