第5話 お向かいさんの提案

「──そっか。だから亜紀さんが猫を飼うって聞いて、止めてたんだね」


 クルミは語り終えてから無言になった澪を見つめ、心配そうに話しかけた。

 澪がその声に顔を上げて、不安そうな表情で頷く。


「……そうです。お姉ちゃんなら大丈夫って思いたいんですけど……」

「……どうしても不安なんだな」


 海斗が言葉を続けると、澪も「はい……」と声を縮こませた。

 そのまま俯いてしまう澪だが、海斗はさらに疑問を投げかける。


「でも、そんな状況で猫を飼いたいなんて言うもんか? 俺にはちょっと考えにくいけどな」

「あ、たしかに。意外と聞いてみたら大したことないかもよ?」


 クルミも納得したように言い、澪に笑いかけた。

 しかし、それでも澪の表情は晴れることなく、静かに首を横に振る。


「いえ、その……それは私も考えなかったわけじゃないんです。でも、やっぱり心配で……」

「あ、そりゃそーだよね……」


 クルミも声のトーンを落とし、海斗は小さく顎を引いた。

 そういう時は悪い想像ばかり浮かんでしまうもの。おそらくだが『借金』という重い言葉が出てきたのが、澪に大きな影響を与えているのだろう。


「お陰で何度か授業中に寝てしまって、散々ですよ」


 あはは……と、澪は気を紛らわすように笑った。


「まあ、とりあえず何かアルバイトでも始めるのが、私にとっての精一杯ですかね。もし勘違いでも、別に損するわけじゃないですし」

「アルバイトかー。あたし、まだやったことないなぁ。海斗くんは?」

「俺もないな。まあ、いつかやろうと思って調べたことはあるけど」


 振り向いてきたクルミに言うと、クルミと澪が意外そうに目をぱちくりと瞬かせた。


「えっ、そうなんですか?」

「へー。あたしも知らなかったー」

「いや、クルミが知ってたら怖えーよ!」


 反射的にツッコミを入れながら、海斗は眉を少し歪める。


「ていうか、なんだよ。俺がバイトやろうとしてたのがそんなに変か?」

「だって海斗さん、今は一人暮らしですよね? それでバイトもって、相当大変なんじゃ……」


 うんうん、とクルミも澪の言葉に頷いている。


「そうだけど、一人暮らしだからこそやらないと、と思ってな。使えるお金とかも限りがあるし、最初の頃は色々慣れてからやってみようと思って探してたんだよ」

「じゃあ、どうしてやらなかったの?」

「んー……まあ、やらなくても困らなかったってのが一つ。あとは俺の地元が田舎すぎて、そのお店のことをまったく知らなかったってのが一つ、かな。要するに不安だったんだよ」


