03 藤堂都築という青年

「どうしたの、咲綾ちゃん?」


 二時間目の終了のチャイムが鳴っても、ぼんやりとしたままだった咲綾にやわらかな声で智花が尋ねた。

 ころりと掌の上で転がった赤い鈴に咲綾の視線が注がれている。それに智花も気がついたらしい。


「さあ……わたしも何がなんだか」


 指でつまんで振ってみても音が鳴らない。鈴のような形状をしているだけで鈴ではないのかもしれない。咲綾が坂道で出会った不思議な青年のことを話すと、智花はまあ、と頬に手をあてて驚いていた。


「落とし物、らしいんだけど――わたしのものでもないし、交番に届けないとだよね」

「そうね……放課後、私も一緒についていくわ」

「ありがとう……! 智花、大好きっ!」


 やれやれと苦笑する智花と共に更衣室に向かった。次の授業は体育なのである。考えながら咲綾は憂鬱になった。

 咲綾は走ることは結構好きだ。運動部どころか文化部にも所属していない帰宅部だけれど、五十メートル走では陸上部の子よりも速いタイムが出ることもある。けれど球技はからっきし、駄目なのだった。特にボールだけではなくラケットやバットなどの道具を使う競技が。


 あ。


 ぱっこーん、といっそ小気味いいほどの快音を鳴らして、テニスラケットで打ち抜いたボールが高く上がる。

 ペアを組んでいた智花が「あら」とおっとりした顔つきで放物線を描いたボールを見送っている。まずテニスコートに入る前に「軽く」打ち合うはずだったのだが妙に力が入ってしまったそれは高く高く打ちあがり、校庭の端の方へと飛んで行ってしまった。


「ごめーん、取って来るね!」


 テニスコートの脇から飛び出して、咲綾はボールが消えた方向に駆けだした。不器用を絵に描いたような自分に時々嫌気が差す。

 どうして体育は走るだけじゃなくて球技をさせるんだろう。バレーボールにしても、周りに迷惑をかけているという心理的圧力で胸が苦しくなる。いまだって、智花に迷惑をかけてしまった……と考えているあいだに、ボールが飛んでいったあたりまで来ていた。

 茂みを探すがそれらしきものは見当たらない。まさか、と目の前の高いフェンスを見上げる。これを越えてしまったのだろうか――だとしたら、ちょっと、いやかなり面倒くさい。

 このフェンスの向こう側は鷺宮学院の敷地ではない。隣り合わせで建っている伍菱高校のグラウンドなのだ。見つかりませんでした、と体育教師に謝る方がよっぽど簡単なのだが、咲綾の眼はグラウンドの端にぽとりと落ちたテニスボールが目に入っていた。

 無視することはさすがに出来ない。しゃがみこんで、フェンス下の隙間から手を挿し入れようとするが、どうしても届かない。ああ、もうっ。


「どうしたの」


 涼やかな声が耳朶を打ち、咲綾はハッと顔を上げた。

 朝、咲綾に声を掛けてきた青年が体操着姿でそこに立っていた。校章入りの紺のジャージなんてダサいはずなのに、スポーツブランドのものであるかのように不思議と着こなしている。えっと、と口ごもっているあいだに足元に転がるテニスボールに気が付いたようだった。


「ホームランしちゃったんだ」


 青年はくすくすと軽やかな笑い声を上げながら屈んでテニスボールを拾い上げた。

 行くよ、と声を掛けてからボールをひょいと投げる。弧を描き、フェンスを飛び越えたそれを咲綾は慌てて捕まえた。


「おお、ナイスキャッチ」

「ありがとうございます!」


 ぺこりと頭を下げると、気にしないで、と青年は爽やかに微笑む。何故だか急に頬がかあっと熱くなった。


「役に立ててよかった。それじゃ」


 その場から立ち去ろうとした彼を、あの、と咲綾は思わず呼び止めていた。振り返った青年の表情は、まるで呼び止められることがわかっていたかのように静かに凪いでいた。


「……覚えてないかもしれないですけど、今朝、わたしに」


 ――鈴を渡しましたよね。あれ、わたしのじゃありません。


 そう言おうとしたのに、すっと彼に見つめられると言葉に詰まった。

 青年は咲綾のことを見透かすような目を向けている。


「あれは君が持っていて。もう君の色に染まっている」

「えっ? でも……」

「お守り、だよ」


 秘め事を口にしたかのように、唇に人差し指をあてて青年は言った。


ものを遠ざけるお守り……いまの君には必要なものだ」


 戸惑う咲綾に、青年は「君の名前を教えてもらってもいいかな」とやわらかな声で問うた。答える必要なんてないはずなのに、勝手に唇が動いている。


「咲綾、です。梛野咲綾なぎのさあや

「……咲綾ちゃん。いい名前だね」


 緑のフェンスに指をひっかけるようにして、顔を境目に近づけると青年は囁くように言った。


「僕は都築。藤堂都築とうどうつづき


 フェンス越しに見る都築はすこし屈んで、咲綾と目線を合わせる。たったそれだけのことで動悸が止まらない。テニスボールを握り込んだ掌に汗が滲むのがわかった。


「ねえ咲綾ちゃん。どうか、僕のパートナーになってくれないかな」


 フェンス越しに見える伍菱高校のグラウンドの向こうから「おい、藤堂」と彼を呼ぶ声がした。


「いま行くよ――じゃあまたね、咲綾ちゃん」


 ひらりと振られた都築の手を茫然と見つめながら、咲綾は考え込んでいた。


 ――パートナー、ってどういう意味なんだろう。


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