第2話 お向かいさんと黒猫の誘惑

「ん? あいつ、昨日の……この辺に住んでたのか」


 その翌日。洗濯物を干そうとベランダに出た海斗は、向かい側の一軒家から出てくるクルミの姿を目撃した。

 ちょっとした偶然に驚きながら、タオルや靴下を干していく。

 すると、ニャーという猫の鳴き声が聞こえて再びそちらを見てみると、クルミが昨日の黒猫を腕に抱いて歩いていることに気づいた。

 抱き上げ方が気に入らないのか、黒猫が嫌がるように身をよじらせているものの、さすがに逃しそうな気配はない。

 猫と散歩でもしているのだろうが、珍しいことをするものだ。

 なんとなく気になって、海斗は何度も手を止めて横目で見た。そのうち、クルミは黒猫を連れたまま隣の一軒家に入っていく。

 不思議に思ってそのまま眺めていると、その家からポニーテールの少女が出てきて何かを話し合う声が聞こえてきた。


「はい、どちらさま──って、あなた、お隣さんの……」

「うんっ! 来宮クルミだよ! キミは成瀬さんで合ってる?」

「え、はい。成瀬澪です。……可愛い猫ちゃんですね。ちょっと嫌がってますけど」


 澪はクルミの元気な声に押され気味で返事をすると、黒猫に視線を送りながらくすっと苦笑を浮かべた。

 クルミが図星を突かれたように肩を震わせ、


「うっ……そーなんだよねー。まだ拾ったばっかりだからかなぁ?」

「え、拾ったんですか? この辺じゃ珍しいですよね?」

「あ、やっぱりそうなの? あたしも捨て猫なんて昨日初めて見たよー。……まあ、可哀想だからって拾ったら、電話でママに散々怒られたけど」

「でしょうね……」


 肩を落として落ち込むクルミに呆れ笑いをこぼし、澪は何かを察したような口調で言う。


「……あの、私の家だと猫は飼えませんよ? 姉はともかく、母が猫嫌いなので」

「あー、そっかぁ……」


 クルミが声のトーンを落としたところで洗濯が干し終わり、海斗は聞き耳を立てるのを止めた。


「……さて、宿題でもやるかな」


 カゴを戻しに家の中に入ると、外で話しているであろうクルミのことを気にしすぎないように問題集を開く。

 そうしてペンを持って机に向かったが──その数分後。


「あーもう、ダメだ! 気になって集中できん! 一旦様子でも見てくるか」


 海斗はペンを持ったまま伸びをして、ダイニングテーブルの椅子から立つ。きっともう話は終わっているだろうが、それを見れば勉強に集中できるはずだ。

 そう思って休憩ついでにベランダまで出ていくと、クルミのわざとらしい笑い声が聞こえてきた。


「ふっふっふー、いいのかなぁ? この猫ちゃん、まだ名前もないんだよー?」


 この数分間に一体何があったのか、得意げに胸を張るクルミは明らかに澪より優位に立っている。


(おい、普通はクルミがお願いする側だろうが。立場を逆転させるな、あのアホ。……つーか、どうやったらそうなるんだか)


