第3話 ものぐさお姉さんは猫を飼いたい

「じゃあ、その猫ちゃんは私がもらってもいいかい?」


 海斗たち三人の騒ぎ声を聞いていたのだろうか。いつの間にか成瀬家の玄関先に、丸メガネで長身の女性が立っていた。

 クルミがどこか不安そうな表情で耳打ちしてくる。


「……あの人、海斗くんの知り合い?」

「いや、俺も知らない。澪さんのお姉さんじゃないか?」

「え、そーなの?」

「ああ。たぶんだけどな」


 まったく近所付き合いのない海斗だが、さすがに赤の他人が玄関から出てくることはないだろう。突然のことでクルミもそれなりに混乱しているようだ。

 すると澪が後ろを振り向き、驚いた様子で問いかけた。


「お姉ちゃん? 最近土曜日でも早起きしてるね」

「ああ、出掛ける準備があるんだよ」


 と、堂々と腕を組んでいる女性。

 しかし、その服装はなぜかパジャマのままだ。

 心なしか自分の姉を見つめる澪の視線も呆れたものに変わっている。

 すると、姉妹二人の会話を聞いていたクルミが「え?」と不思議そうに小首を傾げた。


「ホントにお姉さんなの?」


 姉妹を見比べるように澪を見て、それから長身の女性を見る。

 それを何度も繰り返すのを目の当たりにして、澪はクルミの視線の先が自分達の顔より高いことに気づいたようだ。

 ジトッとした目でクルミを睨み、澪は確認を取るように問いかける。


「……クルミちゃん? なんか、私とお姉ちゃんの身長差を見比べてません?」


 すると、クルミはなぜか澪を応援するように拳をぎゅっと握り締めた。


「だ、大丈夫だよ! まだギリギリ成長期だもん!」

「別にそこまで悩んでませんけど⁉︎ ──それよりお姉ちゃん、いつまでパジャマ姿で腕組みしてる気なの? 恥ずかしいから、さっさと着替えてきて!」

「む、そうだったね」


 眉を吊り上げて怒る澪に対し、女性は呑気なものだ。

 慣れた様子で返事をして、家の中へと引き返していく。


「……アホが多いとツッコミも大変だな」


 海斗は、ポツリと独り言を呟いた。

 もはや野次馬でしかなくなってきた海斗にとって、目の前の光景は他人事でしかないのである。とはいえ、たとえそうだとしても澪の状況はつい同情してしまうほど混沌としているが。

 さすがに可哀想に思っていると、家の中に入っていったはずの女性がなぜか再び戻ってきた。……パジャマ姿のままで。


「ああ、そうそう」


 思い出したように声を上げ、澪に告げる。


「私、近々彼氏と同居するんだが、その時に猫を飼いたくてね。だから今のうちに、その子の飼い主に立候補しておくよ」

「…………えっ?」


 その言葉に、澪は口をポカンと開けて硬直した。


(……あ、まだ聞いてなかったんだな)