 特に行く機会もなかったしな、と海斗が苦笑を浮かべると、澪はそっと手を挙げた。


「あ、それ、私も思ってました」

「澪ちゃんも?」

「はい。私はここが地元なんですけど、それでもいったことないお店ってけっこう多いんですよね。だから、ちょっと足踏みしてるんです」

「ふーん……」


 クルミは海斗と澪の言葉に思うことがあったのか、それから少しの間考え込む。そして、突然パッと勢いよく顔を上げ、


「あ、そーだ! いいこと思いついた!」


 と、叫びながらニイッと悪戯っぽい笑顔を見せた。

 何かまた面倒なことを言い出すんじゃないか、という嫌な予感がして眉をひそめながら、海斗は言葉の続きを促す。


「今度はなんだ? まさかとは思うけど……」

「うんっ! ここにいるみんなで、おんなじバイトをすればいいんだよ!」


 そう言って、クルミは満面の笑みを浮かべて海斗を巻き込んできた。

 海斗は思わず息をつき、額に手を当てる。


「あのなぁ。三人も同時に雇ってくれるとこなんて、たぶんほとんどないぞ?」

「じゃあ、頑張って探さないとね!」


 クルミはグッと拳を握った。

 まったく呑気なものだ、と海斗はつい呆れてしまう。


「つーか、そもそも行ったことないから不安って話はどこ行ったよ」

「友達がいたら平気だよ、たぶん!」


 その根拠のない自信が一体どこから来るのか、クルミの元気は衰えを知らない。

 とはいえ、いつかやろうと思っていたことも事実で、いい機会と言えばその通りだ。その通りなのだが……。


「うーん……でも、俺は別に一緒じゃなくてもいいだろ? 人数的な問題はもちろんだけど、明確に行く理由があるのは澪さんだしな。だったら異性はいない方が気が楽だろ」

「いえ、私はむしろ嬉しいですよ」


 どうやら当の澪は気にしないらしい。

 海斗なりに気を遣った発言だったのだが、クルミがすっかり不満そうな顔になってしまった。


「海斗くん? あたし、海斗くんと一緒にやりたいから言ってたんだけど。もちろん澪ちゃんのためでもあるけど……でも、あたしはキミとバイトがしたいの」


 真っ直ぐな瞳、真っ直ぐな言葉。

 聞いていても恥ずかしくなってくる発言なのに、クルミの表情は真剣そのものだ。

 海斗は驚いて二度瞬きをすると、思わず顔を逸らして口元を手で覆う。

 笑みがこぼれそうになるのを堪えながら返事した。


「そ、そうか……。そりゃ悪かったな」

「あ、照れてる」


 すかさずクルミが揶揄ってくる。


「うっせ! わざわざ指摘すんな!」


 海斗が照れ隠ししていると、澪は「あのー……」と呆れたように言った。


「私のこと、忘れてません?」

「あっ」


 海斗とクルミはハッと我に返り、澪を見た。


「というか、お二人ってホントにほぼ初対面なんですよね? どこからどう見ても付き合いたてのカップルにしか──」

「違います」


 呆れ果てた様子で問いかけてくる澪に対し、海斗は食い気味で即答した。

 しかし、即答されたのが嫌だったのか。クルミはどこか不満そうにむっと唇を尖らせている。


「そんなに勢いよく答えなくてもいいのに……まあ、違うけど」

「いや、俺にどうしろと?」


 海斗が愚痴ると、クルミはぷいっと顔を背けて拗ねたような声音で言った。


「べーつにー? どうもしないよ? でも、そこまで即答されるのは……ねえ?」


 と、同意を求めるように澪を見た。

 しかし、澪はあからさまな愛想笑いをするだけ。

 海斗も呆れながらクルミに返す。


「面倒臭せえな、おい」

「あ、酷ーい! あたしだって傷つくんだよ?」

「はいはい」


 適当にクルミをあしらうと、ようやく話が本題に戻った。


「それで? 海斗くんはバイト、やってくれるの? やってくれるよね?」

「急かすな急かすな。圧が強い。……んー、まあ、別に二人がいいなら俺としても言うことはないけど──」

「ホント⁉︎」


 言い切る前にクルミがずいっと前のめりになり、海斗はその勢いに若干押されながら答える。


「お、おう。ホントホント。……澪さんはどう? 言い始めた本人がまた置いてかれてる気がするけど」

「ですよね? 私もそう思ってましたよ」


 と、苦笑しながら澪が言う。

 ここぞとばかりにクルミが揶揄う声を上げた。


「澪ちゃん、存在感薄ーい!」

「そこまでじゃないですから! クルミちゃんが強すぎるだけですよ!」


 澪が抗議し、それには海斗も加勢する。


「だな。クルミはもっと抑えてくれ」

「そんなに⁉︎ っていうか、強すぎるって何⁉︎ あたしなんか嫌なんだけど!」

「まあ、それは……どうしようもないよな? クルミが揶揄ったのが原因だし」

「うぐっ」


 きちんと心当たりがあるようで何よりだ。

 そうして言い合う海斗とクルミを見ていた澪は、クスッと口元を手で抑えて笑う。

 その笑い声と楽しげな表情に、海斗とクルミは会話をやめて澪を見た。


「じゃあとにかく、まずはバイトの候補決めからですね」

「あ! ってことは……!」 


 クルミは気づいて明るい声を上げ、澪が頷きを返す。


「はい。二人と一緒なら楽しそうですし、お願いします」

「ああ、よろしく」

「うんっ! よろしくー!」


 海斗もクルミと澪に笑顔を返した。






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