第4話 苦労人な妹が怒ったわけ

「澪ちゃん、出てきてくれるかな?」


 窓から薄暗い光が漏れる階段を上がりながら、クルミが振り返って問いかけてきた。


「さあな、どうだろ」


 海斗はそう言って肩をすくめ、クルミのあとに続く。

 とはいえ、正直あの様子だと難しいのではないだろうか。もしかすると、このまましばらくは放っておくのも手かもしれない。

 そう思考するうちに丸いネームプレートが掛かった部屋を見つけて、そこにある『ミオ』というカタカナ文字を読んだクルミが扉を軽くノックした。どうやらここが澪の部屋らしい。


「澪ちゃん、遊びに来たよー」

「…………」


 しんとした静寂と沈黙が広がり、クルミが困ったように眉尻を下げて視線を向けてくる。

 海斗は無言で首を横に振り、やめておいた方がいいと伝えるようにクルミと顔を見合わせた。一旦帰ろうかと思っていると。

 ガチャリ、とドアノブが回り──


「…………」


 気まずそうな顔をした澪が、姿を現した。

 海斗とクルミに目を合わせることなく、顔を伏せたまま、何か言おうと口を開けては閉じてを繰り返す。

 どう言ったらいいのか、分からないのだろう。

 かくいう海斗も対人経験が少なく、どうしても声の掛け方に戸惑ってしまう。

 そんな部屋から漏れる照明の明るさに反して重い緊張感が漂う空気の中、クルミはそっと澪に笑いかけた。


「やっほー、澪ちゃん。さっきぶりだね」

「……はい。ビックリさせちゃってごめんなさい、クルミちゃん」


 頷いてから顔を上げ、澪は申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。


「海斗さんも、わざわざ来てもらっちゃってすみません。……ご迷惑をお掛けしました」

「いやいや、どうせ暇してたからいいんだよ」

「そーそー。そんなこと言い出したら、あたしなんて海斗くんにお願いして着いてきてもらってるし」

「まあ、クルミはもうちょい気にした方がいいけどな」

「ええー……」


 海斗がクルミの軽口を揶揄うと、クルミは不満そうな声を漏らした。

 そんなやり取りを見た澪は、クスッと笑い、


「……じゃあ、とりあえず私の部屋で遊びましょうか」

「わあ、いいの? お邪魔しまーす!」


 クルミは嬉しそうに歓声を上げ、待ってましたとすぐさま澪の案内に従って室内の座布団に座り込んだ。


「ホント遠慮ないな、クルミ」


 この様子を見るに、ほとんど素でやっている。それで澪の固い表情をあっという間にほぐしたのだから凄いと思う。

 まあ、真似をしようとは思わないが。

 海斗が呆れていると、澪は海斗も入るように促してくれた。


「ふふっ。どうぞ、海斗さんも座ってください」

「あー、じゃあ……お邪魔します」


 おそるおそる部屋に入ってクルミの横に腰掛けると、澪が背後で扉をパタリと閉める音が鳴った。

 何気なく部屋の中を見ると、勉強机の隣に女の子らしい化粧台が置かれて、窓際のベッドに幾つかのぬいぐるみが並んでいる。

 海斗が慣れない他人の部屋に動揺していると、クルミがそれを目ざとく見抜いてきた。


「あ、海斗くん緊張してるー!」

「うっせ! しょうがねえだろ、慣れてないんだから」


 クルミの揶揄いに海斗が顔を赤くしていると、コンコン、と扉がノックされる音がした。


「あー……澪、私だ。お菓子とお茶を持ってきたんだが……」


 と、言い淀む亜紀の声。

 おそらく澪に会うには早いと思っているからだろう。

 それは澪の方も同じだろうが、お菓子とお茶は受け取らないといけない。

 そんな思考が表情から見えて、海斗は代わりに出ようと小さく手を挙げる。


「あ、俺が行くよ」


 澪を制止し、一番扉に近い海斗が腰を上げた。

 そっと扉を開けると、コップとお菓子をお盆に載せた亜紀がホッとした表情をしているのが見えた。


「ああ、キミか。すまないね。私はこれで出かけるから、よろしく頼むよ」

「分かりました。お菓子とお茶、ありがとうございます」


 そう言うと扉がパタンと閉められて、海斗は小さな机にお盆を置く。


「すみません、海斗さん」

「いやいや、いいよ。これぐらい」


 澪にそう返す間に、クルミが早速コップへと手を伸ばした。お茶をひと口飲むと、「ぷはー!」と気持ちのいい声をこぼす。

 それからコップを置き、クルミは真剣に、優しい瞳で澪を見た。


「それで? 澪ちゃんは、どうして怒ってたの?」


 クルミの真っ直ぐな瞳に、澪はふるふると首を横に振った。


「いえ、その……別に深い理由があるわけじゃないんです。お姉ちゃんを見てると不安になって、ついストレスが溜まってしまうだけなので……」