 海斗がそう察する中、すぐにハッと意識を取り戻した澪は自分の姉に訴える。


「ちょっ、お姉ちゃん⁉︎ 私、それ初耳なんだけど⁉︎」

「はっはっは。そのうち名前『成瀬亜紀』から変わるかもしれないねえ」


 どこまでも呑気な態度で手をひらひらと振り、家の中に去ろうとした亜紀の肩を掴んで、澪は酷く慌てた表情で叫んだ。


「いや、待って待って! え、大丈夫なの? 色々と! お母さんには言ってあるんだよね⁉︎」

「いや? 冗談混じりに伝えはしたが、ちゃんと伝えることはしてないな。ちなみに引っ越しは来週だから──」

「じゃあ今すぐ伝えて来なさいよ、このアホお姉ちゃん! 猫の飼い主に立候補するより、そっちの方が断然先でしょ⁉︎」


 叫びながら、澪は不機嫌そうに眉を歪める。

 そんな澪の言葉に海斗も大きく頷き、それと同時に本当に大変そうだと深く同情した。

 クルミの言葉に揺らいでいたのはなんだったのか。

 あれが嘘だと思うほどしっかりした姿を見せる澪の一面に、クルミも驚いたように目を見開いている。

 しかし、澪の怒りはいまだ収まらず。


「ていうか、そんな報告もできない人が猫飼おうとしないでくれる⁉︎ そのうち絶対ご飯あげるの忘れるから!」

「ああ、報告は元々今日する予定だったから心配いらないよ。彼氏はもっと早くにと以前から言っていたんだがね」

「え……?」


 澪が戸惑った様子で声を漏らした。

 クルミも海斗と同じく首を傾げ、『じゃあなんで?』という顔をしている。

 亜紀と初対面にも関わらず海斗にもなんだか嫌な予感、というより確信が生まれて、澪はおそるおそるといった声音で問いかけた。


「……じゃあ、なんでこんなに遅くなったの?」

「私が面倒臭かったからだ」


 亜紀は恥じることなど存在しないと言わんばかりに胸を張り、そう即答した。

 海斗とクルミ、そして澪の声が重なる。


「…………えっ?」


 思わず絶句し、澪は口をポカンと開けてから。


「はああああっ⁉︎ そんな理由で⁉︎ このアホお姉ちゃん、ついに常識まで忘れたの⁉︎ この、この!」


 叫びながら、澪はヤケクソになって亜紀の着ているパジャマの胸元に両手で掴みかかる。

 服が乱れてさりげなく顔を逸らす海斗だが、それでもはっきりと姉妹二人が揉める声が聞こえてきた。


「やめっ、やめたまえ! 服が! 服が破れるから!」

「どうせ常識なんて持ってないんだから、別にいいでしょ! だったらいっそ、原始人からやり直してみなさいよ! そしたら社会のありがたみも今より分かるから!」


 よほど錯乱しているのか、澪の言葉はめちゃくちゃだ。

 原始人になれってなんだよとツッコミたくもなるが、しかし。亜紀の呑気な態度を見ていたせいか、たしかに……と深く納得できてしまう自分がいた。

 そんな錯乱する澪を心配そうに見つめて、クルミがそっと声を掛ける。


「あ、あのー、澪ちゃん?」


 最初は「何よ⁉︎」と眉を吊り上げて怒った澪だが、クルミが肩をビクッと跳ねさせたのを見てハッと我に返る。


「……あっ。ごめんなさい」

「だ、大丈夫? その、色々と……」

「はい。まあ、割ともう慣れちゃってるので……」


 海斗がそろそろいいだろうと逸らしていた顔を戻すと、澪は遠い目をしながら苦笑を浮かべていた。


(……ああ、可哀想に)


 思わず手を合わせたくなったが、さすがにそれは我慢しておく。

 コホンと澪が咳払いして亜紀を睨み、今度はその亜紀が肩をビクッと震えさせた。


「……それで? アホお姉ちゃんは、まだ猫を飼うつもりなの?」

「あ、ああ。もちろんだ。何、猫の育て方は色々聞いたり調べたりしてきたし、私一人で育てるわけでもないんだ。彼氏も猫を飼った経験があるから、そこまでの心配はしなくていいと思っているよ」