 とはいえ、そんなのに釣られるわけ……と思って見ていると。


「じゃあ、私がこの子の名前を決めるチャンス……?」


 澪があっさりとクルミに釣られて、海斗は呆れてツッコミを入れてしまう。


「チョロいな、おい」


 海斗の声が聞こえたようで、澪がハッと我に返る。クルミも同じく反応し、


「あー! 誰かと思ったら海斗くんじゃん! もー、せっかくチョロ……優しい人がもらってくれそうだったのに邪魔しないでよー!」

「意外とタチ悪いな、あんた……」


 言いながら、海斗はベランダを囲むフェンスに軽く肘をつく。クルミと澪の二人を呆れて見ていると、澪がむっと顔をしかめて抗議してきた。


「あの、ちょっと! 私、別にチョロくないですからね⁉︎ くーるびゅーてぃーな乙女ですから!」

「…………」


 いやぁ、それは……と海斗はクルミと顔を見合わせ、そっと澪から目を逸らす。


「そこで目を逸らさないでくれます⁉︎」


 どうやら海斗とクルミの沈黙が無視できなかったらしい。自慢げな表情をしていた澪は、キレのいいツッコミを入れてきた。

 この時点で、すでに彼女の言うクールビューティーとは遠いような気はするが、


「……まあ、自分でそう思ってるならいいと思うぞ?」


 と、海斗は穏やかに微笑む。

 さすがに他人の夢を壊すのは可哀想だ、という思いやりのつもりだったのだが、澪は何かを察してしまったらしい。


「そんなにですか⁉︎ ……あの、冗談半分なので勘弁してください」


 叫んで、澪が降参する。

 それを見ていたクルミが黒猫を抱えたまま海斗のいるベランダに駆け寄ってきて、「ねえ、海斗くん」と悪戯っぽく囁いてきた。


「なんだよ、クルミ」

「澪ちゃん、今『冗談半分』って言ったよね?」


 その言葉に海斗も思わず口角を上げる。


「そうだな。でも、そろそろこの辺にしてやらないと……ほら」


 海斗がベランダから澪に視線を戻すと、クルミも振り向いて背後を見た。


「……私、初対面の人になんでこんなこと言われてるんだろう?」

「あ、ホントだ。真っ白になってる……」

「ありゃ、燃え尽きてるな……」


 と、海斗はクルミと顔を見合わせて苦笑する。

 その声が聞こえたのか、澪は勢いよく顔を上げて叫んだ。


「もう! 息ピッタリで私を仕留めに来たんですか⁉︎ ずいぶん仲がいいんですね!」


「へ? あたしと海斗くん、まだそんなに話したことないよ?」


 しかしそんな澪のヤケクソのような声に対し、クルミはきょとんと小首を傾げている。


「そうだな。……まあ、すれ違ったことがあるかもしれないぐらいか」

「さあ? どうだろうねー?」


 そう言ってクルミはとぼけているが、実際それぐらいしか会ったことはないだろう。いや、もしかするとすれ違ったことすらないのかもしれない。

 というのも、クルミほど綺麗な外見をしている人物を見たらよほどのことがない限り忘れられないと思うからだ。

 しかし、海斗の記憶に彼女の姿はない。

 つまりはそういうことだろう。


「じゃあ、よっぽど相性がよかったんですね。……悪い方向に、ですけど」


 澪は拗ねたように、ぼそっと小声で嫌味を付け足した。

 最後の言葉が聞こえていなかったのか、クルミが嬉しそうに微笑む。


「そーかもねー。──ところで、澪ちゃん」

「なんですか?」


 怪訝そうな澪に対して、クルミは柔らかい声音でお願いを告げた。


「この子はやっぱり、澪ちゃんに飼って欲しいな。あたし、ママに『お世話忘れるでしょ』って言われちゃってるもん」

「あ、なるほど……それでか」

「……まあ、妥当な判断でしょうね」


 うんうん、と海斗は澪としきりに何度も頷いた。

 クルミが少しむっとする中、澪は海斗の方を向いて尋ねてくる。


「でも、そちらの……海斗さん、ではダメなんですか?」

「ああ、それは……」

「あたしもそう思ってたんだけどねー。見ての通り、海斗くんはマンションで一人暮らしだから。色んな負担も増えちゃうし、そもそも飼えるかが怪しいんだと思うよ」


 海斗が答えようとすると、クルミが先に答えてくれた。


「へぇ、もう一人暮らしって……凄いですね」


 感心したように声を上げる澪に、海斗もつい照れてしまう。

 思わず顔を赤くしていると、クルミが残念そうに「あーあ」と声を漏らした。


「そーじゃなかったら今頃、海斗くんの家に突撃してたのになぁ」

「突撃しようとすんな、このアホ」


 言いながら、海斗は目の前のクルミに手刀を振り下ろす。

 しかし動体視力が優れているのか、軽く放った手刀はクルミにあっさりと避けられてしまった。と、その時。


「──じゃあ、その猫ちゃんは私がもらってもいいかい?」






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