「ふーん……そうなの?」


 クルミはふっと視線を逸らし、チョコレート菓子を手に取る。それを横目に見て呆れながらも、海斗は口を開いた。


「……本当にそれだけか?」

「…………」


 クルミの手が止まり、澪も無言のままで何も言わない。

 やっぱり間違ってたかな、と少し不安になりながら海斗は言葉を続ける。


「……正直、それだけの理由でお姉さんが驚くほどに怒るってのは、正直ちょっと考えにくいけどな」


 澪も慣れていると言っていたのに、姉である亜紀が初めてだと言うほど怒る。決してあり得ない話ではないのだが、どこか違和感が拭えない。

 とはいえ、海斗は姉妹の関係性を知らないため、正確なことは分からないのが現状だ。ただ、それは無理矢理に聞くような話でもないし、ここからは澪の個人的な事情にすぎない。


(……これ以上は聞けないな)


 海斗は数秒の沈黙のあと、そう判断して丁寧に頭を下げた。


「澪さん、俺の勘違いなら悪かったな」

「えっ……いや、その……」


 澪は迷うように視線を左右に揺らし、それから一度顔を伏せると意を決したように口を開いた。


「……その、実は……私、見ちゃったんです」

「『見ちゃった』? あ、お化けとか?」


 クルミがチョコレート菓子を口に頬張りながら澪の言葉を茶化し、重苦しい雰囲気がわずかに柔らかくなる。

 まったく呑気なものだと海斗は思った。

 わざとかそうでないのかはよく分からないが、チョコを食べすぎていることだけはハッキリとしている。

 そんなクルミに呆れた目を向けていると、澪はようやく肩の力を抜いて笑みをこぼし、静かに首を横に振った。


「いえ、見たのは私のお姉ちゃんですよ」

「お姉ちゃん? って、さっきの亜紀さんだよね?」


 クルミが不思議そうに確認を取る。

 海斗も怪訝に思っていると、澪は「ええ」と頷き、その出来事を思い起こすようにそっと目を瞑った。




 事の発端は数ヶ月前、とある深夜のこと。

 ベッドで眠ていた澪はふと目を覚まして、枕元の携帯電話を手に取った。

 時刻は午前二時過ぎ。

 まだ朝までは四、五時間あると気づき、そのまますぐに目を閉じる。しかし喉が渇いているせいか、なかなか寝つけない。

 澪は仕方なくあくびをしながら起き上がると、部屋を出て台所に向かった。そして何気なく階段の照明をつけようとして、


「あれ?」


 と、思わず声を上げてしまった。

 いつもは真っ暗なはずの階段が妙に明るいのだ。

 どこかの部屋の照明を消し忘れているのかと思って階段を降りていくと、リビングから照明の煌々とした灯りが漏れていた。

 しかも室内からは誰かの声まで聞こえて、澪は背筋がゾッとした。

 こんな丑三つ時とも言われる時間に家族が起きているはずがないからだ。

 澪は気味悪さと恐怖に固まっていたが、よく耳を澄ましてみると、それは姉である亜紀の声だと気づく。


(なんだ、よかった……)


 つい安堵の息をこぼしながら、澪は興味本位でリビングの扉をそっと開けて室内を覗き見る。

 そこには思った通りに亜紀がいて、何か勉強しているようだった。

 ダイニングテーブルの一面には、重要そうな書類が並んでいる。

 相当に集中しているのか、澪には気づくことなく、ぶつぶつと小声で呟いているのが分かった。


「うーむ……やはりこのままでは足りないか。私一人でなんとかなればよかったのだが、仕方ない。借金を……いや、その前に──」


 澪は思わず息を呑んで口元を押さえた。


(……お、お姉ちゃんが借金って……!)


 亜紀のとんでもない言葉に、澪は今までにないほど大きく動揺しながら目を見開く。

 まだ呟いていた亜紀の言葉も聞こえなくなって、澪の余裕は一瞬のうちになくなった。

 飲み物を撮りに来たことも忘れて、逃げるように自分の部屋に戻る。

 そして頭から布団をかぶり、眠気もすっかり吹っ飛んだまま。

 澪は混乱した思考回路を、ひたすらに回し続けた。

 しかし、元来怠け癖はあっても研究者気質で優秀な姉だ。

 そんなはずがない、と澪は思った。

 とは言っても、さすがにもう一度確かめる勇気はなくなっている。

 それに何より、澪はすでに知ってしまった。

 自分の姉がいかにも重要そうな書類の前で、『借金』という二文字を呟いたことを。

 その光景を見た翌日から、亜紀がずいぶん忙しそうな生活を送るようになったことを。

 そうして訪れたのは、姉と二人で顔を合わせて話す機会も減り、かといって直接聞く勇気も出ない日々。

 結果として澪は次第に否定したくてもできなくなってしまったのだった。






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