 亜紀はパジャマの外れた第一ボタンを留め直しながら、どこまでも楽観的に言う。

 それに反して澪は表情を険しくして、ついには叫びを上げた。


「絶っ対にダメ! お母さんが許しても、私は反対するからね!」

「し、しかし、いつかは飼いたいと思っていたことだし、そのための準備もしていたんだ。だから──」


 厳しい声で反対する澪に、亜紀は困った様子で狼狽する。

 そしてどうにか澪から許しをもらおうとしていた亜紀に対し、澪は強い口調で言葉を投げかけた。


「いいわけないでしょう⁉︎ 何考えてるのよ!」


 これには海斗とクルミも戸惑いながら仲裁に入る。


「お、おい。言ってることはよーく分かるけど、一旦落ち着いたらどうだ?」

「そ、そうだね。澪ちゃん、その言い方だとお互いに傷ついちゃうよ?」


 クルミも心配そうに声を掛け、澪はハッとして俯いてしまった。


「……ごめんなさい。でも、私は反対だから」


 それだけ言って、澪が逃げるように玄関へと走り出す。


「澪……っ!」


 焦りながら呼び止めようとした亜紀の横をすり抜けて、その声には見向きもしないまま。

 あっという間に、家の中へと姿を消していった。

 ニャー、と混乱の中で存在を忘れられかけていた黒猫もどこか寂しそうに鳴き声を上げる。


「…………まいったな。ここまで怒ってる澪は初めて見たかもしれない」


 どうやら亜紀も困惑しているようで、頭をがしがしとかいて深いため息をついた。

 そりゃそうだろ、と言いたいところなのだが、今の澪の様子は初対面である海斗から見ても変だったように思う。

 クルミも同じ感想を抱いたようで、不安と心配が混ざったような表情で黒猫の頭を撫でて、成瀬家の玄関をじっと見つめていた。


「キミたち。本当に申し訳ないのだが、私の代わりに澪から話を聞いてみてくれないか? これから大事な用があるし……何より、私には話しにくいこともあるはずだ」


 もちろん断られたら私がなんとかするが……と亜紀は苦々しい表情で言葉を詰まらせる。

 あの澪の様子を見て、逆効果になりかねないことを自覚しているのだろう。

 そんな亜紀の言葉に、クルミは笑って快く頷いた。


「うんっ、いいよー! あたしも澪ちゃんと話したいもん!」

「……そうか、それは助かる。しばらく忙しいから、その状況が落ち着いてからにはなってしまうが、いずれ近いうちに私も澪と話をするよ」


 いまだにパジャマ姿の亜紀は、力のない声音でそう言った。


(……にしても、そんな格好してると締まらねえな)


 そう他人事のように思っていると、クルミが海斗を見て声を掛けてくる。


「はーい。じゃあ行こっか、海斗く──」

「あ、俺は行かないぞ?」

「…………ほぇ?」


 海斗が言うと、クルミは口をポカンと開けて呆然とした。


「え、ここまで話聞いてたのに⁉︎」

「そりゃそうだろ。大体、俺みたいな男が行っても困惑されるだけだろ」


 それに、こういうことはクルミのような人の方が適任なのだ。

 そう考えての発言だったのだが、クルミは納得がいかなかったようだ。ムキになったように海斗の腕を掴んで引っ張ってきた。


「もー、いいから行くよー! ほら、はーやーくー!」

「イテテッ! おい、ベランダから出そうとすんな! 分かった、分かったから!」


 海斗は堪らず降参してクルミに腕を離してもらうと、ベランダのフェンスに当たった脇腹をさする。


「つーか、俺なんか連れてってどうすんだよ! 言っとくけど、なんもできねえからな?」

「いーから行くの! あたしはキミがいなきゃ嫌なんだから! そーじゃないと……」

「そうじゃないと?」

「毎日欠かさず海斗くんの家に行って、『ダーリン起こしに来たよ!』って叫んじゃうから!」

「あんた、ホントにタチが悪いな⁉︎」


 海斗の状況を知っているのかと疑ってしまうほどだ。


(よりにもよって、選ぶのがそれって!)


 そしてさらに恐ろしいのが、クルミならば本当にそれを実行しかねないという予感があることだ。

 海斗は思わず額に手を当てて、ため息をついた。


「ったく、しょうがないか。……ま、このまま澪さんとクルミを放っとくのも寝覚めが悪くなるしな。ちょっと待ってろ。今行くから」

「うんっ、ありがとー! あっ、あたしは猫ちゃんを家に戻してくるねー」

「はいよ」


 海斗はクルミが自分の自宅へと引き返すのをチラリと眺めてから、家の中へと踵を返す。

 すぐにマンションの外に出ると曇り空が広がっていて、玄関前では亜紀が変わらず険しい表情のまま立っていた。

 やがてクルミも自宅から出てきて、嬉しそうに手を振りながら駆け寄ってくる。


「あ! 海斗くーん、お待たせー!」

「おう。じゃあ、早速行くか?」


 クルミと合流して二人で澪を追いかけようとすると、亜紀が言い淀みながらも真剣な表情で声を掛けてきた。


「その、二人とも。すぐお茶とお菓子は持っていくが、私にはそれ以上のことができない。……情けない姉で申し訳ないが、澪のことをよろしく頼む」

「はい。任せてください」


 そう返事をした海斗は、クルミと成瀬家の玄関に入る。ふと後ろを見ると、亜紀がまだ丁寧に頭を下げていて、海斗は少しだけ驚いた。

 おそらく何もできないのがいた堪れなくて、悔しいのだろう。


(なんだ。この人、しっかりお姉さんやってるんだな)


 海斗は安心してふっと笑みを浮かべると、クルミのあとを追いかけた。






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